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103 還暦を迎えて

 この日の朝。

 隆文は出社のために玄関を出ようとして、背後から妻に呼び止められた。

「あなた、お弁当!」

「おっ、そうだったな」

 弁当をカバンに入れ忘れていたのだ。

 妻は毎朝、愛妻弁当を作ってくれる。それは結婚してからずっと続いていることだった。

「最近、よく忘れてない?」

 妻があきれた顔で弁当をさし出す。

「そうかな」

 隆文はごまかすような照れ笑いを浮かべた。それから弁当を受け取り、いつものように駅へと向かって歩きだした。

 駅への道すがらに思う。

――我ながら長いこと、よく働いてきたもんだな。それもあと半年か……。

 今年、隆文は還暦を迎えた。

 会社勤めも来年の三月いっぱいで定年退職である。


 年が明けた。

 正月休みも終わり、隆文のサラリーマン人生は残り三カ月となっていた。

 この日の朝。

 隆文は出社のために玄関を出ようとして、背後から妻に呼び止められた。

「あなた、待って!」

「おっ、弁当を忘れるところだった」

「ちがうでしょ」

 妻が顔の前で手を振って見せる。

「じゃあ、なんだ?」

「今日は日曜日、会社はお休みじゃないの?」

「そうか、今日は日曜だったな」

 隆文は靴を脱いで、それからいそいそと玄関を上がった。

「あなた……」

 妻か隆文のうしろ姿を見つめる。

 隆文は背広から普段着に着替えると、力が抜けたように居間のソファーに身を沈めた。

 天井を見て思う。

――オレもヤキがまわったな。

 還暦を迎えてから、仕事のことでも忘れることが多くなった気がしていたのだ。


 この日の朝。

 隆文は出社のために玄関を出ようとして、背後から妻に呼び止められた。

「あなた!」

「そうか、弁当を忘れるところだったな?」

「ちがうでしょ」

「日曜日は昨日だったし……」

「そう、今日は月曜日よ。でも……」

 妻がなぜか言いよどむ。

「じゃあ、なんだ?」

「四月になったの」

「だからどうした?」

「だからね」

 妻が悲しそうな目で隆文を見て言った。

「先週、あなたは退職したのよ」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が読みやすいです。 [気になる点] すでに定年退職をしていたなら、最初から妻がそのことを伝えていなければおかしいのでは、と思ってしまいました。いちゃもんみたいになりますが。
[良い点] 気の毒な話ではありますが、還暦に定年を迎えられて良かったと思います。のんびり治療されるのが良いでしょう。 最近は還暦すぎでも働かれている方も多いですし……。
[一言] 拝読しました。 おもしろいというより、切ない…。 長年仕事に打ち込んで、家庭を守ってきたご主人。 いよいよ第2の人生なのにアルツハイマーとは〜。 年を取るほどに、単純に笑えなくなってくるので…
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