第2話
聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
昔いまし 今いまし のち来たりたまう 主たる全能の神……
清らかな神霊の歌声で三聖頌を唱えつつ、神のおわす御座の周りをめぐる熾天使たち。
予言者イザヤは、彼らの姿を仰ぎ見てこう表現した……
愛の原初の振動、
赤光に輝く稲妻の空飛ぶ蛇。
この炎の守護天使と自転する焔の剣に守られた、天上の国。
それは、かつてパラダイスを夢見た人類が大地からひたすらに虚空の塔を積み上げてもけっして届くことがなかった第七天、すなわち大宇宙であった……
今、人類は、ようやく第一天である【月】に達した。
しかし、科学という名の剣で天界の地を切り取りはじめた人類は、同時にその両刃の剣で己の喉元をも切り裂こうとしていた。
先の大戦で勝利した戦勝国人類圏は、意気揚々、戦利品である月へと移住した。だが見捨てられた故郷はやがて地獄と化し、貶められた人たちは、憎悪と嫉視の入り混じった視線で天を仰ぎ見て呪いの言葉を放ったのだ。
父なる神の裁きは、厳かに下されようとしていた。
炎の剣を振りかざした、熾天使たちの手によって…………
「ねえ、ちょっと待って! 誰かが助けを求めてるわ」
見ると、アイドリング中のエンジンが放つ熱気が陽炎となってゆらめくサンドモービルの上に、けたたましい【オレンジ】色の閃光が明滅しながら3つの正八面体となって高速回転していた。
――彼らは、光で会話する。
4人は、慌てて車に駆け戻ると、眼前の空間に3次元地図を拡げ、仲間が襲われている地点をGPSが知らせる赤い点滅で確認した。
「うん、ここから割と近いようだな」
「早く助けに行きましょうよ」
多くの野生動物がそうであるように、荒廃した地上を跋扈するジャンキーたちにも不可侵的な勢力圏が存在した。ドラッグの世界に溺れる彼らは、総じて他人に無関心であったが、自分の属するグループが主張するテリトリーを侵すものに対しては団結して立ち向かったのだ。
当然、互いがテリトリーを主張する境界線付近では、小競り合いが日常茶飯となっていた。
「みなさん、ちょっと待ってください」
勇んで愛車にまたがろうとする3人を、【図書委員】が引き止めた。
「僕の調合した新しい幻覚剤が出来たんです、せっかくですから、みなさん、ちょっと試してみてくれませんか?」
そう言って、赤紫の液体が充填されたカプセルをみなに手渡そうとした。
「えー、またかよ。お前の造った薬で、この前ひでー目に遭ったんだぜ」
「お、俺は、あの時おまえがくれた薬のせいで10キロもやせたんだ……。何せ10分おきに13回も射精したんだからな……」
「そうよそうよ、あたしなんかもう、すっかりお嫁に行けない体になってしまったわ!」
口々に不平を言う3人をなだめながら、【図書委員】が自信満々に笑って見せた。
「今度は、絶対大丈夫、僕の最高傑作ですから。みなさん、きっと夢の世界までぶっ飛ぶこと請け合いですよ」
3人は、不承不承にカプセルを受け取ると無造作にポケットへ突っ込んだ。やがて4人は、水上スキーのように砂塵を巻き上げながらサンドモービルを発進させた。
かつては、アスファルトと街路樹で上品に整備されていた街区が戦争による空爆で跡形もなく粉砕され、まるで巨大なトラクターが耕したあとのように掘り起こされ、粗い起伏を連ねていた。
クレーター、断層崖、干上がった河川……。
戦車やオフロードバイクでも満足に走行できそうもない道なき道を、4台のサンドモービルは、荒波と戯れるイルカのような軽快さでひた走った。
緩やかな丘陵を3つ越えたところに突如として戦闘の舞台は広がっていた。
すでに決着はついたらしく、数台の黒塗りサンドモービルが生き残った1台のゼブラ模様を追い回しているところだった。それは、すでに戦闘ではなく、多勢で一人を嬲りものにして楽しむゲームである。
「たーいへん! あの追いかけ回されてる娘って、【放送委員】よ。捕まったら、きっと奴らにひどい目に遭わされちゃうわ」
「うーん……、敵は、【ネオナチ】の連中か、イヤな相手だなあ」
「8人いますね……と言うことは、1人につき2人倒さねばならないのでしょうか……」
「考えてたって仕方ないさ、行くぞ!」
【学級委員】の掛け声を合図に4台のサンドモービルは、くだり勾配に乗って徐々に加速をつけながら一直線に敵のただ中へと突っ込んでいった。
ようやく狩の獲物を取りかこんで歓声を上げていた8台の【ネオナチ】は、突然現れた新手の敵に一瞬戸惑いを見せたが、日頃からしっかり訓練されているらしく、リーダーの男がさっと手を挙げると同時に、素早く逆V字型の戦闘隊形を整えた。
「よし、斬り込めっ!」
まず先に【学級委員】がタンデムシートに括り付けられた鞘から日本刀を豪快に抜き放つと、馬賊の首領さながらにそれを高々と振りかざして叫んだ。すかさず他の3人も【ルビーレッド】な喚声を上げながらそれに倣う。
振り上げられた4本の白刃が太陽光をぎらりと跳ね返し、プリズムのように7色に分解して煌めいた。
対する【ネオナチ】の8人も、手に手に、厚刃のクレイモアや鎖の先に凶悪な分銅をぶら下げたフレイルを振り回しながら、ハーケンクロイツが誇らしげにペイントされた大型のサンドモービルを急発進させた。
爆音と砂塵を巻き上げながら急速に接近する両者。
その勇姿は、さながら回教徒の軍勢に挑みかかる蒙古の騎馬軍団のようでもあった……
激突は一瞬だった。
【赤】や【紫】の怒号と喚声がわき起こる中、甲高い金属音が鋭く交錯し、両者は、あっと言う間にすれ違って再び対峙した。
【体育委員】が敵の1人を殴り倒していた。
あとは【学級委員】が肩を斬りつけられ軽く負傷したのと、【保健委員】と【図書委員】が敵の攻撃をかわしそこねてサンドモービルから転げ落ちただけだった。
気丈にも【保健委員】は、すぐに立ち上がり態勢を立て直したが、【図書委員】は、固い地面をドッジボールのように転がったまま気を失った……
そんな様子を見て、【ネオナチ】のリーダーが嘲りの【黄緑】で笑った。
「よう兄弟! 有り金ぜんぶと薬……それに女もだ。全て置いていけば、命だけは助けてやるぞ」
「……ちくしょう、あんな奴らに」
「でも、多勢に無勢だ、とても勝ち目はねえよ」
けんか好きの【体育委員】が【青】い弱音を吐いた。
「きゃーっ!」
突然、【保健委員】が文字通り【黄色】い悲鳴を上げた。
「どうした!?」
「あたしの……、あたしのドラッグカプセルが壊れちゃった……」
【保健委員】が背負った赤い【ランドセル】のアダプターソケットに嵌め込まれていたプラスチック製カプセルに亀裂が入り、中に入っていた黄褐色の液体が漏れ出していた。彼女にとって違法薬物とは、命よりも、友情よりも、そしてセックスよりも大切なものなのだ。一瞬たりともドラッグなしでは生きてゆけない……
「ねえ、どうしよう、どうしよう……」
「さっき【図書委員】から貰ったやつがあるだろ」
「えーっ! やーよ、あんなの……」
「だけど、俺、予備は持ってねーよ」
「俺も」
最初、ためらいの【コバルトブルー】を見せていた【保健委員】だったが、やはりドラッグのない状態は1分たりとも耐えられないと思ったのか、さっき【図書委員】から手渡された赤紫色の液体カプセルを、恐る恐る背中の【ランドセル】に装着した。
「あ……!」
突然、【保健委員】の神経中枢を大音量のノイズが駆け抜けた。
違法薬物による幻聴は、やがて音楽になる!
彼女の左右にうずたかく積まれた特大のマーシャル・アンプから、目一杯、ディストーションで歪ませたフルボリュームのギターサウンドが脳髄を殴打する衝撃波となって迸り、反響し、そして砕け散った……
「…………超気持ちいーっ!」
次に、そのギターは、高速のハマリングとプリングオフを繰り返しながら怒濤のごとく超早弾きのペンタトニックスケールを展開し、やがてクレイジーに掻き鳴らされた甲高い摩擦音が巧みなトレモロユニットの操作によってベーリング海の荒波のごとく長短に激しくうねるノイズへと変化した……
最後に、左右のアンプが共鳴して肉食獣の咆哮を起こすと、【保健委員】は、瞳を裏返して1回目のオルガスムスに達した……
「お、おい、どうした……、大丈夫か【保健委員】?」
「やべーよ……、こいつ完全にイっちまってるぞ」
休む間もなく、すかさず【保健委員】の脳天を、鋼鉄のスネアドラムと気違いじみたハイハットの連打による怒濤の16ビートが殴りつけた。心臓がマグニチュード8で鼓動を始める。両腕が、阿修羅のごとく6本になった……
「来た、来た、来た、来た、来た、来た、来たーっ!」
【保健委員】は、悪霊に憑依されたエクソシストのように乱れ狂いながら日本刀を天空へ突き上げ、【ヴァイオレット】な絶叫をほとばしらせながら、敵の真っ只中へと突っ込んでいった。
「な、何だ? 変な奴がこっちへ来るぞ……」
「ひるむな、たかが女1人だ」
彼女のただならぬ迫力に気圧されながらも、【ネオナチ】は、圧倒的な数の優位をたのんで、これを迎え撃つ態勢を整えた。
「くたばれっ、クソ女!」
【ネオナチ】の1人が、フレイルを振りかざして突進する。
――彼女には、敵の攻撃が音楽となって聞こえた。
鋼鉄製の分銅が、激しく回転しながらAマイナーの三連符となって襲い掛かる。
彼女は、これを破瓜した処女の悲鳴じみた甲高いBフラット7のチョーキングでかわすと、横殴りのグリッサンドで反撃してその首を刎ね飛ばした。
「てめえ、やりたがったな!」
別の敵がGメジャー7のオブリガートで斬りかかる。
彼女は、マシンガンのごときバスドラムの連打でこれを弾き返すと、カッティングを駆使したブルージーなギターリフと、けたたましいホーンセクションとの絶妙なシンクロによって敵をなますのように切り刻んだ。
3人目は、卑怯にも背後から無言で斬り付けてきた。
――もらった!
しかし彼女は……このドラッグに祝福されたジャンヌダルクは、背中にも目が付いているかのごとくこれをミュートして退けると、振り向きざま、トレモロユニットの尖端をそのダイヤモンドの拳で激しく叩きつけたのだ。
「何いっ!?」
超ハイテクニックであるクリケット奏法が生み出す歪んだビブラートが、鬼神をも屈服させる百人の禅僧が唱和する般若心経のように、天使に祝福された千人のウィーン少年合唱団が歌い上げる賛美歌のように、波濤のごとく、暴風雨のごとく、大音量のショットガンとなって敵の心臓に巨大な風穴をあけた……
「ぐわーっ」
血飛沫は、天地を焦がす放射能となった……
咲き誇る【ブラッドレッド】……
「あ……」
その顔いっぱいに返り血を浴びながら、【保健委員】は、2度目のオルガスムスを迎えた……
残された5人は、恐怖の【深紅】をその顔に貼り付けたまま、電気ショックを受けたように金縛りになっていた。
【学級委員】と【体育委員】は、しばし唖然としながらそんな様子を見守っていたが、【ネオナチ】の連中がすっかり戦意を喪失したのを見て取ると、ディーゼルエンジン音を轟かせながら彼らに近付いていった。
「よう兄弟、ショーは楽しめたかい?」
「こっ、こっ、殺さないでくれ。頼むからあの女を止めてくれっ」
「ありゃ完全にイっちまってるなあ……、このまま放っておくと何するか分かんねーぞ。取りあえず金と薬をよこしな、ぜんぶだぞ、ぜーんぶ! そうすりゃ、もう暴れねーように頼んでやっから」
「分かった、全部やる、みんなやるから、もう勘弁してくれ!」
【ネオナチ】の5人は、チタニウム合金に人工ルビーやサファイアが埋め込まれた数種類のコインと、茶褐色や鼈甲色の液体が充填されたカプセルをばらばらと地面に放り出すと、民族の誇りであるハーケンクロイツが描かれたサンドモービルにまたがり、脇目もふらず一目散に逃げていった……
「ひゃあ! こいつは凄げえ、今日は、大漁だなあ」
大喜びする【体育委員】に戦利品の回収を任せて、【学級委員】は【ネオナチ】に襲われていた【放送委員】のところへ駆け寄った。
「おい、怪我はねーか?」
「う、うん……ありがとう……」
彼女は、うわの空で返事をすると、その視線を興味の対象からそらさずに訊いた。
「……ねえ、彼女一体どうしちゃったの?」
【保健委員】は、激しくヘッドバンギングしながら踊り狂い、時折、大の字になってジャンプしたり地面にダイビングしたりしながら、「うりゃー」とか「ぎゃおー」とかいう絶叫をほとばしらせていた。
「今、ちょうどライブハウスの盛り上がりが最高潮に達してるとこなんだろ。邪魔しねーでおこうぜ……」
そこへ、やっと意識を取り戻した【図書委員】が、腰をさすり、足を引きずりながらやって来た。
「ごめんごめん、すっかりやられてしまったよ……。ああ、でも、どうやら敵は退散したようだね」
「まあな……、おめーの造った違法薬物のおかげだよ」
そう言いながら【学級委員】は、【ウルトラ・オレンジ】の溜息を吐いた。
「……でも、おめーの造った幻覚剤だけは、決してヤルまいと心にかたく誓ったぜ」
つづく……