10 夜明けに向かう船
記号の修正をしました
報告は急ぎたいが、この村を訪れた目的も果たしたい。ショノアは〝夜明けの日〟にこの村から船が発ったという話について聞いていた。
「あの船が本当にその船だと言うのなら、次の季節にはあの〝夜明けの日〟から十年ですからこの村でも盛大にお祝いしたいところですが…」
村長は懐疑的だ。確かに船が出航した場所は「ここからだ」と主張する者が数いる中でこの村の規模は小さい。
「お恥ずかしながら、当時この村は壊滅状態でした。海は時化て、魔物もおり、天候不順で作物も望めない。我々は生き残るために村から避難することにしたのです。残ったのはこの村で死ぬと言って聞かない頑固者くらいで」
「その方はご存命か」
「ひとりおります。話してくれるかはわかりませんが、案内させましょう」
村の若者について浜へ移動する。潮が引いた砂地で数人の子供がせっせと貝を漁っていた。
一度は住民に打ち棄てられた村、町からも離れ、交通の便も悪く、自給自足が基本になり、外資は得にくい。町やもう少し町に近い村の方が仕事は多いため、避難したまま戻らなかった者も少なくないようで村の住人、特に若者、子供は少ない。崩れたまま片付けられていない家屋も散見された。子供達の賑やかな声で溢れるようになるのはまだまだこれからなのだろう。王都や港町では感じられなかったうら寂しさがある。それでもこの村には人が戻っている。十年前までに消えた村は数知れない。
「おーい、おやっさん。例の船について聞きたいって人が」
浜には大きな岩に腰掛けて海を見つめる老人がいた。よく日に焼けた肌、潮風に晒されて皺が深い。
その背後には浜に引き上げられた船がある。小型で数人も乗ればいっぱいの漁船だ。木が朽ちそうな古さで壊れた箇所もあるのに、岩で流されないようにしてあり、周囲に柱を建てて屋根までかけてある。
「あの、ご老体。〝夜明けの日〟にこの浜から船が出たというお話についてお聞きしたいのですが」
老人がショノアを横目で見遣る。その目は開いているかどうかもわからない程に目蓋に埋もれている。
「話はせん、と約束した」
取り付く島のない対応だ。
「御仁、この船に祀られた精霊にご挨拶をしてもよろしいでしょうか」
サラドがしゃがんで老人の顔を覗き込んだ。片眉が上がり、落ち窪んだ目蓋が薄く開く。
船体には徳利と葉をつけた枝が飾られ、小さな家のようなものが置かれている。
老人はサラドに顔を向け、数秒考えた後ゆっくり立ち上がって小さな家の扉に手を伸ばした。中には内側が銀色でテラテラと虹色に輝く大きな貝が置かれている。遙か南の海で採れる美しい貝だ。その加工品は交易でもかなり高値で取引されている。こんなところに置かれているには不釣り合いな宝物に見えた。
サラドは老人にペコリと頭を下げると船に跪き胸に手を置いた。伏せた目を開けると宙を見てにこりと微笑み、声は出さずに唇が語るように動く。
その様子を見ていた老人は自分も手を組んで顔を伏せ祈る素振りを見せた。
「御仁、良かったら独り言など聞かせてくれませんか。…思い出話がいいですねぇ。同じくその日をこの地で迎えた者として」
老人はサラドの手を両手で包み額につけた。岩に腰をおろし、おもむろに口を開く。
「海は何日も荒れ狂い、黒い雲がどんどん膨らんでいった。あの日、わしは渦巻く雲の隙間に真っ黒な裂け目ができたのを確かに見たんじゃ」
「黒い…裂け目…」
ニナが目を見開き、絞り出すような声で呟いた。明らかに動揺していて手が小刻みに震えている。
「そうじゃ。まるででっかい目じゃ。薄目で睨まれたみたいじゃった。すぐに黒い雲に覆い隠されたが風が吹き荒れ、雷が幾つも落ち、海の水が巻き上げられていったのはそのすぐ後じゃ。
余所から来た若い男たちが、船を貸して欲しいと言ってきた。あの海に出て行こうなんぞ正気の沙汰じゃない。だがどうしてもと言うし、もうこの船も村もなにもかもあの裂け目に吸い込まれるのも時間の問題だで、好きにしろ言うた。
船はすぐに大波で転覆してしまうと思ったが、逆に波に乗るように、海ではなく空を飛んでいるみたいに黒い大きな柱の如き雲の中に消えて行った。
どれくらいの時間が過ぎたかはわからん。ずっとあの雲を見ていた。空が晴れ光が差した時はもう…」
つい先日のことのように語る老人がぐすりと鼻を鳴らした。まだサラドの片手を握ったままの骨張った手をもう片手で宥めるようにポンポンと優しく叩く。
「あの光は…綺麗でしたよねぇ」
巨大な黒い雲、幾千万の雷、竜巻、海でうごめく無数の魔物、その恐怖。そして晴れ渡る空、光の柱、凪いだ海、消えゆく魔物、その希望。それらは吟遊詩人の詩〝夜明けの日〟で有名だ。
ショノアもその日の記憶がある。空が何日も暗い厚い雲に覆われて昼も夜もわからなくなっていた。その日は雷鳴も轟き風も強く、飛ばされた物が屋根や壁にぶつかり激しい音がたっていた。厩の中で一番神経質で臆病な馬が暴れて怪我をしないよう馬房の傍で馬丁と共に宥めていたのを覚えている。風が止み静かになった外を覗いて見ると金の縁取りをした白く輝く雲の合間から幾筋もの光が差していた。細くたなびく雲は霞となって青い空へ溶け込むように消えていく。その美しさと清々しさは忘れ得ぬ情景となった。
あれからやっと十年。人によってはまだ十年なのか。
「船は帰ってきた。壊れたことを詫び、お礼にとこの貝をくれたんじゃ。それからわしは海の安全を祈って、水と風の精霊さまと一緒に拝んでおる」
「ご老体、それでその若者達というのはどんな人だったのでしょうか」
「それは話さないと約束した」
指示書にはその『人』について聞くようにと記載があったが、無理に聞き出すな、ともある。老人の態度は頑として譲らない。ショノアは話を引き出してくれたサラドに目配せしてみたが、彼は俯いて目を伏せ緩く首を振った。ショノアにはこの老人の心を開くことなど無理だとすぐに悟り、諦めることにした。船を貸したという人物から直接話を聞けただけでも僥倖だ。
「精霊たちも喜んでいます。どうぞ長生きなさってください」
「死ぬ前に彼らにもう一度会って礼を言いたい。あの時は何もできず見送ってしもうた」
「うん…会えるといいですね…」
海面が陽の光を乱反射してキラキラと光る。陽射しを背後にしたサラドの黒髪の毛先が赤く透けていた。
村での聞き込みでも『魔王』は影も形もなかった。
沖に出た船が大きな魚影を見たとか、森の奥で普段聞かない獣の鳴声がした程度の話はあったがどれも実害は出ていないようだった。何時でもありそうな話ばかりだ。
情報収集の際ショノアは人目を避けて林に入り、ひとり離れた場所で荷物からある魔道具を取り出した。出発する際に渡されたもので、ふたつで一揃いの片方、離れていても双方間の連絡が可能になる。これもかなり貴重な宝物だろう。この魔道具の存在も極秘のため、コソコソとしなければならない。
なるべく手短に小鬼の討伐と、サラドの報告したその出現への疑問、『魔王』については「噂なし」とだけを記入した紙を丸めて筒状の魔道具に詰める。ここまでの経緯を報告書にまとめる時間もなく、文章を長くするとその分時間が余計にかかると説明されていたので詳細は後日にした。
複数回使用すると魔道具の魔力も切れ、再び魔力を補充しなければならないそうだが、その際はどうすればいいのだろうか。魔術師として参加しているサラドには頼めない。それまでには宮廷魔術師団所属のきちんとした、この秘密を共有できる者が交代で来ればいいのだが、と考えショノアは眉根にぎゅっと力が入るのを感じた。
宮廷魔術師団は鼻持ちならない老叟たちが役にも立たない研究ばかりしている穀潰しだという上官たちの評価をショノアも鵜呑みにしてきたところがある。仮に交代で来るとすれば思い当たる人物はひとりいる。その男を思い浮かべ、もやもやと不愉快な気分が胸に広がる。
「おーい、ショノア」
呼ぶ声が聞こえ、ショノアは宝石の嵌め込まれた豪奢な筒をしまい、急いでみんなの元に戻った。
「時間は余計にかかるけれど、昨日の道は避けて、別の村を経由して街道に戻ろうかと。ここでは辻馬車は呼べないし、ついでに様子も確認しながら行こう」
出発前にサラドは細長い布を出して足首から脹脛にかけて絞り上げるように巻く方法をセアラに教えていた。脚には直接触れないように実演して見せる。しっかりと筋肉のついたサラドの脹脛に比べるとセアラのそれはか細く見える。
「そうそう、そんな感じ。ちょっと苦しいくらいで。そうすると浮腫みも防げて疲れにくい。でも巻いたままにしないで夜には必ず外してね。内臓に負担がかかるから」
セアラがこくこくと頷く。ショノアも興味深く聞いていた。ニナはやはり一歩離れた位置でじっと待っている。
村の人々に礼を言い出発する。何事もなければ夕暮れには隣の村に着けるという。
あまり村と村の行き来がないのか獣道よりややましという程度の道を昨日と同じようにサラド、セアラ、ショノア、数歩離れてニナの順に並んで進む。
「あ、その草は気をつけて。触るとかぶれる」
繁って迫り出した草をサラドが通りやすくなる範囲で薙ぐ。彼はひょいひょいと軽く進んで行くが、セアラもショノアも張り出した根に何度も足が取られそうになっていた。ニナの足音は聞こえない。躓く様子もなかった。
小さな獣がたてるカサッという音にセアラはビクビクしていたが、サラドが「そんなに構えなくても大丈夫だよ」と朗らかに笑う。昨日も途中まではそうだったと思い出し、彼が注意を払うまでは余計な力を抜くように意識した。
その日は魔物に遭遇することもなく、隣村に何事もなく到着した。