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前編

【サーカス】をテーマにした短編です。おかしい、ぴゅあぴゅあではーとふるな物語を書くはずだったんだ! 私は悪くない!



 「良い? このお店はサーカスよ。客が求めれば綱も渡るし火の輪だって潜る。獣にだってなりましょう。でも、それはあくまでショーだからよ。観客は、決してこちら側に来れないし我々もあちらに行くべきではないわ」


 艷やかで凛とした声が店内に響いた。


 「出た、ママのサーカス論」

 「ママ〜何言いたいかよくわかんないです〜」

 「枕すんなってことでしょ」

 「あ〜そういうこと」


 ここはホステスクラブ、【クラブバーナム】。

 僕は掃除する手を止めず、開店前のいつものミーティングを聞いていた。

 色鮮やかなドレスを着た綺麗な女性達ーーホステスではなくキャストとここの店で呼んでいるーーが並び、分かったような分かってないような表情を浮かべている。

 

 この店の経営者兼ママである、志乃ママを中心とした極楽蝶の円。桜色の上品な着物を着ているママの端正な顔が僕の目に映る。

 梓さんがいなければやはり一番目を惹くのはママだなーー

 とか僕は思いながらミーティングの邪魔をしないように掃除機ではなく、箒でフロアを掃いた。


 派手ではなく落ち着いた調度品に囲まれた店内は、高級ホテルのラウンジに似ていた。いくつもボックス席があり、ここで夜の蝶と客による喜劇悲劇が毎晩起こっている。僕はただの黒子だが、それはそれでやりがいがあると思っている。

 大事な仕事の一つである掃除にも僕は手を抜かない。しかし、いやにフロアは汚く、僕は開店までに掃除が終わるか少々不安になっていた。昨日の男性スタッフーーこれは他所の店と一緒でボーイと呼ぶーーが閉店後の掃除をサボったのだろうか。

 

 ミーティングは続く。


 「ーー最近、他所の店が反社会的勢力との関係が噂されているけど、うちのお店はそういった方の出入りは禁止にしているから、そういった人からのアプローチがあっても決して乗らないように。他店で仲良くなってもうちに連れてくるのはNGだからそのつもりでね。それと、うちの経営に関しては全て私が仕切っているからそこも安心してくれていいわ」

 「反社か〜こわ〜」

 「あれでしょ、確か【メープル】って店がそういうヤクザ絡みなんでしょ?サヤカが前言ってた」

 「うへーそこでは働かないでおこー」

 「掛け持ちなんてあんたには無理よ。よほどデキる人じゃないと」

 

 【メープル】といえば最近よく聞くホステスクラブだった。歓楽街の噂など信憑性はないが、覚えておいて損はない。そういえば、うちの店と【メープル】で掛け持ちしているキャストがいるとか何とか聞いたことがある。よくやる、と思う。

 その後、ママはいくつかの連絡事項をキャスト達に伝えた。

 最後に、ママが一人のキャストを名指しした。


 「――最後に、先月入ったユカリちゃん。うちは特にノルマは設けていないけど、だからといって同伴もアフターも指名もないのが許されるのは最初の一ヶ月目の間だけよ。頑張りなさい」

 「頑張ります……」

 

 名前を呼ばれ、ビクついた様子の女性――ユカリさんが小さな声で返事した。

 少し幼い顔を派手なメイクで誤魔化しているが、童顔が隠しきれず、まるで小動物のような印象。

 確か、まだ入って一ヶ月も経っていないはずだった。最初の頃は見ていられず色々とフォローしていたが、最近はようやく馴染めたのかそれなりに上手くやっているように見えたが、どうにも成績は芳しくないらしい。


 「以上、今日もしっかりとショーを見せなさい!」

 「「「ハイ!」」」


 僕は、このミーティングが嫌いではなかった。最後に響くキャストの声がどこか僕の深いところの高揚感を煽る。


 志乃ママは、そのままボーイのトップである狩野店長と何やら話している。キャスト達は好き勝手に喋りながら店の奥の待機室へと向かった。 

 時計を見ると、もう十九時半を過ぎていた。あと三十分で開店だ。僕は箒でこのままやるか掃除機を使うかで悩んでいた。


 「おい平野。昨日お前シフト入ってたか」

 

 僕を呼んだのは、田中先輩だった。僕と同じボーイの格好、黒のスラックスに革靴、白シャツにベストを着た田中先輩はその無駄にでかい図体を揺すりながら、僕を見下ろした。その表情には怒り。一旦掃除の手を止めた。


 「いえ、昨日はシフトに入っていません」

 「ちっ、じゃあヒロシか。掃除サボるなんざいい度胸だ。あいつシメるか」


 やり場を失った怒りはとりあえず僕の方に来なさそうで安心した。僕は掃除を再開する。

 暴力性をそのまま固めて型にして作った、ブルドックみたい顔。元格闘選手か何か知らないが、僕はこの男にとうてい好感は持てなかった。

 しかし逆らうほど僕も愚かではない。


 「なんかあったんじゃないですか? 何も聞いてないですけど」

 「何があろうが掃除しねえと次の日に迷惑かかるだろうが」

 「おかげさまで掃除に手一杯で、まだドリンクとアイスの準備がまだなんですよ」

 「はっ? まだ終わってねえのかよ!」

 「狩野店長に気付かれる前にやったほうが良さそうですね」


 逆らう気はないが、仕事はしてもらおう。


 田中先輩は掃除とドリンク・アイス準備のどっちのが楽かを思案しているような表情を浮かべている。偉そうな事は言うが、この人が掃除をしているところなんて見た事がない。閉店後の片付け掃除は全て後輩にやらせて自分はキャストと楽しそうに話しているだけだ。

 

 だから、あとはもうひと押しすればいいだけ。 


 「掃除は僕がやりますよ。まだまだやる場所残ってますし」

 「ちっ、さっさとやれ。ドリンクとアイスは俺がやる」


 バーカウンターの内部へと引っ込んでいく田中先輩にホッとした僕は、彼の視線に入らないように店の入口の掃除へと向かった。

 ああは言ったが、あと掃除が残っているのが入口だけだ。


 入口には様々な花が飾ってあり、今週誕生日のキャストを祝う胡蝶蘭の花が溢れていた。その細い一本一本の花の枝に諭吉さんが一枚消費される事を知ってから、僕は真剣に花屋でも始めようかと検討した。この入口だけで僕のバイト代の何ヶ月分なのだろうか。


 考えると落ち込みそうなので思考を中断。志乃ママは掃除に関しては人一倍うるさいが、特に入口が汚いと激怒するので、念入りに掃除をする。


 そういえば、梓さんが見当たらなかった。梓さんはこの店のナンバースリーの座にいるキャスト。彼女は、他の店でも働いているのか、それとも本業があるのか、うちの店には週に数回ほどしか出勤しなかった。しかし、今日のシフトには入っているはずだが、かといってミーティングに遅れるような人ではないはずだ。少し、今日の仕事に対するモチベーションが下がったが、それでも入口の扉を開けて表裏を丁寧に拭く。


 ビルのワンフロアを丸々クラブにしているこのお店で、開店前に誰かと会うことは少ない。背後で、エレベーターの扉が開く音が鳴り、僕は心の中で舌打ちをした。時々早めに来る客がいるのだが、今日はまだ準備が出来ていない。さて、断るかどうかを思案しつつ振り返った。


 エレベーターから降りてきたのは梓さんだった。


 胸まで伸びた黒髪に光が艷やかに流れている。柳眉の下には莫大な引力を秘めたーーまるで小さな銀河のような瞳。高い鼻梁に柔らかそうな唇に最低限の化粧。その顔に僕は何か宗教画めいた美しさを見出していた。

 

 「おはよう。ママは?」


 志乃ママとはまた違う、張りのある声。艶とか、色気とかそういうのじゃない、純粋な綺麗さ。そういうピュアな成分を多分に含んだ声色。


 僕は、心が揺らめくのを必死に抑えながら答えた。


 「梓さん、おはようございます。志乃ママなら奥で狩野店長と話していますよ」

 「そう。ミーティングで私について何か言ってた?」

 「いえ、何も」

 「ありがと。掃除急がなきゃね」

 「はい、開店には間に合わせます」


 がんばれ少年――そう小さく呟きながら梓さんが僕の横を通り過ぎた。ふわりと香る甘い匂いを、僕は心の奥に閉じ込めた。


 少しだけ、掃除をする手に気合が入った。





☆☆☆




 「お願いしまーす!アイス追加で!」

 「八番テーブル、ドンペリ追加でーす!ロゼだからね!」

 「ちょっと! フルーツまだ!?」

 「ブルゴーニュって何があったっけ?」

 「タコ焼き三人前出前してってまさちゃんが〜」


 二十二時。流石土曜日の夜だけあってお店は満席で忙しさのピークに達していた。僕は、くるくるとバーカウンターで無線から来た注文、文句、要請を狩野店長と捌いていた。長く伸びた髪を後頭部で縛った狩野店長はタキシードを着ており、器用にフルーツをカットしていた。

 オーダーに囚われず、今やっている作業の優先順位を決める。効率良く導線を意識して動く。

 視界をもっと広く!


 梓さんと志乃ママがいる、一番テーブルーー通称VIP席――に目を配る。田中先輩がブランデー水割り用の氷が減っているのに気付かず座ってヘラヘラしている。梓さんならそれを指摘するはずなのだが、それもない。どうしたのだろうか。


 「店長、VIPのアイス追加してきます。八番のドンペリと三番のルイ・ジャドのセットお願いして良いですか? 田中先輩、無線に出ません」

 「任せろ。ついでに田中呼んでこい。高瀬川に沈めたろかあいつ」

 「その時は手伝いますよ」


 僕は狩野店長と軽口を叩きながら氷の入ったアイスペールを持ってフロアに出た。少し暗い店内は大いに盛り上がっており、キャスト達は話術と美貌で客に夢幻のショーを見せていた。僕は、丁寧に見える最速の歩き方でフロアを横切り、奥の席へと向かう。

 

 出勤時と違い髪を綺麗にアップにして、白を基調としたドレスを着た梓さんが視界に入る。少し派手目に施したメイクは、梓さんには似合わないなと思いながらも、やはり他のキャストとは一線を画する綺麗さだと思う。


 コの字型のボックス席の端に座る梓さんがこちらに気付く。僕は席の近くでしゃがむと、梓さんにアイスペールを渡す。梓さんがテーブルの上の空になったアイスペールを僕に渡してくれた。


 「アイスありがとう」

 「いえ、何か追加は?」

 「大丈夫」


 僕は、梓さんの向こう側に座る田中先輩に近付くと耳打ちした。


 「先輩、店長が呼んでます」

 「あん? ちっ。ーー会長また呼んでくださいよ!俺じゃんじゃん飲むんで!」


 田中先輩は、そういうと、バーカウンターの方にドスドス足音を響かせながらと歩いていった。もう少し考えて行動しろと思う。

 ちらりと梓さんのほうを見ると、なぜか少し安心したような表情だったが、すぐに笑みを浮かべた。


 僕が席から離れようとすると、梓さんと志乃ママの間に座る、白髪の初老の男性が僕に声をかけた。


 「お、君もここのボーイか。未成年? どうだ一杯?」

 「彼はちゃんと成人してますよ会長。童顔ですけど、優秀なボーイです」


 志乃ママが僕の代わりにそう答えた。


 「ほー。どうかね、君、一杯」

 「よろしいのですか?」


 僕は、その初老の男性とママを交互に見つめた。


 「もちろんよ。私の隣でもいいかしら?」

 「ああかまわん。ほれ、ワシが入れてやろう」


 僕は、ちらっとバーカウンターに目線を送る。気付いた狩野店長がサムズアップ。まあ少しぐらいは大丈夫だろう。ママが梓さんにアイコンタクトを送る。しかし、梓さんは水割りを作るセットが自分の目の前にあって、会長の手の届かないところにあることに気付いていない。


 「梓ちゃん、水割りセット」


 ママの少し温度の下がった声。

 気付いた梓さんが慌ててブランデーとアイスペール、水差しを会長の手の届く範囲に動かす。


 「会長、水割り上手ですもんね。教えていただきたいです」


 梓さんがそう言いながら、真剣に会長の作る水割りを見ていた。

 普段の梓さんならあんなミスはしない。一体どうしたんだろうか。何だか少し緩んでいるように見えた。


 「コツはな、ブランデーを入れてからよく冷やす。そうすると上手く水と馴染む。【メープル】にいるバーテンダーに教えてもらってな。おっと他の店の話はNGだったな!」

 「大丈夫ですよ会長」

 「流石ママ!」


 会長は豪快に笑いながら氷の入ったグラスに琥珀色の液体を注ぐと、マドラーで素早く氷を回すようにかき混ぜた。見る見るうちにグラスの表面が冷えて白くなっていく。何度か指でグラスの表面を触り温度を確かめ、会長は水を注いだ。


 そして、くるりとマドラーを一周回すと、僕の前に差し出した。


 「ありがとうございます」

 「結構なお点前で」

 「お茶は好かんがな! ガッハッハ! それじゃあカンパイ!」


 全員がグラスを合わせる。薄くなった琥珀色の液体が、薄められてなお強烈な香りを立ち昇らせている。僕はゆっくりと口に含み、飲み込んだ。きっと美味しいのだろう。しかし、目の前の梓さんの様子がいつもと違うのが気になって仕方がなかった。


 「しかし、ここは別嬪ぞろいだな! ああもちろんママが一番だが!」

 「梓ちゃんも綺麗でしょ?うちのナンバースリーよ」

 「君も別嬪やなあ。どっかで見たことある気がするが」

 「あら会長くどき上手ね。あたし嫉妬しちゃうわ」

 「冗談だよママ! なるほどこの店でナンバースリーは大したもんだ」

 「ナンバースリーになったのはたまたまですよ。あたしはまだまだです」


 梓さんの会話のキレがいつもより悪いように思えた。何だか、僕は居づらくなって、しばらく会話をしてから水割りを飲み干した。

 グラスを会長に掲げる。


 「ごちそうさまです。すみません、仕事に戻ります」

 「おお、いいね少年。頑張れよ!」

 「ありがとうございます!」


 僕は立ち上がった。なぜか、それを名残惜しそうに見つめてくる梓さん。なんだか梓さんが今日はやけに小さく見える。


 どうしたんですか?

 そう聞けない僕は所詮は黒子で表舞台には決して出られないのだ。僕らには必要以上の言葉を発する事は許されていない。


 ただそれだけで、なんだか急に僕は仕事がつまらなく思えた。そんなこと、分かりきっているのはずなのに。




☆☆☆




 閉店後。

 明るくなったフロアには、独特の香りが漂っていた。それは、香水や体臭やアルコールの入り混じった匂い。僕は、窓と入口の扉を全開にして、掃除を始める。


 綺麗なショーの跡に残るのはゴミと、汚泥。床は汚れ、空気は淀む。


 バーカウンターでは狩野店長が田中先輩に説教していた。まあ当然だろう。今日は妙に動きが悪かった。どこか浮ついたような、そんな感じ。

 僕は、待機室で私服に着替えて出て来たキャスト達を横目に掃除機をかける。志乃ママは会長と飲みいったのだろう。梓さんは先程までいたが、姿が見えない。


 「はー疲れた〜まじ今日最悪。めっちゃ胸触られた」

 「触るほどないじゃんあんた」

 「殺すぞ?」

 「とりあえずシューゾーのお店いこうよ」

 「ぜってえお前潰す」


 キャスト達が僕の横を会話しながら通り過ぎる。僕のことを無視しているわけではない。ただ、視界に入らないのだ。ただのボーイにわざわざ挨拶する人は少ない。でもそれはそれで構わなかった。


 僕はフロア全体に掃除機を掛けたあと、いつの間にか説教は終わっていたらしい狩野店長と田中先輩が私服に着替えた姿で男子更衣室から出てきた。


 「平野お疲れ。あとでうちの店こないか? 明日休みだろ、酒ぐらいただで飲ませてやるよ」

 

 狩野店長がそう言うと、ポンと僕の肩に手を乗せた。


 「行きたいのやまやまなんですが、今日は帰ってちょっとやらないといけないことが」

 「あ? 店長が来いっていってんだからこいよ」

 「田中うるせえ。お前は俺の店手伝え。そうか、まあ暇なら顔を出せよ」

 「俺もただ酒飲みたいっすよ〜」

 「仕事したら飲ませてやる」


 先行くぞ、と言い残し、狩野店長が去っていった。なぜか残る田中先輩。


 「おいお前そういえば梓見なかったか?」


 少しにやけた顔の田中先輩の言葉に僕は違和感を感じた。なんでこの人は梓さんの事を呼び捨てにしているのだ。

 知っていても教える気のない僕はそっけなく答えた。 


 「いえ、見ませんでしたけど」

 「ちっ。ならいい」


 そう吐き捨てると田中先輩が帰っていった。


 狩野店長は、すぐ近くでバーを開いていた。いわゆるナイトバーと呼ばれるバーで、深夜、つまり仕事を終えた水商売のボーイ達が副業がてらに開くバー。そうやら田中先輩はそこを手伝わされているようだ。

 ナイトバーの主な客層は仕事終わりのホステスやキャバ嬢だった。彼女達は、時に客と一緒にもしくは友人や同じ職場の子とやってくる。ホストクラブほど高くなく、気軽にいけるのが良いらしい。


 ナイトバーはいくつもあり、人気のボーイの店に貢ぐ子は多い。狩野店長の店も人気店の一つだった。


 男に貢がれた金は、再び男に還っていく。

 まるでこの世の縮図だ。


 くだらない、と思いながら僕は掃除機を片付けた。その時ようやく待機室が騒がしい事に気付いた。いや、騒がしいのはいつもの事だが、それとは種類の違う喧騒。


 僕は、待機室に繋がる扉をノックする。奥には更衣室が続いている。ボーイが入る際は必ずノック。更にキャストが同行しないと中に入れないというルールが決まっている。


 「大丈夫ですか?」


 僕がそう声をかけると、扉が開いた。


 「あ、丁度よいとこにボーイがいた!」


 出てきたのはキャストの一人であるマリエさんだった。豊満な乳房がワンピースから覗く。


 「どうかしました?」

 「ユカリが飲みすぎてトイレから出ないのよ〜わたしお客さんに呼ばれてるから先にトイレ行きたいのに〜」

 「出ない? もしかして急性アル中ですか?」

 

 急性アルコール中毒。客に煽られ、もしくはボトルを開ける為に飲み過ぎてしまったキャストがなることが多い。ユカリさんは今日志乃ママに発破をかけられたばかりだ。無茶をしたのだろうか? 今日は忙しく、フォローが出来ていなかったかもしれない。僕は少しだけ責任を感じた。


 「どうしたの?」


 涼やかな声が背後から響いた。

 僕の横に現れたのは梓さんだった。どうやらお客さんの見送りに行っていたようで、まだドレス姿だった。


 「ユカリさんが急性アル中っぽいらしくて……」

 「吐いた?」

 「いえ、まだかと。トイレから出ないみたいです」


 梓さんが大股で待機室に入った。横にあるトイレの扉の前で数人のキャストがトイレの扉に向けて声をかけていた。


 「みんなどいて、」


 梓さんが皆をどかせている間に、僕は、一旦バーカウンターに戻った。確かドライバーがあったはずだ。

 僕は引き出しからドライバーと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持って、再び待機室に入った。


 トイレの扉を梓さんがどんどんと叩いて声をかけていた。


 「ユカリ! 聴こえる? 鍵開けて」


 返事がない。中で意識を失っているならまずいかもしれない。


 「梓さん。鍵、ドライバーで開けられるんで開けます」

 「そうね、そうして」


 僕は、ドライバーで鍵の部分にあるネジを外していく。ネジをなくさないようにポケットに入れる。

 鍵が外れたドアを開けた。トイレにはアロマと吐瀉物の匂いが漂っていた。

 ユカリさんは座り込み、便器に顔をむけていた。


 「ユカリ!」


 梓さんが、ユカリさんを起こす。僕も中に入り起こすのを手伝う。

 

 「ギモチワルイ……」 


 どうやらまだ、ユカリさんに意識はあるようだ。しかしその顔面は真っ青だった。右側に梓さん、左側に僕がいて肩を貸した。


 「うっ……まだ吐きそう……」

 「吐けるなら吐いた方がいいわ」

 「ううううううむりです…」

 「指、突っ込むよ」


 梓は右手の人差し指と中指をユカリさんの口に突っ込む。

 ビクリと痙攣したあとユカリさんは口から大量の吐瀉物をぶちまけた。


 「おええええええええ」


 それは便器に入り切らず、指を突っ込んだ梓さんの腕やドレス、そして僕にもかかった。


 「うわーきもー」

 「最低」

 

 見ているだけの外野が騒ぐ。うるさい黙れ。タオルの一つでも持ってこいと思ったが口にはしない。

 

 ユカリさんは何度か吐いては止めを繰り返した。


 「ぜえ……ぜえ……」


 涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔はしかし最初よりも正気を取り戻しているように見える。


 「誰か、タオルと水!」

 「水あります」


 僕は、持ってきた水をユカリさんに渡した。ごくごくと飲むユカリさんを尻目に梓さんは、外にいたキャストにタオルを持ってくるように支持した。僕は、ユカリさんが倒れないように支える。


 掃除用に買ってあった新品のタオルを受け取った梓さんは、ユカリさんの顔をまるで母のように拭いてあげた。


 「あーあ可愛いな顔が台無し。とりあえずそこのソファーで休も」


 ユカリさんのドレスにかかった吐瀉物を丁寧に拭くと、僕らもそれぞれで自分にかかった分を拭いた。


 「そっちの肩持ってーーせーのっ」


 僕と梓さんでユカリさんを立ち上がらせる。


 「どいて!」


 道を塞ぐ外野をどかせ、ユカリさんをソファーに寝かし、彼女が着ているドレスの胸もとを緩めた。


 「多分もう出ないと思うけど念の為、横になって」

 「うううう……ごめんなさい……ごめんなさい」

 「いいから休みなよ」


 ユカリさんが梓さんの手を握ったまま泣いていた。


 一段落ついたからだろうか、残っていたキャスト達が帰りはじめた。


  「あとよろしくね〜」


 マリエさんもそう言うと帰っていった。

 僕は、とりあえずトイレを掃除しようと思った。明日は日曜日で休みなのだ。あのまま放置すれば月曜日に志乃ママが激怒するだろう。


 梓さんが、自分のドレスを見つめていた。白いドレスには吐瀉物の跡がこびりついていた。


 「これ、高かったんだけどね。新しいの買わないとだなあ」

 「ユカリさんのも、ダメそうですね」

 「仕方ないよ。ああ、手伝ってくれてありがとね。制服、汚れたけど大丈夫?」

 「クリーニング出すので平気です。ユカリさんの様子見てもらってていいですか。トイレ掃除してきます」

 「はは、君は掃除が好きだねえ。私も手伝うよ」

 「いえ、これ以上は僕の仕事です。ユカリさんについてあげてください」

 「君は偉いね」


 僕は梓さんに背を向けて、トイレへと向かった。まずは、取った鍵を再びドライバーで付けていく。僕の背に梓さんの声が届く。

 

 「そういえばちゃんと話すの初めてだね」

 「はい」

 「名前ちゃんと聞いてなかった。ごめんなさい」

 「いいんです。僕らは黒子ですからね。平野洋って言います。平らな野原に太平洋の洋」

 「ヒラノヨウ、君か。じゃあ洋君って呼ぼうかな」


 鍵が元通り動く事を確認すると、今度は便器周りを掃除する。なんだか今日は掃除をしてばかりいる気がする。時間がさほど経っていないのでブラシで擦ればすぐに汚れは落ちた。


 僕は、梓さんとの会話を続けた。


 「梓さんは本名ですか?」

 「そうだよ」

 「素敵な名前です」

 「へー君はそういう事もいえるんだね。意外。でも嬉しい」


 先程使ったタオルで床にこぼれた吐瀉物を取り除く。洗面台の下から雑巾を取り出し、床を拭く。


 「ユカリさん、一人で帰れなさそうですね」

 「そうね。送ってあげないと」

 「僕だけだとまずいので、梓さん申し訳ないのですが付いてきてくれますか?」

 「ボーイは大変だね。もちろんそのつもり」


 ぼくは、ある程度トイレが綺麗になったところで立ち上がった。

 ソファーではユカリさんがスヤスヤと寝ている横に梓さんが座っていた。

 なんでだろうか。その姿に僕は、何か尊さを感じていた。


 「とりあえず僕は着替えてきます」

 「じゃあユカリを着替えさせてからあたしも着替えるよ」

 「一人でいけます?」

 「こう見えて結構力はあるほうだから」

 「分かりました」


 僕は、待機室を出て、扉を閉じた。


 心が唸りをあげているのがわかる。

 ああ、駄目だ。

 こういう時は大概、ろくなことにならない事を僕は知っていた。


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