卵から生まれた私たち。
彼と初めて会った時、同じだと思った。
その無感動に事実だけを見つめる瞳も、言葉少なに世界を厭うているとわかる話し方も。
だから、その手を気づけば取っていた。
迷惑そうに顰められた視線に晒されても、その言葉は口の中で溶けなかった。
「付き合おう、私たち」
その時の彼は、いまでも時々思い出してしまうくらい変な顔をしていた。
でも、だってしょうがない。
彼と初めて会った時、同じだと思ったのだ。
その無感動に事実だけを見つめる瞳も、言葉少なに世界を厭うているとわかる話し方も。
そして、きっと自分にふさわしい死場を探しているところも。
「長いよね」
ふいにテーブル越しに投げられた同僚からの言葉に、一瞬だけ思考を巡らせて、まあねと呟いた。
「切るのが面倒なだけよ」
食事中に行儀が悪いかなと思いつつ指先で弾いた腰ほどの黒髪から視線を戻せば、彼女はうんざりとした顔をしていた。やれやれと肩を竦めて、彼女はスプーンでオムライスを口に運ぶ。何か言いたげな空気に、その咀嚼が終わるのをグラスに入った水を口に含みつつ待てば、スプーンで示される一角。
「付き合ってるでしょ、氷室と」
食堂の隅、見慣れた真っ黒な後ろ姿を見つけて、拍子抜けする。あの男は今日もどうやら一人でいる様だ。
「え、あぁ……うん」
それきり彼女が黙るものだから、あぁと思う。いまは自分が話す番なのか。数秒だけ悩みつつ、適当に口を開く。
「えーと、会ったのが6年前、付き合い始めたのがその1年後だから、まぁ長いのかな? いや、でも常盤さんのとこは10年くらいだから長いとは一概には」
「常盤さんはもう結婚してるでしょ」
「うん?」
なんとなしに上司の名前を挙げてみたのだが、なにやらまだ会話がかみ合わない。彼女はオムライスを食べ終わって、スプーンを置くと口元を紙ナプキンで丁寧に拭った。
「結婚とか考えないの? 割と長く付き合ってるのにぜんぜんそういう話聞かないから」
「あー……そういう」
つまり、彼女が言いたかったのは、「割と長く付き合ってるのに、結婚するほどではないのか」と。
珍しい話の振られ方に少し戸惑う。それを察知したのか、彼女は先にくぎを刺した。
「別に私は他の人たちみたいに、あんたたちが付き合ってるの不思議だと思わないよ。6年も付き合ってるのに、それ知らなくて驚いてる人たちがいるのもわからなくはないけど」
「まぁ、でも職場でいちゃいちゃするのはちょっと」
「いや、それを置いて置いてもあんた達にはなんか足りないのよね」
「足りない?」
首を傾げれば、彼女は頬杖を突いた。
「そう、なんていうか……ラブコメの匂い?」
そう言われて納得しかなかった。ラブコメの匂いなんてあるわけがないからしょうがない。
だって、私もあの男も、お互いにラブなんて微塵も感じていないんだから。
付き合う、という言葉を正しく表現するにはどうしたらいいんだろう。
私に言わせれば、互いに好意をもっている二人が一緒にいるための免罪符、あるいはその地位を周囲に向け確立するための口約束だと思う。
夢がないと、この時点で言われてしまうのならそれはしょうがない。
これからするのは、もっと夢がない話になる。
「付き合おう」と私があの男に言った時、彼はこう返した。
「監視されるのは御免だ」と。
私はそれにこう返した。
「だって、知らないところで抜け駆けされるのは嫌だ」と。
何のことだと周囲が聞いたら思うに違いない。自分ですら、彼がこんなにも正確にこちらの意図を呼んでくるとは思わなかった。
彼は心底嫌そうな顔をした。正直に告白すれば、その顔はちょっと好きだった。
「趣味が悪い」
「知ってる」
「俺は嫌だ」
「私はいい」
「初対面だぞ、少しは遠慮しろ」
「じゃあ初対面じゃなきゃいいのね」
そこからは自明の理だ。私は彼に会う口実を作っては先の台詞を繰り返した。
周囲から見ればそれは猛烈なアプローチに見えただろう。茶化されることもあったが、そんなことは大して気にならなかった。
だって、そこには好意も何もないんだから、何を照れればいいと言うのだ。
付き合う。それが手っ取り早いと思っただけだ。
手段として、彼の傍に居るために。
とうとう観念して、勝手にしろと言ったのは出会って2度目の冬。彼は疲れ切っていた。
「俺が死ぬところがそんなに特等席で見たいのか」
「違うわよ。悪趣味な想像ね」
「じゃあなんで」
胡乱なその瞳に、私は当たり前のようにこう返した。
「先に死に場所を見つけて死んだら、狡いと思ったから」
私が働いている職場は、一言で言えば世界で一番危険な職場だ。
国の正常な機能維持のために、膨大なエネルギーを生み出している機関になる。それの何が危ないかと言えば、その発生時には毒が一緒に生み出される上に、エネルギーを求めて凶悪な人も魔物もたくさん寄ってくる。
この機関が機能を果たさなければ、エネルギーが枯渇したこの星ではもう人は住んでいけないのだから、この機関の機能停止などは事実上の死活問題だ。
研究員も、戦闘員も、職員全員が、就職時に仕事上の死についての承諾書を書かされる。少し前の時代であれば、当然糾弾されてしかるべきなのだが、そうもいっていられなくなったのは20年前の事件があったからだろう。
この星のエネルギーがいつか底をつくことは世界問題としてずっと議題に上がっていたものの、現実問題、どうすればいいかという回答は暗闇の中だった。
しかし、20年前の冬。この星に大きな隕石が落ちた。その隕石はこの星を抉り、全生物の何パーセントかを死滅させ、甚大な被害を生み出した。その上、その隕石とともに魔物と言われる凶暴な生き物が一緒に飛来したことから、人類は混乱に陥り、さらには世界各国の政府がずっと隠ぺいしてきた残エネルギーの詳細までもが世界に知られることとなった。それは残酷なほど切迫したもので、さらに状況は悪化し、当時生きていた人に話を聞くとまさに地獄だったという。
しかし、神はまだ人類を見放していなかったらしい。その隕石を分析した研究者が、その破片から膨大なエネルギーを抽出することに成功した。しかもそれは上手く扱うことで半永久的にエネルギーを生み出すことも可能になりうるという。
人類は疲弊しつつも、研究を進め、設備を整え、永久にエネルギーを生み出す世界機関を生み出した。
魔物との戦闘も回数を重ねるほどに、そのデータの蓄積から、死者数を圧倒的に減らすことを実現させた。
そうして生まれた、全世界共有機関、それが私の職場である。
つまりは、これだけ長い前置きで何が言いたかったかと言えば、この職場に集まる人間というものは、よほど金と生活に困っているものか、よほどの天才か、よほどのお人好しか、よほどの死にたがりか、あるいは変わった思考の持ち主かといったところだと言うことだ。
「お前、親は」
一度だけ、彼がそう聞いてきたことがある。
それはたぶん出会って3年目の夏の終わり。お互いに抱え込んでいた仕事から解放され、死んだようにソファに身を沈めていた時。
「もういないよ。20年前の隕石のせい」
「そうか。俺もだ」
なんとなくそんな気がしていたから、それ以上の言及はしなかった。そもそもこの機関で働く者のほとんどがそういった事情だった。不思議と言われればそれまでだが、見ないふりをするより、目を逸らすより、その事実に身を浸してしまった方が楽なのだと思う。
あの頃、一家に一人だけ入れる卵型の子供シェルターが流行った。すべての害から子供を守る、なんて安いキャッチが大受けして、実際に機能は申し分ないもので、欲しがる子供に親が買い与え、皆が本当に一家に一台そんなものを持っていた。そして、隕石が飛来した日、何もわかっていない子供の多くが親の手によってその球体に押し込められた。
馬鹿みたいな話だと思った。覚えていない頃の話は本当にどこまでも本の中の事実の様だ。
「別に死にたいわけじゃないんだけどな」
「知ってる」
水を飲みたいと言えば、彼は冷蔵庫からボトルに入った水を手渡してくれた。ソファに仰向けになったまま、ありがとうと言って受け取る。
「どうしても生き延びたいとも思えないから、それがだめってことなんだろうか」
「でも、それって個人の自由じゃないの?」
『こんな人道的でない施設はいますぐ停止させるべきです』
先日、この機関を訪れた女性の叫びを思い出す。
育ちのよさそうな小奇麗な婦人だった。最高権利者と直接話をしたいと足を運んだという。
『人類はあの隕石飛来で死ぬべきだったんです。それが神の審判だったのです。いえ、すでに人類はあの時死んだのです。だから私たちはもう人ではないのです』
そう言う思想を持つ人たちの存在は知っていたものの、直接会うのは初めてで、その時急遽ヘルプで入っていた受付の仕事の最中にそんなことがあるとは思わなかった。
何を話しても、言葉が通じなくて、まるで宇宙人と話しているようだったとおどけても彼は笑わなかった。
『そんなに死にたいんですか! そんな育て方しかできなかった親の顔が見てみたいわ!』
何度断っても、食い下がる女性にほとほと嫌気が差してきた頃、彼女はそう叫んだ。
思わず、頭が真っ白になったのを覚えている。
その隙にすり抜けていこうとした彼女を止めたのは、ちょうどそこに通りかかった彼だった。
真っ白な天井をぼうっとみあげながら、呟きを零す。
「親の顔、正直な話さ、ちゃんと思い出せないのよ。だって隕石飛来って私がまだ3歳くらいの時だし? いうなら、私の方が親の顔、ちゃんと見てみたいし?」
「……すまん」
「なんであんたが謝るの?」
首を傾けて横にいる彼を視界に入れる。彼はこちらを見ずにただ、床を見つめていた。
あの時もそうだった。彼はこちらに目を向けることもなく、彼女に言い放った。
『あなたのその服も髪も肌も血肉も、ここのエネルギーで20年間生かしてきたであろうに。どう生きていいかわからないのをこの機関のせいにするな』
まるで自分に言っているようだった。不器用だと思う。
自分でも傷つく癖に、彼はそういう物言いをする。
どう生きていいのかわからない。
1人残されたところで、命が大切だと教えられても、そう思える瞬間は覚えてもいないときに失われている。空っぽだ。
だから、死んでいい理由が欲しい。
生き残ったのなら生きろと言われても、どう生きればそれに応えて報いられるのだろう。
だって、生きるのにもたくさんの命を使う世界なのに。
どう素晴らしく生きれば、死んでしまった肉親の分を賄えるのかわからない。
だから、この機関に入った。
この機関で働けば、誰かの命をつなぐ手伝いができる。ここで生きて、ここで死ねば、きっと人のために生きて死ねる。
自分を守ってくれた両親のように、その両親に恥じないように生きて、そしていずれ死ねる。
「それの何が悪いの」
それさえ、否定されたら、どこに行けばいいかもわからない。
彼は何も言わなかった。
狡いと思う。彼は私と同じで、同じくせにこういう時何も言わずに傍に居てくれるのだから。
付き合うことの正しい意味を体現できないのは、彼が愛しいと思えないからだ。
だって、彼は私だ。
もう一人の私だ。
私が私を愛せないのに、もう一人の自分が表れたところで愛せるはずなんてなかった。
年に数度の身体機能検査。
常時、防ぎきれないエネルギーの毒を微弱に受け続ける私たちの体は、ある種の突然変化のようなものが表れることがある。それはいまだ研究段階で、予測も予想もつかない。
一度、毒に侵され切った人の末路を見たことがあるけれど、黒い斑点に全身を覆われて乾いていく体はとても悲しかった。
機関は日々、研究を重ね進化し続けているから、すこしずつ死因になりうるものは除外されて行っている。しかしそれでも、突如の変化はあるもので、それは私たち人には到底手の届かないところでひっそりと動いていく。
はじめの予感は手渡された検査書がいつもより簡潔だったと、その些細な引っ掛かり。
その後、毒を専門に研究する部署に呼び出された時、何かが動くような気がした。
自分ではどうしようもない力が働いて、どこかに連れ去られてしまうような心細さと、それをどこかで喜ぶ自分を自覚した。
「今回の検査で、君は毒に耐性があることが分かった」
長い前置きは耳を滑り、つまりは、と要点を求めれば返ってきたのはあまりにも簡素な事実だった。
そして事実がこうして伝えられるということは、その事実からの期待があるのだ。
「だから、君にはぜひ――――」
その後に続く言葉に、私は少し考えさせてください、と部屋を辞した。
「どうした」
驚いたくせに、ちっともそれを顔に出さないのが彼の少し好きで、今はものすごく癪に障るところだ。
シャワーを浴びた後なのか、濡れた黒髪から雫が落ち、肩にかけられたタオルを湿らせていく。
ドアを叩くのはチャイムが嫌いだから。ノックはきっちり5回。それが私のやり方だった。
だから、彼はドアを開ける前に訪問者が誰かわかったはずだ。
だから、開口一番「どうした」と聞く。「待て」でも、「なんで」でも、「いきなり来るな」でもなく。
「なんでもない」
だから、私はこう言うしかない。案の定、彼は少し困ったように眉を動かしてから、入れば、とドアを開けて部屋に戻る。
開けられたドアの先に続く彼の自室には何度も入ったことがある。極端に物が少なくて、そのくせに誰かに物を貰うとどうしていいかわからないのか、机に上に律儀に並べてある彼の部屋。それが徐々に増えていくたび、どこかで何かが軋む。
本の数秒の逡巡であったろうに、彼は部屋の奥で少しだけ振り返り、私がどうするのかを見ていた。
その瞳に浮かぶ色に耐えきれなくなって、私はとうとう一歩部屋に足を踏み入れた。
私が入ってきたのを見届けて彼は何も言わずに珈琲を入れてくれようとしていて、私は呆れる。
「髪」
「かみ?」
マグを両手に振り返った彼の髪からまた雫が落ちる。あぁもう、と思わず手を伸ばす。
肩にかかっていたタオルで少し乱暴に髪を拭く。少し背の高い彼に合わせて、少しだけ背伸びをする。
「マグには入らないように気を付けていた」
「馬鹿。そっちは気にしてない」
じゃあ何を、という目を向けられて、ため息をつきたくなる。素足に、薄っぺらい部屋着を着ただけで、髪も濡れたまま。いきなり訪ねてきた私にも非はあるだろうが、それでも少しくらい待つ余裕すらないように見えるのか。
椅子の背にかけられた上着を手渡し、めったに使われていないであろう暖房のスイッチを入れ、彼を手招く。
「珈琲は後でいいから」
「べつに髪なんて勝手に乾く」
「……だからあんたの髪いつもぼさぼさなのね」
半ば強引に椅子に座らせ、ドライヤーを使って髪を乾かす。
されるがままになっている彼のつむじを見つめながら、何をやっているのだろうかと思う。
初めて会って6年、付き合い始めて5年。付き合うと言っても男女のそういったことは一度もお互いに求めたことはない。
ただ、気づけば傍に居るくらいの、なんて気安い関係。
積み重ねた特別な思い出もなければ、手を繋いだこともない。
この6年間、私たちはただ本当に一緒にいただけだ。
「はい、完成」
変な髪型にしてあげてもよかったところだけれど、どうしようか考えているうちに乾ききってしまった。
いつもより素直に見える髪は、どこか彼を幼く見せる。彼が少し不思議そうにさらさらになった自分の前髪の先を指先でつまむ。
「すまん」
「そこは、ありがとうが聞きたいところだけどね」
今度は大人しく珈琲を入れてもらって、すすめられた一脚しかない椅子に座る。彼はマグを手に、備え付けの棚に立ったまま寄りかかった。
珈琲を一口、口に含む。程よい苦みと酸味が舌に、香ばしい香りが鼻を抜けていく。彼は中々に珈琲を入れるのが上手い。
「どうした」
先と同じセリフを同じ温度で彼が言う。思わず笑いそうになってしまう。回り道も何もせず、ワンクッションも挟まずに、直球。
彼は6年前からちっとも変わらない。
私はきっと自分は変わらないと思っていた。変わっていないと思っていた。
でも、今わかった。私はきっと変わった。6年前とは違う。
「なんでもないって言ったことは無視なのね」
少し意地悪してやりたくなってそう言えば、彼は一瞬動きを止めた。それから珈琲を飲んで一言。
「確かに、そう言ったな。忘れていた」
思わず吹き出す。今日はいちいちひとつひとつが面白くて仕方がない。
「あーあ。なんかもう、ダメ。あんたって本当に面白い」
「お前も大概だと思うけどな」
「そういうこと言う? あんたが面白いって言われることなんてこの先めったにないかもしれないのに、この低体温系」
「褒めたいのか、貶したいのか、どちらかにしてくれ」
「今日はどっちかっていうと褒めたい気分」
マグをそっと机に置く。彼が私を見る。真っ黒なその瞳に私が映る。
「ねぇ、別れようか」
窓のない部屋を各職員の自室にしたのは、とある研究員の提案だったらしい。
朝も夜も、季節の変化も、部屋の外で確かめればいい。部屋の中では時間はないものだと思ってほしい。
そんな意図があるらしい。
それが人の心にどれだけ影響を与えるかは知らないけれど、それは一見優しさのようで本当は残語だと思った。
彼は何も言わなかった。
だから、きっと私が言わなくちゃいけなかった。
きっと彼は別れようなんて言わない。あれだけしつこく私がせがんだのに、この律儀な男は一度言ったことは決して嘘にしなかった。きっとそれだけの覚悟が必要だから、彼はずっと断り続けたのだ。
なんて、馬鹿で、なんて、誠実。
その誠実さの上と優しさの上で、私は安らぎを覚えてしまった。
監視なんて、本当のことだったのだろうか。
本当は見ていてほしいと思ってしまったのではないか。その世界なんて疎ましいと思っている目で私のことを見ていてほしいと。
「なんでとか、どうしてとか聞かないのかー。まあ、あんたは聞かないよね」
「聞いてほしいのか」
あ、狡い。きっと顔に出てしまった。どうしてこの男はいつも馬鹿みたいに直球で来るのだろう。
「お前が決めたなら、俺はそれでいい。お前の人生だ。俺に決定権はない」
その言葉は思った以上に刺さった。私の決定だった。確かに私は選んだ。
でも、付き合うという選択はせがんだにしても2人でしたのに。こんなにも身勝手に私一人でそれを破棄しようとしているのに。
それでも、彼は怒りも、軽蔑もしないのか。
ただ無感動に受け入れてしまうくらい、私と彼の5年間は何もなかったのだと、その現実に打ちのめされる。
「どうして泣きそうな顔をする」
困ったようにこちらを伺う彼に、息が乱れた。そんな目で見ないでほしかった。
「あんたが悪いのよ。初めて会った時は、ものすごく冷たそうに見えたのに、知れば知るほど馬鹿が付くほど優しくて、全然私と違った。身勝手で、我儘な私とあんたはぜんぜん同じなんかじゃなかった」
言いたくない言葉が零れ落ちてしまう。言いたくなかった。認めたくなかった。
同じだと思っていたから、この5年、傍に居たのだと思いたかった。
彼は珈琲の入ったマグを机に静かに置いた。
「俺は、お前を俺が同じだなんて思ったことはない」
その瞬間に弾けた熱をどう表現していいかなんてわからない。
気づいたときには、私は自分の部屋で泣いていた。あの後、彼に何を言って、どうやって部屋を出たのかも覚えていない。
それでも、きっとひどいことを言ったに違いない。
やっぱり、窓のない部屋は残酷だ。
朝日がなければ、夜明けなんて一生こなくていいのにと願ってしまうから。
けれど、心は決まった。
泣き腫れた目元を冷やして、化粧をして、鏡の中の自分と向き合った。
そこにいるのは、昨日と同じで、そして昨日には帰れない自分だった。
向かうべき場所に、まっすぐと足を運んで、ドアを開けて振り返ったたくさんの目を前に頭を下げた。
「昨日のお話、受けさせてください」
誰かのために、生きたかった。
誰かのために、死にたかった。
その誰かが一生をかけても見つけられない気がしたから、みんなのために死にたかった。
ただ、卑怯でも、もし彼が自分を必要としてくれるのなら、もう一度、頑張ってみてもいいのかもしれないと思った。
でも、もういい。
もう十分だ。
だって、
「実験体のお話、私に受けさせてください」
私はこんなにも素敵な死に場所を見つけたんだから。
今度ははじめに言って、説明は簡潔にしてもらった。
毒への耐性があることが分かった私の体を使って、毒に対する治療薬を作る。しかし、その為には度重なる実験と、それに伴う苦痛が懸念材料となること、また苦痛によるショック死を避けるために、私の精神を先に殺してしまう必要があること。
そうすれば痛覚がシャットアウトされ、私は幾度の実験と苦痛に耐えきり、計画通りであれば治療薬の作成まで生き延びることができること。
実験開始はいつからがいいかと問われ、今日からでも、と言った私に少しだけ悲しそうな目をして研究者は「明日からにしましょう」と言った。
それから、今日の仕事はなしにしますので、一日自由に過ごしてください、とも。
思えば、この職場に来てから全く予定のない休日というものは初めてだった。
機関の廊下を当てもなく歩きながら、ふと記憶を辿る。
いつも急遽、仕事が入ったり、誰かに誘われ食事をしたり、気づけば誰かが私に声を掛けてくれた。
「……恵まれてたな」
世間的にはこの機関は感謝こそされているものの、中で働いている職員は憐れだと思われているようだった。でも、憐れでも、みじめでもないと私は思う。どう生きるかなんて、そんな誰かの物差しではかられるものじゃない。
あぁでも、昨日の自分は惨めだった。
思い出して苦笑が零れる。とてもじゃないけれど、顔は合わせたくない。このまま、何も言わずに明日を迎えたい。
明日のことを思うと、どこまでも出口のない暗闇と見つめ合うような気分に襲われる。
これが、恐怖なのか、焦りなのか、どこか麻痺してしまった思考には答えが出せない。
ふらふらと廊下を歩いて、せめて同僚の彼女にはお別れくらい言おうかと角を曲がって、
「あ」
「……お前、仕事は?」
いま一番会いたくない相手と目が合って、条件反射で回れ右にて全力疾走。
途中、顔見知りの職員何人かとすれ違って、ぎょっとしたり、笑われたりして、でもそんなこともなぜが泣いてしまいそうなくらい寂しくて、だめだと思った。
これで彼と言葉を交わしてしまったら、余計にだめだと思った。
特別な思い出なんてなかった。
なかったから、あの部屋を満たす珈琲の香りや、彼の少し目を細める癖や、眠い時に「ん」としか返事をしないことや、そんな些細なことばかりが溢れてくる。溢れて溢れて、息ができなくなるそうになる。
「待て、おい!」
腕を掴まれて、もうどこにも行けなくなる。息が上がって、久しぶりに走った足はもう動かなくて、こっちを見つめる彼の前から逃げたくてしかたがなかった。
「追いかけてくるなんて嘘よ。こんな時、氷室は追いかけてきたりしない! あんたなんか知らない!」
自分でもなんて馬鹿な理論だと思う。それでもそう思わないと、立っていられなかった。
腕を掴んだまま、しばらく黙っていた彼は、小さく呟いた。
「クッキー」
「え?」
その一言はおおよそ予想外のもので、思わず現状も忘れて彼を見上げる。
差し出されたのは確かにクッキーの入った袋なのだが、なぜ今いきなりそれなのだと混乱する。
「去年、怒っただろう。何もないのかって酒に酔って」
「待って、なんの話?」
「まさか本人が忘れたのか」
かすかにむっとした彼の声音に記憶の日もが徐々にほどけていく。クッキー、お酒、去年、二人きりの部屋。
「お前が言ったんだ『誕生日なのにクッキーのひとつも用意してないのか』と」
誕生日だった。贈り物なんて鼻から期待していなかったのに、ついお酒に酔って言ってしまった。「付き合ってるのに誕生日も祝ってくれないのか」と。そんな私すらも忘れていた言葉。
「今日、誕生日……?」
先の研究者の寂しそうな瞳を思い出す。手にしていたカルテできっと知ったのだ。
「お前、俺のことをとやかく言えないな。自分の誕生日も忘れてたのか」
ようやく手を離して、ほら、と彼が私の手にクッキーの袋を載せる。
「……なんで」
「なんで?」
「だって、私たち別れたでしょ」
俯きそうになる顔をそれでも耐えて、声を振り絞る。
「なんで……別れても変わらないだろ」
「変わらない?」
今度、疑問符を浮かべたのは私だった。見上げた彼は、眉を顰めて頷く。
「あんなのはただの口約束で、ただの言葉だ」
「そう、だけど、だってこんなことしてもらう理由がない」
「理由が必要なのか」
「必要でしょ。だって、あんたにとって私はいてもいなくても変わらない存在なんだから」
自分で口にして、胸が切り裂かれそうになる。彼の瞳にもうこれ以上、惨めに晒されていたくなくて足が一歩後ずさる。
「お前はここにいるだろ」
「今の話じゃないの。これからは、これからはもう一緒にいないのが当たり前になるの」
「それは……」
少し考え込むような仕草を見せた。私は思わずかっとなって叫んだ。
「私はあんたが好きだったけど、あんたは違うでしょ!」
「……なんで違うと思うんだ?」
顰められた眉に今度こそ足から力が抜けそうになった。かろうじて立っていられたのは彼が私の手首を掴んでいたからか。
「あんた、私のこと好きだったの……?」
より一層、不可解だと顰められた眉。
「当然だ。そうでなかったら5年も一緒にいるものか」
その一言に、今まで必死で取り繕っていたものが剥がれ落ちていく。彼はそんな私を見て、不機嫌そうに口を開いた。
「……なんで泣く」
馬鹿なの、と私は涙を零す。頬をいくつもいくつも雫が滑り落ちていく。
「私、嬉しくても悲しくても涙が出る生き物なの」
「……泣くほど嬉しかったのか」
そう問われて涙が溢れかえった。顔を覆って頷く。
「お前のことだから、知っていると思っていた」
「馬鹿なのよ。私、なにも知らなったの」
5年も一緒にいて、彼と自分は似ていると思っていたくせに、全然違って、そのくせその気持ちすら知らなかった。
「手、握って」
そんな我儘に彼は少しだけ目を細めて、ほら、と手を握ってくれる。
「どうし――――」
彼が目を見開いている。
それを確認してからそっと目を閉じた。
唇を押し当てるだけのなんて不器用な口づけ。
本当は、好きだった。
本当に、好きだった。
今更にそんな自覚をした。
明日、死んでしまう癖に。
私はやっと、ずっと焦がれていた「誰か」を見つけられたのに。
「大丈夫ですよ」
次の日、夜も明けきらないうちに足を踏み入れた部屋で迎え入れてくれた研究者は微笑んだ。
「きっと、答えが変わると思ったんです」
「でも、私は一度、答えを出したのに」
指先を握りしめれば、彼は口元を緩めて、私の肩を叩いた。
「生きていて間違えない人もいなければ、初めから正しい選択をできる人もいません。あなたが踏みとどまれる人に出会えてよかった」
その言葉に含みを感じて、顔を上げる。研究者は少しだけはにかんで、僕の、と言葉を繋いだ。
「僕の両親は、あの卵型シェルターを作った研究者だったんです」
驚いて目を瞬けば、彼は一枚の写真を持ってきてくれた。
「一度だけ僕は働きづめの両親に我儘を言いました。僕だけの最強の秘密基地が欲しいと強請ったんです。そうしたら、研究者の親2人ですから張り切ってしまって」
汚れた写真の中では卵型のシェルターの前で笑う笑顔の親子の姿があった。
「今でも後悔して夢に見ますよ。どうして僕はあの時、一人きりの秘密基地が欲しいなんて言ってしまったのか」
皮肉の様だと多くの者が言った。助かった命は見事に子供ばかりで、その卵型の機会はまるで箱庭の様だと。
「でも、僕はやっぱり嬉しかったんですよ。仕事ばかりで、もしかしたら僕のことなんてどうでもいいのかなって思っていた両親が、あんなに素敵な、人の命すら守れるものを僕のために作ってくれたことがどうしようもないくらいに」
そう言って、彼は目元を赤くして泣きそうに笑った。
研究者にお礼をいって部屋を出ると、そこには彼が待っていた。
少しだけ、驚いて、それから泣きそうになって、ごまかして笑った。
「おまたせ」
「あぁ」
「できたら珈琲を入れてくれたら嬉しいな」
「あぁ」
「それで一緒にクッキーを食べよう」
「あぁ」
「それから」
次の言葉は涙になって、口の中で溶けてしまいそうになる。
それでも、もう今度は間違えない。
初めからこういえばよかった。
彼と私は違う人間で、それでも一緒にいたくて、一緒に珈琲を飲みたくて、一緒に笑いたいなら、
「私、あんたのために生きてもいいかな」
彼は、やっぱり少しだけ目を細めて、それから優しく微笑んだ。