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君への手紙

君の最期を支援しよう

作者: まさかす

 数日おきのネカフェ暮らしの甲斐無く、あっさり金が無くなった。今の私に住所は無く、未来を含めて全て無くなった。


 暫くの間、ボランティアによる炊き出しに世話になって何とか凌いではいたが、それをしたとしてこの先何ら展望がある訳でも無い。故にそれらを拒否し、公園の水飲み場の水だけで過ごして今日で4日目。土の上に敷いた段ボールの上は硬く、寝心地が悪いが起きる気力も体力も残っていない。


 それは衝動的とも言える物だった。私は仕事から逃げ出した。それだけならまだしも、その事で家族からも逃げだした。全て捨てる事になると分かっていて逃げだした。


 水飲み場のある公園近くの雑木林。その場所だけが自ら全てを捨て去った私の居場所。着のみ着のまま逃げ出した自分では気付かないが、数週間風呂にも入らず着替えすらも持たない私からは、きっと鼻を突くような匂いが漂っている事だろう。


 ようやく夏も終わり、秋の気配が近付く。腹が減って中々寝付けないものの、多少冷えはするが寝るには申し分ない。とはいえ秋を過ぎれば冬となる。今の私に冬を迎える準備は整えられそうにない。


 いっそ自らの手で以って終わりを迎えたかったが、その勇気が私には無かった。ほんの一瞬、若しくは数秒という短い間我慢すればいいだけのはずなのに、それすらの勇気も無かった。衝動的とはいえ、まさか自分が仕事から逃げ出し家族を捨てるとは夢にも思わなかった。その衝動のままに終わりを迎えれば良かったが、その時には逃げる事しか考えられなかった。


 ネカフェで過ごし、公園近くの雑木林で過ごすようになった。そこで拾ったカッターナイフ。私は無意識にそれを手首に当てスッと引いた。だが錆びた刃先は血管へは到達せず、薄皮一枚だけを切ってジワっと血を滲ませ、左手首に1本の細い傷跡を残しただけ。それだけの事で怖くなり、カッターナイフは投げ捨てた。今となっては冷静さが勝り、自の手で終わりを迎えるという選択は出来なくなってしまった。


 私は全てを捨て去った。そんな私がこれからも生きる事を選択するのは難しい。衣食住だけを目的に、一切職を問わず死ぬ気で働けばそれは可能かもしれないが、今更それの意味が分からない。それに何の価値があると言うのだろうか。意味を考えるそれ事自体いけない事だろうか。もしかしたらタブーという奴だろうか。だがその答えを得ずしてこれからも生きていこうとは思えない。


『人生の価値はその人が決める物、人の価値は他者が決める物』


 まだ仕事をしていた時、酒の席で上司からそんな事を言われた。であれば、私の人生は無価値だ。私の価値は、今の私を見れば一目瞭然というものだろう。


 雑木林から見える公園には笑顔が溢れている。ベンチに腰掛ける高齢の夫婦は何をするでもなく、笑顔で以って穏やかな一時を過ごしていた。子供連れの若い夫婦は満面の笑顔で以って子供と一緒にはしゃいでいた。それは日常と言える光景。普通といえる光景。そんな普通の光景すらも今の私には眩しく見える。未来を悲観し拒絶する私からすれば、そんな普通と言える状態すらも、決して手の届かない憧れの存在となった。勿論、今更そんな憧れを手に入れようというモチベーションは無い。何にしてももう充分だ。目を開く事さえ億劫だ。


 しかし不思議だ。こんな私に生きる価値は無いだろうに、そんな私が生きる事を拒否するのは存外難しく、苦しく辛い事である。


 このまま誰にも見つからずに死んだとしたらどうなるのだろう。ただただ肉体が朽ち果て、何らかの獣と見紛う骨となって散らばるだけであろうか。私自身は何処へ行くのだろうか。あの世とやらは存在するのだろうか。地獄とやらは存在するのだろうか。


 自らの人生を自らの手で終えるのは逃げと言う。人によっては罪だと言う。それが罪だと言うならば、いっそ命を奪う刑で以って裁いて欲しい。人生をやり直したいなんて思わない。ただただ終わりたい。社会と言う名の檻から解放して欲しい。生きる事から解放して欲しい。





 不用品引取り案内のチラシの裏にはそんな事が書かれていた。ある種ポエムの様に書かれた手紙。いや、遺書、若しくは絶筆と言うべきだろうか。


 それは20年程前に書かれた手紙。それを書いた人は死後10日程が経った状態で見つかったと言う。雑木林で異臭がするとの報を受け、駆け付けた警察官により発見されたその人の死因は衰弱死。40代前半のその人の最期は文字通りに骨と皮。腐乱も始まってはいたが、悲痛な面持ちが見て取れたという。


 その人の氏名は百数十円しか残っていなかった財布の中の免許証からすぐに判明した。その人には捜索願が出ていた。家族から逃げ出した事もあり、その人も捜索願が出ている事は予想できたのだろう。それを避ける上でも、本名を名乗っての仕事にも就けなかったのかもしれない。


 その後警察が家族に連絡を入れたらしいが、詳細は不明なれど遺体の引き取りを拒まれたらしい。結局その人は自治体により火葬され、何の縁もゆかりも無い寺の共同墓に納骨されたという。何とも残念な最後である。もう少し時代が遅ければ、そんな悲痛な最期を遂げずに済んだであろうに。その際には我々が力になれたのではと思うと非情に残念に思う。その手紙は私達の戒めとして大事にされている手紙。


 私はとある区役所に勤める地方公務員。そこで特定の人達を支援する課で働いている。


「あの……こんにちは……」

「はい、こんにちは」


「あの……その……死にたければここに来れば良いと聞いてきたのですが……」

「はい、こちらで大丈夫ですよ。こちらで承ります。では自死のご要望と言う事で宜しいですか?」


「……はい」


 元々ここは『自死支援課』という名称だったが、直接的な名称は良くないという事で『生超支援課(せいちょうしえんか)』と改称された。「生きる」という事を超えた先に向かうという意味らしく、何とも哲学的な名称である。当初は『転生支援課』という名前も挙がったが、それは親に対する冒涜が過ぎるという事で却下されたそうだ。いくら取り繕った所で自死を選択するなら親への冒涜である気もするが、上がそう決めたのなら私はそれに従うだけである。そもそも住民サービスとしてこんな事をしていいのかという反対意見は絶えないが、肯定する意見も当然ある。民間のシンクタンクが行ったアンケートによれば、6割弱の国民が支持しているそうであり、この制度は現実に即しているとも言える。


 エリートと呼ばれる程に高学歴の人であっても自死を選択する。流されるように生き、その流れが一旦止まってしまうと窒息死してしまうような人もいる。生きる事が苦手な人もいる。苦手だと言う理由で安易に死を選択している訳では無いにしても、やはり自死の需要は存在する。


 自殺防止の観点で、自治体やNPOに於いて相談窓口を設けている所も存在する。理由は様々ではあろうが、そこへ相談するような人は「死にたい」では無く「助けて」「死にたくない」と訴えている。だが「ただただ死にたい人」は相談して来ずに1人で逝ってしまう。


 万が一それを助けられたとしても、それ以降どうするのかという問題もある。行政からは民生委員といった人達、NPO、及び親族家族がいればそれら皆で支援するという事になるのだろうが、それは解決策を与えるという訳では無く、悲観的にならないよう注意しながら傍に寄り添い話を聞き、その人の置かれた環境を変える等の自立を支援する位だろう。それが恋愛や受験といった刹那的な理由であるなら説得出来る気もするが、経済的理由や健康等の理由でそれを選択した人を生かすのは大変な事である。具体的な何かで説得出来るなら良いが、存外方法は無い。生き残った後には「生きていてくれるだけで良い」と言われるのかもしれないが、そこに至るにはそれなりの決意がある訳でもあり、現実は厳しい物である。どこかに監禁といった手段が取れるのであればそういった行動も止められはするだろうが、そんな方法は安易には取れない。


 行政やNPO等のリソースは限られている。人の命を合理性や効率で以って判断するのは正しいとは言えないが、現代に於いては生きる意思ある者を優先し、限りあるリソースをそちらに割く事を第一とし、自死を希望する者、生きる意思の無い者はその思いを尊重し、我々の元へと案内される。


 我々の元へと来る人達は「死にたい」という人達と言うより、「生きていたくない」「生きる気力が無い」「生きる意思が無い」という人達と言った方が正解だろう。どんな環境に於いても必死で生きている人がマジョリティである。その人達からすれば耳を疑うような理由でそれを選択しているようにも映る事だろう。多くの人はそれを「逃げ」や「甘え」だと言うだろう。だが「逃げても良いのだ」という考えも必要であろう。それを尊重する事も必要だろう。それ故の生超支援課である。


「ではこちらの『生超支援希望』の書類にご記入をお願いします。住所氏名年齢と拇印。それと顔写真付きの身分証明書はお持ちですか?」


 身分を隠して生活していた者も、ここに来ると文字通り最後と言う事ですんなりと身分を明かす。中には家族親族から捜索願が出ている者もいるが、優先されるべきは個人の意思と言う事で、家族親族には死亡後に伝えられる。とはいえ指名手配等の事件が無い場合に限る。


「宜しければ、一番下に簡単で結構ですから理由をお願いします」


 時折自死を試みようとする場面のテレビ報道を目にする。そこでは警察等が言葉による説得を試みる場面も目にする。そういった状況は自殺に躊躇していると同時に、声にならない助けを求める声が顕在化した状態とも言える。その場合に於いては精神論や宗教論。そして綺麗言を含めた感情論等が中々にして有効ではあるが、ただただ死に場所を探している人には通じない。見つかりやすい場所でそれをするのは何かを訴えたいからと言われる。社会に迷惑が掛かるような場所を選択した場合、社会に対して何かを訴えたい事があるからと言われる。誰にも見つからない場所を選択した場合、何を恨むでも訴えるでも無くただただ消えたい、ただただ逃げたいと言われる。


「何故生きていかなきゃならないのか分からない」

「取り返しのつかない事をした。責任を取る」

「人と馴染めない。誰にも会いたくない」

「精一杯努力したが私にはもう無理です」

「辛い思いまでして生きていたくない」

「これ以上家族に迷惑をかけたくない」

「自分は誰にも必要とされていない」

「この先良い事があるとは思えない」

「借金に追われる生活はもう嫌だ」

「仕事が目的の人生は要らない」

「何をやっても上手くいかない」

「信じていた人に裏切られた」

「生活保護を打ち切られた」

「生きていても楽しくない」

「持病と向き合えない」

「自分の代わりはいる」

「私は要らない存在だ」

「とにかく逃げたい」

「生きるのが面倒」

「いじめられる」

「居場所がない」

「もう金が無い」

「働きたくない」

「もう疲れた」

「特に無い」


 存外社会と言う物は血が流れないと関心も持たれず動かない物である。命その物が声の大きさと言って過言でないかも知れない。当然それは私にも言える事である。そして理由はどうあれ血が流れて初めて事の重大さに気付く。場合によっては政府や行政が悪いという声が大きくなる事も多々あるが、こちらに全てを投げられても困ると言う物である。公務員給料の原資が税金であり、諸手当等の仕組みが多少民間と違うと言うだけで、労働者としては世間一般のサラリーマンと何ら変わるものでは無い。公僕と言われても何ら世間一般の人と変わらないのだ。手足を縛られた状態で出来る事は少なく、我々にそれを望むのであれば強権を与えよという物である。仮に強権を付与されそれを用いて行動すれば、「それはやり過ぎだ」と言われるであろう事は想像に容易い。やらなければ「何故やらないんだ」と言われる。常にアンチな意見がフィーチャーされるのは、ある意味健全な国家と言えるかもしれないが、そうそう言い返す事も出来ないのが公僕の辛い所でもある。


 当然の事ながら強権を付与されるはずもなく、我々行政が出来る事は場所と方法を提供し、最期にその理由を書いて貰う程度である。書かれた理由に対して我々は一切口を出さない。書いて貰った中には「こんな理由で?」と、首を傾げるような理由も無くは無く、解決出来そうな理由も無い訳ではない。私自身「死にたい」と冗談で口にする事はあっても本気で思った事は無い。明るい未来を想像している訳ではないが、死ぬ事で全てを放棄したいと思った事など一度もない。それを「逃げだ」と切り捨てるつもりも無い。相手の気持ちが分かる訳ではないが、それが解決策だとも思わない。


 一人で悩んでいるだけではないのか、公的機関なり誰かに相談したのか、短絡過ぎでないかと思わなくも無い。だが此処はそういう場所では無い。その理由の重みは当人でしか分からない物であるという前提の場所である。故にそれを思い留まらせるといった言動はしない。その人の全てを尊重するという意味もあって、そういった言動は組織として一切禁止である。兎にも角にも今後の社会に役立てるという前提で、その理由を書いて貰うだけ。


「ご記入ありがとうございます。ではこちらの生超証明書をお渡ししておきます」

「あの、それで……どこで?」


「当区役所の地下2階になります。そこに常駐している医師と看護師の手による笑気麻酔により意識を失った後、医療処置にて心臓を停止させて頂きます」


「そ、そうですか……分かりました」

「尚、この生超許可証の有効期間は発行から30分以内ですのでお早めに」


「わ、分かりました……。有難う御座いました……」


 お役所仕事と言われて久しいが、我々の課では積極的にワンストップサービスを心掛けている。生超許可証を貰った彼は自動的に死亡届が提出されたとみなし、課を横断しての各種行政サービスが自動的に停止すると共に、各行政機関へ自動的に通知がなされ、保険金融といった民間会社へもデータが送信される。出来る限り残された者達への手間を無くす意味もある。


「人生お疲れ様でした」


 自死を選択する者の数は増減なく平行線を辿っている。だがここに来る人が増えた事で、相対的に辛く苦しく痛みを伴う最期を迎える人は少なくなった。こうして生超支援課には絶える事無く人がやってくる。私達は最期を支援するが為に、せめて最後は安らかにと、やって来るそれら全ての人々を拒否する事無く受け入れ続ける。

2020年02月23日 初版

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