大切な人のクローンを本当に望みますか?
この作品は私自身が主催する、「ほころび、解ける春」企画の参加作品です。
後味の悪い短編です。ご注意下さい。
もしも。
愛する妻を亡くしたなら。
愛する夫を亡くしたなら。
愛する子供を亡くしたなら。
家族、友人、恋人。大切な人を亡くしたら。
もう一度、会いたいと思ってしまわないだろうか。
そして、その方法を提示されてしまったら?
飛びついてしまわないと、あなたは言えるだろうか。
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病院の待合室。
肩を寄せ合って座る、一組の夫婦がいた。
同じように待合室のソファーに座る人たちもまた、夫婦らしき男女一組が多い。この病院が産院だからである。
柔らかい印象を受ける、ベージュ系の色合いを基調とした待合室だ。空間を広くとってあり、大きな窓が春の陽光を運んで明るい。
しかし窓の外には高い壁が、圧迫感のないような外観で、さりげなく病院内の様子を他人に見せないよう、遮っている。
落ち着かない気分を和らげるためなのだろう。院内の白壁には青い空の描かれた絵画がかけられ、待合室のあちこちに鉢植えの植物が置かれていた。
「ね、あなた。あの子に会えるの、とっても楽しみね」
自分の隣に座っている妻に話しかけられ、枝元 集二は、正面の鉢植えから彼女の目に視線を移した。妻、素子の目は、集二を通り越し、遠いどこかの景色を映している。
「……そうだな」
幸せそうに微笑んで、まだ何もいない自分の腹を撫でる妻に、集二は相槌を返した。
集二の声に熱がこもっていないことを、夢の中の住人になっている妻は気づかない。
「今度は一人で学校にも行かせないわ。毎日送り迎えする。お友達と遊びにだって行かせないわ。一分一秒だって一緒にいる」
素子の口調はうっとりと、歌うようなものだった。
二人はある決断をして、ここにいる。
素子は娘を取り戻すため。
集二は崩れた家庭を取り戻すため。
二人とも、決断に伴う行動は同じものだが、決断に至る考えは違っていた。
今から数十年前、主に不妊治療目的で、『ヒトに関するクローン技術等の規制』に関する法律が改正された。
改正前は、クローン人間の生成自体が禁止されている上に、人間の体内に胚を移植すること自体も禁止されていた。それが取っ払われたのだ。
もちろん、全面的ではない。
臓器移植のため、スペアとしてのクローン人間の生成は禁ずる。
クローン人間の人権は、クローン人間でない人間に準ずる。
これらは一例に過ぎず、何十条に亘って様々な項目が定められている。
『ヒトに関するクローン技術等の規制』に関する法律の改正に関しては、世界各国でかなりの論争が起こった。
道徳観念、人権、倫理、宗教。それらの観点からクローン人間を禁ずる国が続出したが、中国を筆頭に推し進める国が徐々に広がり、一部の条件につき認めるようになった。
人口知能、ゲノム編集、キメラなど。更なる論争の種になる技術が飛躍的に伸びたのも要因の一つだ。
クローンなどかすむような、『神の領域』を侵す技術の発展、乱立。
さらに人間のクローンよりも前に、死んだペットのクローンビジネスの成功。そこから試算されたクローンがもたらす経済的メリット。
これらが、クローン技術を人間にも使うことへの恐怖、嫌悪を置き去りにしたのだ。
徐々にクローン人間を容認する国が現れ始め、日本もまた、海外から遅れること約十年。
法律が改正された。
そうはいっても、問題がないわけではない。
かつて、精子バンク、試験管ベイビー、代理出産でさえ嫌悪感を持たれた。法律が改正されたとはいえ、人間をコピーするというクローン技術について、いまだに根強い反発は残っている。
クローン技術を扱う病院、産院は、全国でも少数で費用もまた莫大だった。
つまり今ここにいる人たちは、それだけの費用を払うことの出来る経済力を持った者たちばかり、ということになる。
そして、世間に流れる倫理観よりも、優先する『何か』を持った者たちでもある。
集二と素子もまた、それに該当する者だった。
清潔でデザイン性の高い待合室。素子は愛しそうに空の腹を撫でている。
集二は目線を外へ向けた。
高い壁の上から差し込む陽光は黄色を帯び、ソファーに座る二人を温めている。
「枝元さん。枝元素子さん」
素子の名前が看護師に呼ばれた。
「はい」
「どうぞ」
看護師に促され、集二と素子は診察室に移動した。
「亡くなられたお子さんのクローンをご希望で宜しいですね?」
完全防音の診察室で、中年の医師が確認してきた。
頷くと、隣でも同じ気配がした。素子こそ、亡くした娘のクローンを切望している。集二がクローンを望むのは、精神を病んだ妻を、幸せだった家庭を取り戻したいからだ。
各国で法律が改正されてから、クローン技術は飛躍的に伸びている。現在では、冷凍保存された死体からでもクローン作成が可能になった。
そのため希望した者に限り、死亡直後、即座に冷凍保存する選択出来る。
集二と素子の夫婦もまた、我が子を交通事故で亡くした時に冷凍保存を希望した。
我が子のクローン作成のために。
「簡単な流れをご説明しましょう。まず、奥さんの未受精の卵子内部のDNAを取り除きます。次にお子さんの細胞から体細胞の核を取り出し、卵子に注入。奥さんの子宮に戻します。後は普通の出産と同じです」
ここへ来るまでに貰っていたパンフレットにも書いてあったことを、医者が繰り返す。
「肝心のリスクについてですが」
医師の痩せた指先が、繋が机に広げられたパンフレットをなぞる。パンフレットには見やすく色分けされたグラフ、簡略化された図解と共にリスクの解説、かかる費用などが書いてある。
「第一に、クローン化の成功率が極めて低いということです。ひと昔前の僅か2%にも満たない数字に比べれば、現在は精度があがりましたが、それでも5%から10%ほどです」
既に承知していた内容だ。集二と素子は表情を変えることなく頷いた。
「第二に、成功したとして、お子さんが健康上の問題を抱えている可能性があります。これまで多くの患者に脳や心臓、肝臓そして免疫系の問題が見られました」
説明をする度に書類を手渡された。書類には医師が説明したことと同じ内容が書かれ、上記の事柄に同意するかどうかの選択と、サインを書く空欄があった。勿論、同意しなければ集二夫婦の望みは叶わない。
「第三に、こちらが一番重要なのですが。同じ遺伝子を持っていても、全く同じになるとは限らないという点です。胎児の時にどの遺伝子を有効にして、どの遺伝子を無効にしたかによっても変わってきます。生まれて成長する過程なら尚更、どんな環境で過ごしてきたかが影響します」
同じ環境で育たなければ、全くの同じ人間にはならない。非常によく似た外見、性格の別人になるということ。医師はパンフレットの箇条書きを指で小さく叩き、集二たちを上目遣いに観察した。
「クローンをご希望の方からの苦情で最も多いのがこの第三項目です。後からどんなにオリジナルと『違う』と訴えられても当医院は一切責任を負いませんことを、ご了承ください」
パンフレットには過去の訴訟例が載せられ、どれもが原告側の敗訴、病院側の勝訴であることが強調されていた。
新たに書類が手渡される。受け取ったそれは他の書類よりも重く感じた。
「これらの問題をよくご理解したうえで、お子さんのクローンを望みますか?」
『はい』をまるで囲み、署名捺印する。
「それではまず適性検査を受けて頂きます。8番の扉の前でお待ちください」
集二は素子と連れ立って、診察室を後にした。
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「そうそう。上手ね、早苗」
ぐちゃぐちゃと画用紙に線を描き続ける娘を、満面の笑みの素子が手を叩いて賞賛した。にぱっと小さな歯を見せた早苗が、画用紙にクレヨンで線を追加していく。
集二はそんな妻と娘の様子を、自宅のソファーに座ったまま眺めていた。
休日のどこにでもある家族の風景。二度と手に入らないとさえ思ったものが、ここにある。
必要書類の提出を済ませて施術を受け、3度目で成功。1年後、妻素子の腹に本当の生命が宿った。最初に病院を訪れてから5年。クローンの早苗は、3歳になった。
『ママ』も『パパ』も、飼っている『犬』でさえすべてぐるぐると重ねられた円でしかないが、愛娘のお絵描きはどんな絵画にも勝る芸術品だ。
『早苗』もお絵描きが大好きだった。よくこうして、大量に画用紙を消費していたものだ。
早苗は順調に育っていたが、やはり『早苗』に比べて体が弱かった。風邪をひく頻度が多く、数種のアレルギーと喘息も持っている。
「さ、そろそろ片付けてお散歩に行こうか?」
時計に目を走らせた素子が早苗を誘った。その言葉を聞いた集二は、ソファーから腰を上げる。
休日の午前十時。散歩、買い物、遊園地。パターンはいくつかあったが、『早苗』の時は散歩が一番多かった。
「パパもいく?」
舌っ足らずの声に微笑み「行くよ」と答えた。素子が用意した上着を羽織り、三人で手を繋いで出かけた。
外は暖かかった。
春を迎えた道には、新芽が黄緑の彩りを添え、虫が飛び交っている。時折、近所の人とすれ違った。軽く会釈や挨拶をして通り過ぎた。
後ろから、抑えられた声がぼそぼそと追いかけてくる。肩越しに盗み見れば、こちらをチラチラと見ながら何かを話していた。時々、生ぬるい風に運ばれ、「あの子」「クローン」という単語が耳に流れて入ってくる。
その度に素子の顔に固い表情が貼りついた。おそらくは集二自身にもだろう。
『ヒトに関するクローン技術等の規制』が改正され、マスコミでクローン技術で生まれる人間に対する人権が幾度となく取り上げられる昨今。それでもなくなることのない偏見や差別は付いて回る。
「あっ、わんわん」
散歩中の白い小型犬を見つけた早苗が、嬉しそうに笑った。集二と素子の手を放し、駆けだそうとする。微笑ましく見守るような、幼児にありがちな行動。
「駄目よっ!」
甲高い声を上げて、素子が早苗の手を引いた。前に進みかけていた小さな体が、ガクンと止まる。
「ママ?」
素子を見上げる早苗の幼い顔に、怯えの色が影を差した。
「『早苗』、犬が苦手だったでしょ? ね、そうよね、早苗」
素子は口元を引きつらせて、早苗を見下ろした。目は弧を描いているが、そこに優しい光はない。
「い、いたいよ。ママ」
早苗がか細く痛みを訴えた。涙が盛り上がる。
「ほら、いつか吠えられて噛まれそうになったじゃない。無理して近づかなくていいのよ。怖いんでしょう? ね、早苗」
素子の、不自然に吊り上がった口元がひくひくと痙攣している。あとほんの少しの亀裂が入れば、あっという間にほころび、決壊する。そんな表情。
少し離れた所にいる、白い小型犬の飼い主が探るように素子と早苗を見比べていた。
「ああ、そうだったな、素子」
集二はしゃがんで両腕を広げ、早苗を囲った。さりげなく体を素子と早苗の間に入れて、早苗の目を覗きこむ。
「早苗。わんわんは早苗をガブっと噛むかもしれない。だからやめとこう。な」
ゆっくりと噛んで含めるように、しかし有無を言わせないよう、目に力を込めた。集二の意図を察したのか、圧力に屈したのか。くしゃくしゃと顔を歪ませた早苗が頷くと「偉いぞ」と頭を撫でた。
それから素子を見上げる。
先ほどの亀裂はかろうじて埋まり、『早苗』に見せていたものとよく似た笑顔が、薄い膜のように素子の顔を覆っていた。
集二は立ち上がると、早苗と手をつなぎ直す。強張った顔の早苗が、ぎこちなく小さな足を動かした。素子もまた、早苗に合わせてゆっくりと歩みを再開させる。
表面上は何事もなかったように、散歩が続けられた。
どこからか香ってくる水仙の匂い、明るい春の日差し、道端に咲くたんぽぽ。
その黄色い花に小さな赤色を添えるてんとう虫、小鳥のさえずり。
上着を羽織ったままでは汗ばみそうな陽気も、三人の心を解かすことはなかった。
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「なあ、早苗を保育園に入れないか」
散歩から戻った集二は、早苗を寝かしつけた素子に提案した。
休日や夜は集二がいるから止められる。だが昼間はそうはいかない。
このままでは集二のいない時にいつか、素子が早苗をどうにかしてしまう。保育園に入れて離れる時間を作れば、避けられるのではないかと思ったのだ。
「それは出来ないわ。『早苗』は保育園に通っていなかったじゃない」
「分かっている。だが、素子。『早苗』と全て同じようにするのは無理だ」
失くした子供と全く同じように育てようとした。しかし、少しずつ、違うことが増えていく。
たとえば先ほどの犬。『早苗』は2歳の時に、近所の犬を撫でようとして吠えられ、犬嫌いだった。しかし今度の早苗はまだそれを経験していないため、犬を嫌っていない。
前の『早苗』は1歳でよちよち歩きをした。今回の早苗は、1歳1カ月で歩いた。
素子は、そんな小さな差異に過剰に反応した。早苗はそんな母親の顔色をうかがうようになり、『早苗』よりも引っ込み思案な性格を見せ始めている。
素子の取り戻したかった娘は別人で、集二の取り戻したかった家族は、遠い。
胸を占めるのは、こんなはずではなかったという、じくじくとした苦い後悔。黒い染みのようなそれは、確実に集二と素子を蝕んでいく。
「……同じが無理?」
素子の声が震えた。大きく取った窓からは、普段通りの日差しが室内を照らしている。
「ああ、無理だ。あの子は『早苗』じゃないんだ」
「『早苗』じゃないですって!?」
素子の叫びが部屋の空気を裂いた。集二は素子に負けないように声を張り上げた。
「認めよう、素子! あの子は早苗という新しい俺たちの子なんだ。前の『早苗』は亡くなったんだ」
「いいえ! そんなの認めない! あの子は『早苗』なの」
素子の声と表情がひび割れる。素子もまた、気付いているのだ。気づいているからこそ、必死に取り繕おうとしている。まだ修復できるのだと信じている。信じようとしている。
「いい加減にしろ、素子! 土台無理な話だったんだ。同じ家、同じ食べ物、同じしつけで育ててもあの子が死んでから5年経ってる。今はまだよくても、これから小学校に上がれば同じ友達を用意してやれない。あの子が死んだ小学2年生まで、同じ環境を用意してやれないんだ!」
叩きつけるように、事実を並べた。これ以上は集二も限界だった。
裂け目から一気に広がるほころびは、もう止まることはなかった。だったらいっそ、決定的に壊して、解いてしまえばいい。
集二の怒鳴り声に、素子が動きを止めた。貼り付けていた表情がほころび、剥がれ落ちて能面のような無表情になる。そこへ。
「うああああああぁんっ」
怒鳴り声で起きたのだろう。寝室からけたたましい泣き声がここまで届いた。表情のない素子が、くるりと集二に背を向けた。
「素子?」
慌てて追いかけるが、素子の動きは素早かった。寝室のドアを開け、中へ入る。
「待て、素子!」
彼女の腕を捕まえようと伸ばした手は、届かなかった。
「うるさいっ、『早苗』もどきっ!」
素子が拳を頭上に持っていき、思い切り振り下ろした。泣いている、早苗の頭へ。
ビーッ。
電子音が響き、視界が赤く染まった。
『著しい心拍上昇を観測。これ以上の負荷は危険とみなし、体験シミュレーションを終了します。クローンへの暴力を認めたため、判定は『+』。『ヒトに関するクローン技術等の規制』第12条は認められません。お疲れ様でした。ゴーグルとヘッドホンを外してください』
女性AIの声が響いた。どくどくと波打つ心臓を宥めつつゴーグルとヘッドホンを外すと、同じようにした隣の素子と目が合った。
「……あなた」
素子の瞳にあふれていたのは、全て壊れて噴き出してきた、悲しみと憤りと、喪失の痛み。
集二は顔を手で覆い、自らの視界を塞いだ。鏡のようなそれを、見たくなかったのだ。目を塞いでも、素子のすすり泣きが耳朶を打つ。
指の隙間から、パンフレットの最後に大きく書かれた文字が飛び込む。
『シミュレーションを体験された方へ
大切な人のクローンを本当に望みますか?』
……NOだ、と集二は心の中で吐き捨てた。
注)WHOは生命倫理上、クローン技術は利用されてはいけないと勧告している。
また、世界各国でヒトクローンを禁止する枠組みができつつあり、日本を含め多くの国で禁止されている。