2018年2月の出来事−1
その日のオフィスは、やたらと薄暗く感じた。夜十時、気がつけば残っていたのは私と木下だけ。二人のキーボードをカタカタと叩く音が微かに聞こえていた。私が仕事の区切りのいいところまで進むと木下も同じぐらいのタイミングで手を止める。そして私と目を合わせてきた。
「…先輩はなぜこの会社に?」
まるでいつもそうしているかの様に話しかけてきたが、木下とのまともな会話はこれが初めてだった。結局のところ彼が入社して三カ月、仕事の質問や確認で2回にも満たないラリーをしたぐらいで、それ以外の木下という個人として話す機会は今まで全くなかったのだ。
私個人に興味があって話かけたのか、二人きりが気まずくて沈黙を埋めるために話しかけたのか、それはわからない。
「どうした、急に」
私はついその質問の意図を読み取ろうとしてしまった。私の悪い癖だ。木下はパソコンの電源を落としながら話し始めた。
「いえ、勿体ないなと思って。先輩はいろんな会社の事業を詳しく説明できて、法律にも理解が深い。すごく知識の幅が広いのにも関わらず、この会社で役立てられているとは思えません。それと、やる気もなさそうだし」
彼はやはり人をよく見ている。そう、私にはやる気がない。仕事を最低限やり続けて、給料分だけは働こうという考え方の持ち主。
「そうだな、」
回答に困った。何を、どこまで話すべきなのか。今聞かれているのは入社の理由のみで、べつにこの会社でどんな立場なのか、どんな経歴があるのか、それは聞かれていない。
「単純にやりたい事も特に無かったし、金融関係ならこの先くいっぱぐれるのも無さそうだし。三年ぐらいで辞めるつもりで入社したな。面接でも、三年で辞めると思いますが入社したいですって本音を話したらいけたな」
「すごいですね。」
木下は、笑いながら言った。思えば、他人にこれを話したのはいつい以来だっただろう。いつも周りには、昔から金融関係に興味があった等と適当にはぐらかしていたのだが。
「でも、この会社で働くのはどうかと思いますよ。少なくともノルマ至上主義の営業マンではないはずです」
これには私も自覚があった。今の仕事をやりながら、絶対にこれじゃないという確信めいたしこりが、毎日大きくなっている。
「そうだよな。営業も苦手だし、苦手なことを長時間やらされまくってるし。相性はよくない」
「自分は、それぞれの才能はそれぞれの持ち場につくべきだと思っています。関取になれる人はきっとダンサーにはなれない。それと同じで、何に時間を費やすかも深く考える必要があるのではと」
「なるほど」
前々から木下と気が合いそうと思ったのは、これだったのかもしれない。私も我武者羅に努力する、みたいな言い回しが苦手だった。確かに考えすぎて行動できない私のような典型例はよくないのもわかっているが、何も考えないのもありえないと思う。少なくともこの会社は後者を推奨しているみたいなのだが。才能には活かし方がある、この考え方には激しく同意していた。
「それでいうと、木下はなんで小説家を辞めた?」
今思えば、意地の悪い質問だったかもしれない。誰だって触れられたくない過去はある。それを私はわかっていなかった。案の定、木下はしばらく黙ってしまい、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「多分、やるだけやって、ダメだったからなのかもしれませんね」
この時の応えは、少し濁されていた気がする。しかし、濁っていた理由も今ではわかる気がする。木下はこの時、意地を張ったのだ、自分に対して。
残業時間とは不思議なもので、さっきまであんなに早く帰ろうとしていたのに、少し話し始めた途端にその気持ちを忘れている。私たちはパソコンの電源が落ちた後も帰らずにいた。
「社員が入力させられている共有スケジュール、あれ支店長以上と人事課は全員見ているらしいぞ。で、深夜まで仕事しているのを支店長も人事課も知ってるけど何もしない」
「誰も労基に密告していないのが不思議なぐらいですね。他の条件とか環境がどんなに良くても、長時間労働ってそれだけでしんどいですし」
「いや、長時間だけじゃなくて、上司との変な付き合いもあるから」
気が付けば、会社の悪口を言い合っていた。
「変な付き合いというのは?」
「例えばさ、藤田は明日支店長の息子にサッカー教えに行くらしいよ。あいつ海外のトライアウト受けるぐらいサッカーうまくて、支店長もそれ知ってるから教えてやれとさ。当然、残業代もないし休日出勤にもならない、仕事として認められない。」
「まさか上司の息子を接待するんですね。あと、藤田さんがそんなハイレベルでサッカーやってたのもびっくりです」
「何年か前にも一回受けてるみたいよ。支店長も職権乱用だしパワハラだしすさまじい暴挙だよな。来年娘の高校受験あるみたいだし、もしかしたらそん時も誰か家庭教師に呼ばれたりするかもな」
「まさかそれは、話の重さが違いますしさすがにないんじゃないですか」
私たちはその飛躍した憶測を笑っていた。だがしかし、その『まさか』を起こすのが、支店長なのだとこの時はわかっていなかった。
そしてしばらく笑ったあと、木下は急に真剣に、問いかけてきた。
「…先輩は、辞めたあとに行こうと思っている会社はあるんですか。無くても、先輩ほどの知見があれば、どこかしらの世界もいけるんじゃないですか」
意地の悪い質問だと思った。さっきの質問の意趣返しか、いや、彼にそんなつもりはない。私は正直に答えた。これを人に話すのは、実は初めてだった。
「実は、シンクタンクとか、そういうのは受けた事がある。教授の推薦もらってさ。でもそういう会社に行く人みんな自分より全然成績が良くて、勝てないって思ったんだよ」
私は、学校の成績はよかった。きっとこの会社の中でも上位に入るぐらいはいいはずだ。けど成績の良い人間を集めた場所に私が混じった時はどうなるか。果たして私はそこでも成績の良いままでいられるだろうか。
木下は帰る準備を終わらせ、立ち上がってから言った。
「わかりました先輩。それだったら自分が、いや俺が、手本を見せます」
この時私は、彼がどういう意味でそう言ったのか、全くわからなかった。
・・・
翌週の朝、支店長と宮本さんが打合せ室に入っていくのが見えた。あの人と一対一で呼び出されるのはどういう事か、なんとなく察しはつく。課長がいれば営業課全体の話だろうし、木下がいれば指導について。となると、もうノルマについてでしかない。宮本さんはここ半年ノルマ未達成だった。確かにほとんどの人は月初に提示されたノルマを達成出来ないのだが、ほぼ毎月中旬に支店長が『せめてこれぐらいは達成しろ』と言わんばかりに数字を引き下げてくれる。これは私でさえも、隔月ぐらいのペースでこなしているのだが、宮本さんは木下が入社してきた月を最後にそれすらも出来ていない。成績が落ちているのが明らかに見て取れたのだ。
しかし、原因は全員わかっている。宮本さんは今、家庭がうまくいっていないのだ。木下が入社する前、つまりおおよそ一年前に結婚し、程なくしてすぐに社内で昇進。ハードワークに拍車がかかり元々分担していた家事も出来ず、休日は寝て過ごすことが増えた。そもそも宮本さんが多めに家事をやっていたらしいのだが、奥さんはこちらを気遣ってくれる気配もない、らしい。お互いがお互いの不満を言えず溜め込む毎日で、常にイライラしながら過ごす。残業していても、単に家に帰りづらい気持ちから来るもので、露骨に集中できていないの分かった。となると、残業している割に成績も伸びない。
そんな宮本さんにも支店長はお構いなしだった。確かに仕事とプライベートを分けるのは常だが、流石にしんどいのだろう。木下も、たとえ夫婦間の問題でも仕事に影響しても別に良いのではと言っていた。結局のところ仕事時間も仕事時間外も同じ人間が活動しているから影響が出るのは当たり前なのではないか、みたいなことを話していた。
打合せ室からの机を叩く音を聞いて、何人かは今日の業務を外回りに切り替えてる。私もそうした。
・・・
そしてその日の夕方四時。共有カレンダーの予定がいつの間にか会議のメンバーに括られていたので、足早に営業所に戻った。同じく戻ってきたばかりの石井は、これから何が起きるか察していたようだった。支店の営業メンバーの殆どが第一会議室にいるらしい。私たちも恐る恐るそこに向かったが、正直なところ察しはついている。念の為会議室の扉の前で一旦中の様子を探った。支店長の話声は聞こえる。声のトーンは普通だった。覚悟を決め、音を立てない様に扉を開けると、前方のスクリーンに全員の、ここ半年の営業成績が写しだされていた。
「結局のところ、ノルマ達成してるやつはずっとノルマ達成してるし、やってないやつはやってないのよ」
緊急の会議みたいな扱いだったが、やはり石井の推測した通りいつもと同じ内容。ただ単に適当に発破をかけて、気持ちを煽るだけのもの。年に二、三回はこういうことをするのが支店長だ。
「やってる奴には文句は俺も言わない。でもそうじゃない奴は別だよ。お前ら忙しい人たち相手にしてんだったら、休みの日だって訪問すれば良いじゃん。そしたらゆっくり話聞いてもらえるよ。何も電話だけじゃなくて良いじゃん。休みの使い方が、お前らの将来を決めるんだぞ」
毎度毎度、言う事は同じである。まるで小学校の校長先生。何かが変わる訳でもなく、何かを変える訳でもなく、同じ説教を垂れる。よくもまぁ、飽きない人だ。
後ろの方の席にひっそりと座り前を見ると、支店長の横には宮本さんとウチの課長が立たされていた。
「お前らだって金は欲しいし出世はしたいだろ。確かにウチの会社は他と比べてハードな業務だよ。でもその分社会に貢献してるしそれに自分自身が成長できるんだよ。それはお金じゃ手に入らないものなんだよ。そういうの分かってんのかお前ら? もちょっと感謝しようぜ? 出世して給料多めにもらってんのに、その分働いてないやつもいるけどな。こういうふうにはなりたくないだろ?」
いわゆる、晒すという行為。支店長は宮本さんと課長を指差して笑っていた。二人とも体育会気風の人で正直好きではなかったが、流石に同情した。
結局会議のような何かは七時まで続き、三つのことが決まった。今月のノルマが引き上げられること、ノルマ達成者は二千円分のクオカードが貰えること、達成できなかったものは来月最初の土曜日に新規口座開設のための巡回をすること。
明日から厳しい業務が待っているなと、私は思った。




