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後編

 


 ユカリさんが落ち着いた状態になったのを見て着替えた僕と梓さんは、店を出て、ユカリさんを御池通り近くのマンションまでタクシーで送っていった。

 ユカリさんは少し寝て落ち着いたのか、マンションに付く頃には比較的元気になっていた。


 「梓さんに、ボーイさんも、ご迷惑おかけしました。ごめんなさい。ドレス、必ず弁償します」

 「いいよ。あんまり無理して飲んじゃ駄目だよ? あとボーイさんじゃなくて洋君」

 「ありがとう洋君!」

 「あ、いや、別にボーイで大丈夫ですよ」

 「じゃあ、帰ろうか。ゆっくり休みなよ」

 「二人共おやすみなさい!」


 いつまでもブンブンと手を降っているユカリさんはまるで子犬ようで、微笑ましかった。


 「ユカリさん、元気になってよかったですね」

 「うーーん。これはちょいと損したなあ。放っておいても大丈夫だったかもね。私いつもそうだなあ」


 マンションを出て大きく伸びをする梓さんは、なんだかお店で見る時とはかなり印象が違って見えた。出勤時の彼女とも仕事中の彼女とも違う。

 今日、あのフロアであんなに小さく見えた梓さんがようやく元に戻った気がした。


 「さーって明日休みだし飲みに行くか少年っ!」


 梓さんが僕の肩を掴む。

 その顔には、誰かを魅惑するような、誘惑するような笑顔でもなく、安心させるような笑みでもなくーーただ純粋な楽しさと若干の悪意を浮かべていた。

 

 僕が、その笑顔を拒否できるわけがなかった。


 「お付き合いしますよ、どこまでも」

 「よしっ。今日はお姉さんが奢ってやろう。イタリアンバルで美味しいとこあるんだ」



 ☆☆☆



 僕と梓さんはお疲れ様と言い合い、ビールの入ったグラスをぶつけあう。

 もう零時を過ぎていると言うのに、狭い店内は賑わっていた。


 「洋君って大学生だよね。あ、煙草苦手?」

 「大学生ですよ。いや、大丈夫です。気にせず吸ってください」


 梓さんは持っている小さなバッグから煙草の箱を取り出した。細長い煙草を白く細い指で挟み、流れるような手付きで火を付けた。

 鈍色に光るジッポウに、僕は違和感を覚えた。梓さんにはなんだか似合っていないように思えた。


 「煙草、吸うんですね」

 「あー、そういえば店の人には見せてなかったっけ。別に吸わないとイライラするとかそういうのじゃないんだよね。いつでも止められるけど、止める理由がなくてね」


 梓さんが薄い笑みを浮かべた。僕は、なぜだが、その笑顔もカウンターに置かれたジッポウも好きにはなれなかった。


 「そうなんですね」

 「そう。始めた理由は聞かないでね。馬鹿みたいだから」


 梓さんの口から吐き出される煙が店の喧騒で揺れる。その煙の先をジッと見つめる梓さんの顔にはまた、僕の心をかき乱す表情が張り付いていた。


 「そういえば、今日、なんだか調子が悪そうでしたね」


 僕は、あえて、聞きたかった事を先に聞いた。モヤモヤを抱えたまま梓さんと会話をしたくなかったからだ。

 梓さんは一瞬真顔に戻ったものの、また薄い笑みをその顔に貼り付けた。


 「やっぱり君は凄いね、よく見てる。そうだね、うん。今日はダメダメだった。自分でも少し驚いてる」

 「僕の立場でいえる事ではないですけど、僕もそう思いました」

 「私、駄目かもなあ……」


 ポツリと呟いたその言葉には、軽い口調とは裏腹に、何か重い成分が含まれているように感じた。

 丁度その時頼んでいたパスタが運ばれてきた。


 「食べよっか。ここのカルボナーラ最高だから」

 「はい」


 それから僕と、梓さんは黙々と食事をした。死ぬ前に、最後の晩餐にはここのカルボナーラが食べたいと梓さんは言い、確かにそう思わせるほどここのカルボナーラは美味しかった。

 ビールの後に、僕と梓さんはワインをボトルで頼み、チーズをつまみながらあれやこれや話をした。


 「洋君結構人気だから、ナイトバーでも仕事したら? 狩野店長も多分自分の店に誘うつもりだよ」

 「そうですか? 朝まで働くのは嫌ですし、人前に立つのは苦手なのでやらないですけど」

 「シャイってわけでもなさそうだけど、そういうのは駄目なんだね」

 「人は、夜になれば寝るべきですよ」

 「ははは、間違いない」


 僕は、くるくると変わる梓さんの表情を見て、サーカスで丸い円盤に括り付けられナイフを投げられる美女を連想した。僕がナイフ投げて、それを梓さんが受け止める。


 だから、この話題は多分梓さんに刺さるという確信を持って、僕はナイフを投げた。


 「田中先輩となんかあったんですか?」


 僕は、あえて目を合わせず、次にどのチーズを食べようか悩むフリをして、そう梓さんに聞いた。


 「……彼から何か聞いた?」

 「いえ、何も。ただ、梓さんの様子がおかしかったのと、帰りに田中先輩が梓さんのことを探していたので」

 「そっか」

 「すみません。今のは忘れてください」


 想定していたよりもずっと嫌な反応に僕は心がぐしゃっと潰れるのを感じた。梓さんの少し赤くなった顔を直視できず、僕はしどろもどろになりながら、次の話題を探そうとする。くそ、ナイフなんて投げるんじゃなかった。


 「行こっか。お会計お願いします」

 「梓さん、僕も出します」

 「いいよ。私が出す。そうしたいからそうさせて、ね?」


 そんな目で見ないで欲しい。僕は、取り出した財布を再びしまって、頭を下げた。


 「ごちそうさまでした」

 「うん、また一緒に来よう」

 「はい、ぜひ」


 でも、多分きっと一緒になんてもうないんだろう。





 ★★★



 店を出て、歓楽街の大通りを並んで歩く。

 

 「結構飲んだけど洋君強いね」

 「お酒、あんまり効かないんですよ。体質ですかね」


 僕は、アルコールとか薬が効きにくい体質らしい。両親が僕が幼い頃随分と苦労したと語っていた。酔えないというのは、こういう夜の世界では便利だが、時々寂しくもある。疎外感にどうしても襲われるのだ。自分だけ少しずれた世界にいるような錯覚


 「私、ここからすぐのとこだけど洋君は?」

 「自転車で5分ぐらいです」

 「あはは、結構近所だね」

 「自転車、ビルの横に停めてるんで取りに行ってきます」

 「そこまで一緒にいくよ。どうせ同じ方向だし」


 大通りをしばらく進み、小さな路地を曲がる。そこを抜ければ、ビルへの近道になる。

 暗く狭い路地。そこら中にゴミや空き瓶が転がっている。

 

 僕は馬鹿だった。その路地を使うべきじゃなかった。


 僕は、忘れていた。

 そこが狩野店長のナイトバーのある路地だった事。

 時間帯的にナイトバーのピークが過ぎて、手伝いをさせれている人間が仕事から解放される時間だった事。

 そして、今一番会いたくない人間が、そこにいる事。


 僕の目に路地の壁に背を預け、煙草を吸う田中先輩が映る。

 後ろで、梓さんが立ち止まるのが分かった。


 僕も一瞬立ち止まった。感覚だが、後ろから梓さんがこちらを制止させようと、手を伸ばしているのが分かった。ーー違う道から行こう、まだこっちに気付いてないよ。そう言って彼女は僕の腕を引っ張って引き返すだろう。


 だから僕はーー


 ()()()()()()()()()()()

 

 僕が、立ち止まり引き返す理由なんてないはずだ。ぐしゃっと潰れた心は、しかしその圧力でより強固になった。



 「おい、梓か?遅かったな……おい、なんで、お前、()()()()()()()()()()()


 こちらに気付いた田中先輩が煙草を投げ捨て、踏みにじりながら、こちらへと向かってくる。酔って真っ赤になった顔の表情が困惑から怒りへとシフトしていくのが分かる。


 「おい平野、お前何してんだ? 夜は用事があるって店長の誘い断ったよな? なんで梓といるんだ? その女は、俺の女だぞ」

 

 バキバキと拳を鳴らしながら、僕の前に立つ田中先輩が僕を見下ろしている。背も、体重も、威圧感も、僕は負けている。そんな事は分かりきっている。


 「どいて。洋君とは、さっきお店でキャストが酔って倒れたのを一緒に介抱して送っていっただけで、ビルに停めてある自転車を取りに行くから、私も同じ方向だから付いていってるだけ」

 

 後ろから聞こえる梓さんの言葉は何一つ間違っていなかった。でも、だからどうした? 目の前の酔いの回った猛獣にそんな言葉は意味をなさない。


 「洋君? いつからお前らそんな仲良しなんだ? おい平野。人の女に手を出してただで済むとは思ってねえよな?」

 「田中先輩、誤解ですよ。梓さんの言った通りですーー()()()()()()()()()()


 僕の言葉から間髪入れず飛んでくる右の拳。見えているが、それに対応できるかはまた別の話で。

 僕は衝撃と痛みで視界が真っ白になり、殴られた勢いで右側の壁へと吹き飛ぶ。


 壁に思いっきり頭を打ち、視界がチカチカと点滅し、僕は、壁際で倒れた。


 「洋君!」


 梓さん悲鳴のような声が聞こえた。僕は、腕に力を入れ、何とか起き上がるも、頭がフラフラして立ち上がれない。壁に背を当てて、なんとか座った状態まで起きたが、力が入らない。殴られたのは久々だった。どうにも殴られ方を忘れてしまったらしい。


 「来い! お前、自分の立場全然わかってねえな! 昨日散々ヤッてやったのにまだ足らねえのか、あ!? 今度はスマホで撮りながらヤッてやるよ!」


 梓さんの腕を無理やり掴む猛獣は顔を真っ赤にして歯を剥き出しにしていた。僕は、壁際に転がっている空き瓶に手を伸ばす。もう少しすれば、手足の自由が効く。あいつが、背を向けたら、やろう。

 

 やめてと叫ぶ梓さんを無理やり引っ張っていく猛獣はもう僕に意識を向けていない。


 あと、もう少しだ。あと少しで手足に感覚が戻る。さあ立ちあがーー


 「おー噂には聞いてたが、ほんま中々にやんちゃしとるなあ」


 路地に見慣れぬ声が響く。路地の奥から、二人の男が出てきた。声を出したのは手前のスキンヘッドの男で後ろの男はスーツを着ていた。僕はその二人を見て、肌が粟立った。あれは、あれはーー


 「田中君やっけ? 君、めっちゃ探したで〜。あんまりおじさんに苦労かけさせんといて欲しいなあ」


 あれは、()()()()()()()()()()()()()()


 「あ!? 誰だてめえ。なんで俺の名前知ってんだ! え?」


 振り向きながら威嚇する猛獣も、目の前の人物を見て、どうやら察したようだ。


 「え、いや、人違いじゃないっすか? 田中は、そいつですよ! そこで殴られて倒れてるやつです!」


 まるで、飼い主に怯えている子犬のようだ。


 「ん? ああ彼なー。いやあおじさんああいう根性のある子は割と好きなんやけどな。君に瓶で殴りかかるん見てからでも良かったんやけど、当たりどころ悪いとなあ……君には色々と聞かなあかんから、()()五体満足でいてもらわんと」

 

 まるで、猛獣使いだ。スキンヘッドの男の軽薄な笑みは、目の前の猛獣を、見事に子犬にしてしまった。


 「あ、いや、俺、まじで何もしてないっす!」

 「それについて、まあゆっくり飲みながらお話しよか。ついて来い。ああそんなことせーへんと思うけど、逃げたらあかんで〜」

 「いや、まじで勘弁してくださいよ……俺は何も……」

 「まあええから、ええからな? せや、君、高瀬川と鴨川どっちの水が好きや? それぐらいは選ばしたるわ」

 「いや、まじで俺は――」


 スキンヘッドの男が田中先輩の肩に手を回す。そのまま、路地の奥へと、連れていった。

 スーツ姿の男が、梓さんに何かを手渡した。そして、僕に向かってきた。


 「君は、何も見いひんかった。ええな? 血、出てるから、これ使え」


 男は、二つ折りのハンカチを僕に渡した。随分と分厚い、ハンカチだった。

 

 スーツ姿の男が去っていく。


 僕は、立ち上がった。梓さんは、打ちのめされたようにただ、田中先輩が消えた方向を見つめていた。


 「梓さん、大丈夫ですか? 怪我は?」

 「洋君……私は大丈夫」

 「帰りましょう」


 僕は、男に渡された分厚いハンカチを無理やりポケットに突っ込んで、梓さんの手を取った。ひんやりと冷たい梓さんの手が心地よかった。


 しかし、梓さんは予想外の行動に出た。彼女はいきなりーー

 僕に抱き着いてきた。

 そこにどういう心理が働いたのかは分からない。ただ、僕は、その感触をいつまでもいつまでも感じていたかった。


 「洋君……怖いから家まで送って」


 耳元で囁かれる誘惑に、僕は、抗えなかった。


 


★★★




 「痛そう…」

 「大丈夫ですよ。殴られるのは慣れてます」

 「……」


 梓さんの部屋はとてもシンプルなワンルームだった。ベッドには、ぬいぐるみが何個か置いてあり、微笑ましかった。僕は、小さなテレビの前のソファに座り、殴られた左頬の手当を受けていた。手慣れた様子に少し驚く。部屋を良く見ると、薬箱があり、見慣れない薬がいくつもあった。


 「ホステスの前は看護師してたからね。任せなさい」

 「そうだったんですね」


 手当を終えた梓さんが隣に座る。


 「なんか、変な感じ」

 「何がですか?」

 「君が横にいるの」

 「どうしてですか?」

 「今日は、一人のつもりだったから」


 梓さんが、煙草を取り出して、火を付けた。

 

 「田中先輩と付き合っていたんですか」


 聞くしかなかった。今、聞かないと、もう一生機会がなさそうだった。


 「まさか……あんなヤツとなんて」


 梓さんが、怖いぐらいの力で自分を抱くようにの肩に手を回した。僕は、手を伸ばしかけた。でも彼女に触れられず、僕は手を引っ込めた。


 「昨日、何があったんですか」

 「私ね、あいつに脅されたの。私ね、妹みたいな子がいてね。その子サクラっていう源氏名でこの街で働いていたの。【メープル】ってクラブ知ってる?」

 「ええ。最近流行ってますね」

 「そう、サクラはあそこで働いていたんだけどね、辞めたの。連絡も取れなくてね。家に行ってもいなくて。そしたらね、あいつが、私に連絡してきたの。サクラを探しているんだろって。ニタニタと笑いながら。居場所を知っているから付いてこいって。それが昨日」

 「まさか付いていったんですか」

 「馬鹿だよね。同じ店のボーイだから……それだけで信じた私は馬鹿だよ。それで、付いていったの。そこは、あいつが借りてるマンションの一室だった。でも、そこには誰にもいなかった。その代わりに、あいつはスマホで見せてきたの。サクラが、何人もの男にレイプされている様子を映した写真と動画を」


 梓さんの声が震えていた。僕は、結末が予想できた。だから、もう聞きたくなかった。


 「それでね、あいつは言ったの。お前が俺の女になれって。そしたらサクラは解放するって。私は断ったよもちろん。でも無駄だった。私は無理やり押し倒された。でもね、大丈夫。最後までいく前に抵抗して、逃げた。後からメールで、サクラの写真と動画をばら撒かれてもいいのかって。早くしないと飽きて、サクラ自身が高瀬川にばら撒かれるかもしれないぞって」

 「警察には……言えないか」

 「言えないよ。そんな事洋君分かっているでしょ? どれだけの犯罪がこの街で起こり、そして誰にも知られず消えていくかを」


 歓楽街というのは、無法地帯ではない。しかし、世間からの目は冷たい。そこでは、たくさんの人間の尊厳が踏み躙られ、犯されている。きらびやかな世界の底にはゴミと汚泥が溜まり、たくさんの悲鳴と嘆きが埋まっている。


 「今日、最後まで出勤しようか悩んだ。あいつはきっと今日も私を求めてくる」

 「だから、来るの遅かったんですね」

 「アイツが、仕事中にいつ何を言い出すか分からなかった」

 「それで、様子がいつもと違ったわけだ。でも、良く来ましたね。僕だったら怖くていけない」

 「負けるのが、嫌だったから。最後ぐらいは胸を張りたかった。私は逃げていないってことを証明したかった」

 「田中先輩、無事でしょうか。あの連れていった人達、カタギじゃないですよ」

 「だろうね。私に、札束押し付けてきたよ。君もでしょ?」


 僕は、ポケットに入っているハンカチに手を当てた。その間に挟んであるのは、おそらく分厚さからいって二十万円ほどだろうか。


 「素直にもらっておきますし、あの事は忘れます。梓さんもそうしてください。それがーー」

 「分かってるよ。大丈夫。大丈夫だから」


 僕の横に座り、膝を抱えた梓さんは小さかった。僕は、彼女に憧れていた。格好良くて綺麗で優しくて。


 「僕は――」

 「コーヒー、いれるね」


 僕が何か言う前に梓さんは立ち上がってキッチンへと向かった。


 「洋君、砂糖はいくついる?」

 「無しで構いません」

 「ちょっとは糖分取ったほうが良いよ。飲んだ後だし。少し入れるね」


 キッチンから、コーヒーに砂糖を入れる音が聞こえた。角砂糖だろうか? 少しと言う割には多いように思えた。

 

 「はい、どうぞ」


 梓さんがコーヒーを僕に差し出した。それ以外に何も持っていない。


 「僕の分だけですか?」

 「私は、いいよ」

 「そうですか、では、いただきます」


 コーヒーはエスプレッソのように濃かった。砂糖を入れた割には甘みはなく、何やらハーブのような味を感じた。

 飲みながら、僕らはあてどない会話を続けた。


 どれぐらい、話しただろうか。記憶が曖昧になっていく感覚。時計をみると、もう四時を過ぎていた。微かな眠りが頭を覆う。


 「ねえ、洋君。君には希望はある? 将来の夢とか」

 「あると思います?」

 「どうだろうね」

 「ないですよ。大学だって惰性で行っているだけです」

 「大学生なんだからもっと希望を持ちなよ」

 「そういう梓さんは?」

 「私には、あるよ」

 「それは――なんーー」


 僕は、会話の途中で強烈な睡魔に襲われた。効きにくいとはいえ、酒も飲んだ。そのせいだろうか。それにしてはーー


 気絶する手前の、ふわふわとした記憶の中、梓さんが倒れる僕に向かい母のような微笑みを浮かべているのが分かった。微かに聞こえた言葉はーー


 ありがとう。

 ごめんね。



 ★

 

 

 ハッと僕は目覚めた。梓さんのソファで横になって寝ていた僕は起き上がり部屋を見渡した。梓さんがいない。時計を見ると、気絶する前に見た時からまだ30分も経っていなかった。


 何だか嫌な予感がする。僕は立ち上がって、梓さんを探す。

 

 キッチンの横、トイレの隣。風呂場から、微かに聞こえる、水の音。

 駄目だ、行っちゃだめだ。見ちゃ駄目だ。このまま帰ろう。


 でも、僕はーー

 


 僕は、風呂場を覗いた。そこには、梓さんが、バスタブにもたれかかるように座っていた。右手首をバスタブに沈めている。風呂はまだ炊いたばかりなのだろう。湯気が揺らめいている。そしてバスタブに溜まったお湯の中で、真っ赤な煙のような帯が揺らめいていた。それは、梓さんの左手首から出血している、血の帯。


 「馬鹿野郎!」


 僕は、叫びながら、梓さんへ駆け寄った。手首をバスタブから出す。深く切られた手首からは血がダラダラと出血している。僕は着ているシャツを脱ぐと、傷に巻きつけた。梓さんは気絶しているのか意識はない。


 「くそ! くそ! 死ぬなら一人で死ねよ!」


 僕は、梓さんを風呂場から引っ張り出す。顔は真っ青だが、首に指を当てて脈を確かめる。まだ微かに脈はあるようだった。僕は、ポケットに入っているスマホで救急車と警察を呼んだ。


 僕は、怒っていた。あんまりだ。こんなのあんまりだ!

 だって、気絶し倒れている梓さんの顔があまりに安らかで、美しかったからだ。


 僕は、獣のように泣いた。

 泣いたのは、随分と久しぶりな気がした。





☆☆☆




 僕は、病室の扉の前に立っていた。

 眼の前の扉をコンコンとノックした。


 「どうぞ」


 扉の奥から聞こえた声に、僕は怒りと安堵と混ざった感情が起こるのを感じた。


 「失礼します」


 そう言いながら僕は病室へと入った。

 シンプルで何も無い部屋。窓際にはベッドがあり、そこに梓さんは座っていた。窓は開いており、春風がカーテンをそよぐ。青空と白い梓さんの姿がコントラストになり、僕の目を奪った。

 

 彼女を見るのは、あの自殺未遂の夜以来だ。


 久々に見る梓さんはやはり綺麗だった。


 「洋君。来るとは思わなかったよ」

 「僕も、来る気はありませんでした」


 梓のベッドの脇にある椅子に僕は座った。梓さんはやせ細っていたが、それでも、十分綺麗だった。左手に巻かれた包帯すら、なんだか美しさを引き立てる小道具のように感じた。


 「別に、謝罪もお礼も何もいりません。ただ、少し聞きたくて」

 「どうぞ」

 「最初から自殺するつもりだったんですか?」

 「そうだよ。死のうと思った。洋君を巻き込むつもりはなかったけど。うん、ごめん今のは嘘だ。怖かったから。一人で死ぬの。だから君に最後までいてほしかった」


 梓さんは、自殺を決意していたのだろう。きっと、自分の好きな物を食べて、飲んで、独りで死ぬつもりだったのだろう。


 「あの夜、コーヒーに薬を入れて僕を眠らせたんですよね」

 「看護師の時にもらったやつでね。医師ってさ、女に弱い奴多いからすぐにくれるんだよ」

 「そして自分も飲んで自殺しようとした。最近は薬だけでは死ねないから手首も切って」

 「そう。あはは、凄く楽だったけど、こうやって生き残っちゃうと地獄だったよ。胃洗浄ってあんなに辛いとは思わなかった。でも、どうして洋君はあんなにすぐに起きたの? あの薬、あの時間帯、少なくとも次の日の昼まで起きないと思ってたのに」

 「僕は、体質的にアルコールも薬も効きにくいんですよ」

 「抜かったなあ。アルコール効きにくい時点で気付くべきだった」


 明るく笑う梓さんを見ずに僕は窓の外を見つめる。そこに座る彼女は、もう僕の知っている梓さんじゃなかった。


 「梓さんは、なぜ自殺を決意したのですか」

 「綱渡りがね、しんどくなっちゃった」

 「綱渡り?」

 「そう。ずっとね、細い綱を上を渡っていたの。何かが狂えば、きっと私は墜落して死んじゃう。そう思ってた。嫌な事がいっぱいあって、いっぱい我慢して。でも、先が見えないの。私はいつまでこの細い綱を渡り続けなきゃいけないんだろうって」

 「それは……」

 「でもね、今なら分かる。細い綱なんて最初からなかったんだよ。ただ勝手に自分で歩いてきた地面に線を引いて、そこを細い綱だと錯覚していただけ。思い込んでいただけ。馬鹿だよね……ほんと」

 「田中先輩は、死にましたよ」


 あの夜の後、田中先輩は姿を消した。そして数日後、高瀬川で死体が浮かんでいるのが発見された。警察によって聞き込みがあったが、飲みすぎて飛びこんだ自殺という話で終わったそうだ。余罪が色々と出てきたそうだが、死んでしまっては仕方がないとばかりに警察の調査は終わった。


 「そう。そうだろうね」

 「【メープル】は反社会的勢力に繋がっている。いや、あそこは反社会的勢力が経営している店だった。当然、そこの店員に危害が加えられれば、報復が待っている。田中先輩はそんな事も分からずにそのサクラさんを襲ったのでしょうか」

 「……」

 「僕が殴られた時、まるで見てたかのようにあの人達は来ましたよね。偶然でしょうか?」

 「狩野店長のお店の近くだからね。そこで手伝いしているから当然そこは探すんじゃないかな」

 

 そう、その通りだ。だからこれは、僕のただの邪推だ。


 「田中先輩は、まるで、梓さんが来るのが分かっている風でしたね。梓さん、あそこで待つように田中先輩に連絡したんじゃないですか。そして、同時にあの人達にタレコミをした。この時間に行けば、いますよって」

 「どうだろうね」

 「死ぬ前の最後の復讐。そんな風に感じました」

 「……」


 僕は、立ち上がった。これ以上話す事はない気がしたからだ。

 去ろうとする僕の背に梓さんの声が届く。


 「ねえ洋君、私の事、好き?」


 梓さんと初めて会った時、僕は、一目惚れという概念を生まれてはじめて正しく理解できた。彼女は綺麗で優しくて……。


 「僕は、梓さんの事が好きーーでした。それでは、失礼します」


 好きでした、かあ。一番キツイなあーー

 

 そう後ろから聞こえるのを無視して僕は後ろ手で扉を閉じた。

 さようなら、梓さん。

 病室の扉の横。名札があり、そこには【横田サクラ】と書いてあった。


 結局、そういう事なんだろう。

 

 うちの店と【メープル】で掛け持ちしているキャスト、そして会長の反応。

  

 全く。これでは、何が嘘で何が真実か分からないじゃないか。

 だが、ショーなんて物はそんなものかもしれない。


 僕は、病院の出口へと向かう。そろそろお店に行って準備をしないと。

 また、ショーが始まる。


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