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ブラック企業の空に  作者: 山木 拓
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2017年8月の出来事

2017年8月の出来事


 皮張りのソファーに座った支店長は、私の退職願を持ってしばらく黙っていた。封筒を開きもせず、そこに書かれている『退職願』の文字をじっと見つめている。そして意味もなく裏面を2回ほど確認した後、ついに口を開いた。


「転職先は決まったのか?」


 私が退職願を渡すと、決まってそう言ってきた。


「…いや、決まってないです」


 嘘をつけない人間だった私は、そう答える事しかできなかった。


「だったらやはりコレは受け取れないな。辞めるにせよ続けるにせよ、ひとりの人間として俺はお前を放っておけないんだ。決してお前の人生の邪魔をしたい訳ではない。俺は、お前のためを思って言ってるんだからな」


 そう言って、支店長は退職願を机において、私の方へ滑らせた。


「わかりました。ありがとうございます、失礼します」


 その退職願を、私は机から拾い上げた。そして皮張りの黒いソファーから立ち上がり、重々しい色の木で作られた扉から退席する。そういえばソファーは以前退職願を提出しようとした時と変わっていた。


「俺はお前の能力を認めているんだ。確かに今は営業成績は伸びないかもしれない。でも、自分に言い訳をするな。もっと自分を信じてやってみろ。死ぬ気で。よく考えろ。工夫をしろ。生きている以上、死ぬ事意外かすり傷なんだぞ」


 支店長が私の背中に向かって何かを言っている様に聞こえたが、全く聞こえないふりをした。前も同じ事を言われた気がしたが、それもよく分からない。


 扉を出て、長い廊下を歩き、エレベーターで階を下り、自分のデスクまで戻る。私の様子を見てニヤニヤとしたやつもいれば、哀れむやつもいたし、笑っているやつもいた。皆からすると、退職願をまたもやつき返されるのは、予想の範疇だったらしい。何人かが缶コーヒーやタバコを渡しているのをみるところ、どうやら私が退職願を受け取ってもらえるかどうかで賭けをしていたようだ。


 数箱のタバコを受け取った宮本さんはニヤニヤしながら私に近づいてきた。


「ほら、やっぱだめだったろ?」


「そんな気はしてましたけどね」


 結局私はデスクに座って、仕事に戻るしかなかった。


 


   ・・・




 木下は、毎日の様に恋人に、いや今となっては元恋人というべき人と喧嘩していた。話によると、特に月末になるとそれはどんどんと激しくなるなるらしい。


「ねえ、私はもう貴方の夢に付き合わされるのはうんざりなの。あなたの月収、自分でもいくらかわかってる? 九万円よ? これでどうやって、家と、光熱費と、食費と。子供が産まれたらそのためのお金だって要るかもしれない。どう計算したら毎月毎月生活できると思っているの?」


 彼女は、ヒステリックを起こすような人ではないと聞いた。となればこれほどキツく当たられるのは、要するに愛想を尽かされたのだ。愛想が尽き、怒りが募り、それを吐き出され。しかしその愛想が尽いた年齢は三〇歳。結婚をシビアに考えるのであればさっさと別れてしまえばよかったものだが、彼女はずっと待ってしまったのだ。木下が、一人の小説家として成功する事を。


「ごめん。次の作品は、絶対上手くいくから」


「…結局そればっかりよね貴方って。ずっとアルバイトで自分の分だけ稼いで、あとは全部私のお金。いい加減どっちか諦めてよ」


「…ごめん」


 木下はこの会話を後にして、バイト先のファミレスに向かった。


 八時間ほど経って帰ってくると、もう彼女は家に居なかったという話だ。


 次の作品も、完成することは無かった。




   ・・・




「へぇ、小説家。やっぱり居るんだねそういう人。でも、何で諦めちゃったの? 二九歳ならまだもうちょっと頑張れたんじゃない?」


 支店長には、デリカシーが無いと思う。人が夢を諦める瞬間はだいたい決まっている。『挑戦し始めるのが怖かった』それか『やるだけやったけど先が見えなかった』この二つが大抵だ。木下は実際に挑戦し、そしてそれを手を抜かずに取り組み続けた。実際に木下と少し話しさえすれば、それはすぐに察することができる。支店長はそれも見抜けないろくでなしだ。


 木下はウチの会社に入ろうとしていた。結果は、すんなり入社を決める。というのも木下は、髪は短く、スーツもネクタイも革靴も扱いを心得てており、そして猫背でもなく胸をはりすぎるでもなく背中に一本の芯が入っているかのようなまっすぐな姿勢。ドラマや映画に出てくる小汚く貧乏そうな小説家のイメージではなく確実な生活力が見て取れる第一印象があった。そこそこ長い間ファミレスでアルバイトをしていたわけだから、声量や滑舌も問題がない。その上に小説家としての文章力ひいては言語力。話せば当然、頭が良く人柄も良さそうな印象を感じ取るのは当然だった。


「いや、自分には才能がなかったことがわかったんです。三〇歳になるまでを一区切りとして考えていましたが、これ以上は悪戯に人生の時間を浪費してしまうと気付きました。だからいっそ新しい世界に飛び込んでしまおう、そう考えたんです」


 本人としてはただ事実を述べただけなのだが、支店長からすれば謙虚で尚且つチャレンジ精神を持っており、将来いい社員になると解釈したのだと思われる。年齢的にもある種背水の陣で就職し、そう簡単に仕事を辞められる状況ではない。つまりは『こちらにとっては都合が』いい社員になる、と。


「なるほど。でも俺は思うんだけどさ、君は人の話もよく聞けるタイプだし、論理的に物事考えられるんだと思うよ。でもさ、仕事って論理だけで何とかなるものじゃなかったりするじゃない。結局は精神力にものを言わせなきゃいけないこともあるし、お客さんに理不尽なこと言われてそれに応じる必要あるし。で、君は論理的に考えるタイプでさ、自分の考えた論理がどうしても通用しない瞬間ってあると思うのよね。で、そんな時に俺はさ、」


 面接に使われたおおよそ三〇分はほとんど支店長が話し続けたらしい。木下は上手く相槌を打ち、全く話の腰もおらず水もささず、時間をやり過ごした。すると不思議なことに、面接には合格し、ウチの会社への入社が決まった。


 いや、決まってしまった。ウチの会社があまりいい環境では無いこともそうだったが木下にとっては、小説の才能だけで生きていく必要のある、そういう天才タイプではないという現実を、はっきりさせてしまう結果となった。




 この2ヶ月後、私と木下は出会った。

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