お味噌汁が飲みたいので
--楽しい楽しい連休も明けて、またいつも通りの辛い辛い日常が幕を開けたその日の夜…
「ちょっと聞いてよ!」
私はいつもの--すっかり“いつもの”になってしまった居間のテーブルをバンッと叩いて彼に怒鳴っていた。
対面に座るハルは私の剣幕に心底嫌そうな顔をした。
「…なに?怒ってんの?」
そう、怒ってます。
「今日あったことをツマミに酒を飲もう!」
「あ〜はいはい。俺、人の愚痴とか聞きたくないんだけどなぁ…」
「聞いてよ。」
「やだなぁ酒が不味くなる…」
愚痴らないと私の酒が不味くなる。ので、私は気にせず話し始めた。
「今日さ。朝よ朝!まず朝っていうのもびっくりてか腸が煮えくり返るんだけど、エレベーター乗ったのいつも通り。」
「エレベーターに腸煮えくり返ってんの?」
「違う聞いて、最後まで聞いて?で、いつも通りエレベーターに乗ったの。エレベーターさ、他に女の子が何人かとあと総務のおじさんとあとどっかのおじさんが乗ってたの。」
「どっかのおじさん?どっかのおじさんが会社のエレベーター乗ってくんの?怖…」
「いや違う。どっかの部署の人。どこの人かは知らないけど…で、そいつよそいつ!頭の薄っすい50くらいのおっさんよ!そいつがさ〜、私最後に乗ったから扉の前じゃん?でそのおっさんが私の後ろよ。」
「ああ話が見えてきた。」
「で、5人だか6人だか乗ってるからさ、スペースなくて、お互いの視界も狭いわけよ。毎員電車みたいなものよ。そのさ!狭い空間よ!!そこでよ!みんな身動き取れなくて視界も狭いのをいいことによ!」
「落ち着け。」
「後ろのおっさんが私の尻を撫で回すの!しかも、鷲掴み!私の!尻の!肉を!!」
一大事でしょう?会社ですよ?会社!毎員電車じゃないですよ?どういう神経してるんですか?
「そりゃあれじゃね?あの〜…会社にさ、セクハラとかパワハラとかの相談窓口みたいのあんじゃないの?」
「それどころの話か。ケーサツよケーサツ。」
「じゃあ届ければ?」
「めんどくさい。」
「椿さぁ…そういうのは良くないよ。」
頭に血が登っている私にハルが「ダメダメ」と首を横に振る。なんだ?説教か?私が悪いのか?
「そういうのは自分が面倒臭いとかじゃないよ?ちゃんと届けて、ちゃんとした処分を受けさせなきゃ、一回やって「あ、これ大丈夫だ。」って思ったらそいつまたやるよ?」
ぐうの音も出ない正論だ。腹立つ。
「最初の被害者にも責任が付きまとうんです。あ、ビールまだ飲む?」
「……飲む。」
ハルは空になった私と自分のビール缶を持って台所に消えていく。少しして新しいビールと、枝豆を持ってきた。
「嫌だったならちゃんと言いなよ。な?」
「じゃあハル一緒に警察来て。」
「やだ。」
プルトップを開けると白い泡が少し吹き出す。きめ細やかな泡たちが私の唇を出迎えてくれる。
舌と口内にその泡の感触を感じながら至福の液体を体内に流し込む。
すかさず枝豆を口に放り込む。そこで違和感。
「ん?これ冷凍?」
「うん。茹でるのめんどいし…」
独特の風味というか匂いというか…生の枝豆を茹でたやつじゃない。
「これさぁ…びっくりした、コンビニで見かけて。冷凍の枝豆とかあんだな。チンするだけよ?これ。」
「……茹でてよ。」
「めんどい。」
朝から一日腹が立ってた私はそんなことですら気が立ってくる。レンチンの枝豆なんてなしだろ。
「てかさぁ、ありえないでしょ?会社だよ?同じ職場で働いてるんだよ?てか朝っぱらから盛りすぎじゃない?」
「ま〜……確かに職場じゃやらないよな…もしかしてもうすぐ退職とか?」
「いや、そういう問題じゃないから。なに?辞めるからケツ揉んでもいいだろって?」
腹の虫が治まらない私の様子を、ハルはなんだか楽しそうに眺めている。何がおかしい?
「ちょっと落ち着けよ。考え方変えなよ。」
「なに?」
「同じエレベーターに他に女がいてその中からお前を触ったんだろ?そんだけ魅力的に見え--ぶっ!?」
くだらない戯言が聞こえたのでハルの顔面を思いっきり蹴飛ばした。
「ひどい。」
「今のハルのがひどい。なに?男はエレベーターとか電車で乗り合わせた女の子みんな物色してるの?」
「そのおじさんはしてたんじゃない?というか、気の所為じゃなくて?たまたま手が当たったとか…」
事件性を疑うハルにビールを飲みながら私は全力で否定の意味を込めて首を左右に振り回す。
「だから鷲掴みだって!こんなよ!こんな!!」
空いた左手で空気をこねくり回すみたいに掴むジェスチャーをして手首を捻る。ホントにこんなだった。
「確信犯よ!堪能してたもん、私のケツ。」
「ケツケツって…ぶっ。」
何かツボったのか目を見開いて主張する私にハルが吹き出す。こっちは本気で真剣なのに失礼極まりない。
「で?その時どうしたのお前。されるがまま?」
「そりゃ…ね?」
「なんで?抵抗すればいいじゃん?会社のエレベーターの中でしょ?バレたら相手は終わりなんだし…」
そういえばなんでだろ?実際腸が煮えくり返るくらいの怒りを感じたけど、私はその時なんのアクションも起こさなかった。
「…確かに。」
「な?」
なんでだろ?相手が男だから?いや痴漢の時点でそりゃ男だけども、なんでだろ?
もしかして世の中の痴漢に遭う女性ってこういう心理?怖かったのかな?
「確かに…なんでなんだろ?今更言っても多分適当にあしらわれるだけだよね?多分。なんであの時されるがまま?え?頭おかしいの私?」
「おかしいんじゃない?もしかしてそういう状況に興奮--ぶっ!」
また戯言が聞こえた。私の長い脚が鞭のようにしなる。
「いちいち蹴るなし。」
「あ〜…でも、うちの会社多いのよねぇ、セクハラ。だからとうとう自分の番が来たか、くらいの諦めの感情なのかも?」
「セクハラってか、ケツ揉みしだくのはフツーにアウトじゃね?」
※
「まぁ…そういうことがあったという訳で……」
「はいはい、気が済みましたか?」
ビールも3本目になり、だんだん思考が重たくなってくる。なんか眠たくなってきた。ついでに鬱屈と溜まっていたものまで浮き上がってきた。
「…済まない。もうヤダ。」
「ちょっと。」
フローリングにばたりと寝転がってハルの方に転がっていく。ハルは鬱陶しそうだ。
「なんで?なんで毎日毎日残業して、嫌な客の相手に上司の嫌味、安い給料にセクハラまで受けなきゃいけないわけ?」
「酔ってるなお前。あげすぎた…」
仰向けのまま足で体を前に前に押していき、横に座るハルの体に頭突きする。まさに子供の駄々。酔ってますはい。
「もうまぢ無理。働きたくない。」
「はいはいもう寝ような?」
立ち上がるハルが私を起こそうと両脇に手を入れる。そのまま上半身を抱えるみたいに持ち上げた。セクハラだ。
「あ〜、働かないで済む方法教えてハル。」
「ん?結婚すれば?」
持ち上げたまま引きずっていくハルが適当な調子で返す。強引に引っ張られるからケツが痛い。
「相手いない。」
「いるでしょ、いくらでも。学生時代結構モテたじゃん。」
「そんなよ…2、3人くらい?付き合ってもみんな二つ目にはセックスセックス。」
「思春期だから。今はいい人いるよ。」
「ご飯作ってくれる人がいい。」
うわ言みたいにグダグダ言っていると、腕が疲れたのかハルは一旦私を下ろした。
「ご飯は椿が作れよ。働かないなら家の事しなきゃだろ?てか、料理できた?」
「はぁ?私、こう見えて、けっこーできます!舐めないでください!高校の調理実習では味噌汁作って欲しい女子ランキング1位ですけど?」
「やっぱりモテんじゃん。いい人探しな。そしたら俺も毎晩遅くまで起きてなくていーし。」
ハルの何気なく発した一言が、私の中にブスリと刺さった……気がした。
「…ハルはさ、」
「ほら、布団行けもう。痛っ!噛むなって!!」
私を寝室まで引きずろうとするハルを振り払って、私はムクリと上半身だけ起こした。眠気と酔いで虚ろな私の瞳がハルと向き合う。
「ハルは作んないの?彼女とか…」
「ん?相手いない。」
「職場の人とか…」
「俺の職場おじいちゃんおばあちゃんしかいない。」
「……まぁ、免許持ってない男はなぁ…」
「おい。」
テーブルまでよちよちとハイハイで後退して飲みかけのビールを口の中に流し込む。
「…明日辛いよ?あんま飲むなし。てか、急に何?」
「ん〜?別にぃ。ハルに彼女出来たらもうここ来れないなと思っただけ。」
酔っ払った私の戯言にハルはぴくりと小さく震えてなにか反応を示す…ような気がした。
もう酔っててよく分からん。
「そっかァ、相手いないなら安心だね。」
「…なにが?」
「ん?」
振り返ると、ハルがすぐ隣に座ってきた。
「なにが安心なんだ?」
「宿が無くならないから…」
「…ふぅん。」
私の手からビール缶を取り上げ、ハルはなんか意味深に深く息を吸う。何だこの間?
そうか、ハルは相手がいないか。
「いない同士ね?」
「ん?」
「いい人が。」
「一緒にするな酔っ払い。」
ぺちっと額にデコピンをかますハルが、よいしょと重い腰を持ち上げて立ち上がる。今度は抱えるのではなく私の腕を掴んで立ち上がらせようとする。
「ほら、いい加減マジで寝な。起きらんないぞ?」
「ん〜…」
仕方ないので応じて私も腰をあげる。
今日は嫌なことがあったせいか酔い方が激しい。ハルの手を借りて何とか立ち上がった。
「…ハルぅ、私の為に味噌汁作ってよ…毎日。」
……?
なんか言ったかな?
ちらりとハルの方を見ると、ハルはぽかんとした顔で愛らしい童顔をこちらに向けていた。
「…味噌汁。」
「……?」
「…飲みたいの?」
…?味噌汁?
「飲みたい…」
「……そう。」
?なんだろ?味噌汁?
なんかいよいよ酔ってきて思考がぐちゃぐちゃだ。
ぐわんぐわんする視界の中でハルは相変わらず目を丸くしたまま、今にもすっこけそうな私を引っ張って布団まで連れていってくれる。
「…大人しく寝ろよ?」
「ん〜…おやしゅみ。」
折りたたみベッドの上に寝かせて掛け布団をかけて部屋の明かりを消す。至れり尽くせりだ。
そっと扉を閉めていくハルに手を挙げて応えてから、私はぼやけた視界で天井を眺めた。
……お味噌飲みたい。
※
「--おはよ。」
遠いところから何度も呼びかけられて、私は重たい瞼を持ち上げた。
まだ暗い室内で、私を見下ろす丸っこい小さな顔に私はこの至近距離で気づかない。
「っ!痛っ!」
「いたいっ!」
気付かず頭をあげたら、なにか固いものが額に直撃した。思わず声をあげると共に、眠気が一気に吹っ飛んで目が覚めた。
「柚姉痛い。」
「……?琴葉ちゃん?」
聞き覚えのある声と抱きついてくる小さな体に、私はようやく状況を理解する。
すると同時に…
「やばっ!?今何時!?」
慌てて折りたたみベッドから転げ落ちながらスマホを手に取る。
時刻はまだ朝の6時過ぎ。
「…あぁ、なんだびっくり。琴葉ちゃん早起きね。」
「兄ちゃんに起こされたの。おはよ。」
兄ちゃんに?
「あれ?…もう6時過ぎてるのに…」
部屋の外から漏れてくるいい匂い。ハルが朝食でも用意しているのかも?
琴葉ちゃんに引っ張られて、私は隣の居間までやってくる。
開け放された台所では、ハルが朝食の準備をしていた。
「…ハル?」
「おはよう。」
「…おはよ。じゃなくて、時間!もう6時だよ?仕事…」
「今日休み。」
なんだ。びっくりした。
「柚姉!ご飯食べよ!出来たてだよ!」
琴葉ちゃんは朝から元気だ。食卓の上に並んだ朝食からはまだ湯気が立ち上がり、まさに今食卓に並べられたことを物語る。
ご飯と魚の干物…
なんとも和風な朝食。私は琴葉ちゃんの隣に仲良く座って箸を取る。
「どう?昨日は随分酔ってたが…気分は?」
「ん?へーきへーき。」
ご飯をかきこむ私の前に、熱々の味噌汁が置かれた。
…味噌汁。
「リクエスト。具はわかめと豆腐な。」
「ん〜…」
出された味噌汁に私はすぐに口をつける。美味しい。お味噌汁だ。
…味噌汁だ。
隣で琴葉ちゃんが干物をかじっているのを眺めながら、台所に立つハルを不思議な気分で見つめる。
朝台所に立つハルなんて、初めて見たかもしれない。
「…ハル。」
「あ?」
「今日、お休みなんだ。仕事…」
「ん。」
味噌汁をゆっくり、舌を火傷しないようにゆっくり啜る私にハルは…
「今朝有給取った。」




