織姫の朝帰り
織姫の朝帰り
引き止めてくれればよかった。
もし、私を引き留めて偉い人がお怒りになって、天変地異が起きて、この世界がハチャメチャになって、火の海になってみんなやけ焦げてしまったとしても、私は同じことを思うのだろう。
朝の電車の窓は世界を2倍速で遡っていた。憂うつな私の生活が戻ってくる。ただ、あなたの温度だけが首筋に残っていた。そのまま噛み付いて傷をつけてくれればよかった。俺のものだって言ってぐちゃぐちゃにしてくれればいい。
煌くんから連絡が来たのはほとんど一年ぶりだった。連絡が来た時は「やっぱり」と思い興奮した。自分に愛を告げた人は、いつまでもどこかで私を覚えていて、たとえ心変わりしたとしてもいつかは戻ってくるんだと思い込んでいた。だって彼はあんなに愛していると言ったのだから。私に。この私に。浅はかな考えだと分かっていても、本気で思っていた。
やっぱり。私のことが忘れられないのね。しょうがないわ、逢いに行く。
浮ついたワンピース、一張羅のパンプス、普段はつけやしないイヤリングを武装して、雨の降る七夕の夜にあなたのもとへ。
あなたは相変わらずバカで、人の気持ちを考えられない人だった。ラブホテルの白いシーツの上にいる私もつくづくバカで、耳元のお気に入りのイヤリングが泣いていた。
「そろそろ、俺に会いたいんじゃないかなって思ったんだ」
あなたのセリフじゃないでしょ。
「この1年間、まあまあだよ。フツー」
私はあなたのことを忘れたことはないのに?
「ああ、あの彼女?別れたよ、すぐに。」
そうよね。あの子、いかにもぶりっ子だったし。あんなのに引っかかるなんてやっぱりバカね。
「ねえ」
「なんだよ」
「タバコ、美味しい?」
「べつに」
「…ねえ」
「なんだよ」
「この1年で、何回私のこと、思い出した?」
さあ、知らない。忘れた。
私はその一言が許せなくて、本当に本当に許せなくて、ひどく醜いキスをした。一生、私を忘れないように。
キスは、塩辛い味がした。これまでになく、酷い味だった。
「……私は、織姫様にはなれなかったのね」
そう呟いた夏の朝に、蝉が鳴く。