第7部:猫は踏まれながら声帯をこじ開ける
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〝極彩の霧〟は、表通りから少し入った裏路地、そこから更に奥へ、奥へ、いくつかの角を曲がった先にあるバーだ。
人の通りの乏しい立地上、客の数はそう多くは無いのだが、侮ることなかれ、主に木製で占められた内装と隅にある古書の納められた本棚はどこか別の時代に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出し、そのくせマスターの気まぐれでロックだったりクラシックだったり数年前マスコミにスキャンダルをすっぱ抜かれたアイドルの甘ったるいラブソングだったりするBGMはまさに混沌の極致である。
「おぉ、珍しい顔が来たな。久しぶり、嶺倉」
「あー、うん。久しぶり」
迎えた禿頭無精ひげのマスターに適当に返しながら、先輩はカウンター席に掛け、私もそれに倣う。
「変わらないな、お前は」
「嶺倉も、何も変わらないようで」
このバーを営むマスターは、渋い四〇代を錯覚させる外見に反して嶺倉先輩とは知り合い、それも高校時代の同窓生であるらしい。
苦労して開業して、知り合いの援助や口コミでそこそこ人気はあるのだとか。
「嵯峨根さん、だっけ? 君も、久しぶり」
「あ、はい。お久しぶりです」
先輩と私はここに何度か来たことがあり、いつの間にか私のことも覚えられるようになっていた。
「何か飲むか?」
「ボンベイサファイア、ロックで」
「……最初から飛ばすなぁ、お前。嵯峨根さんは?」
「えっと……前に頼んだのと、同じモノで」
はいよ、とマスターは言って、準備にかかる。
カチャ、コトン、トクトクトク、カラカラ。
グラスが触れ合ったり、液体が注がれたり、かき混ぜられたりする音。
かけられた音楽と一緒に、微かに店内に反響する。
「今日は、人が少ないようだな」
「平日はだいたい、こんなモノだよ」
店には、私たち以外にはサラリーマンと思しきスーツの男の人が三人いて、そちらはバイトの人と思しき別の女性が相手をしている。
しばらくして、氷の浮かぶ透明な液体の入ったロックグラスと、澄んだ蒼の液体の入ったカクテル・グラスが先輩と私の前に置かれた。
先輩は無言で、私はいただきます、と小さく前置きしてから、それぞれグラスを口に運ぶ。
舌に広がるのはフルーツに似た柔らかい甘さと微かな酸味、飲み下すと淡い酒精と爽快感がするりと胃に入っていき、温かい気分になる。
「やっぱり美味しいですね、これ」
「女性向けの試作品のつもりだったんだがな。気に入ってもらえて、何よりだ」
踏まれた猫。
マスターの特製カクテルの一つで、女性向けに試作したモノを味見がてら飲んでみたことがあり、以来ここに来るときにはいつも注文している。
「おい、碧海」
グラスを空けた先輩が、口を開く。ちなみに、碧海とはマスターの姓である。
「ここではマスターと呼べよ」
「うるせぇマスター、ボンベイお代わり」
「……素直なのかそうじゃないのか、どっちかにしてくれ」
マスターは苦笑いを浮かべるが、いつものことなのか、ひょいとグラスを回収する。
「先輩」
頬杖をつきながらグラスに酒が注がれていくのを眺める先輩に、私は声をかけた。
「なんだ?」
「今日は、どうしたんですか?」
尋ねると、先輩は首を傾げた。
「どういうことだ?」
「いつもと、様子が違うじゃないですか」
「そうか……?」
ええ、と私は頷く。
「前に来たときなんか、お代わりが注がれるまでテーブル叩いてマスターを罵ったりしていましたから」
「……あぁ」
「まぁ、先輩が苛立っていたことは察していましたし、他にお客さんがいませんでしたから、黙っていましたけどね」
「……あぁ」
項垂れた。
「それは……まぁ、すまなかった」
「一応、反省はしているんですね」
「大人だからな、私は」
先輩が、力なく笑う。
「…………」
「……ん? どうした? 私の顔に何かついているのか?」
「……いいえ」
首を横に振り、先輩から目を逸らしながら、思う。
怪しい。
いつもの嶺倉先輩は、こうして責められた時点でしらばっくれるなり何かしらの屁理屈を展開して応戦するなりの対応があるはずなのである。
断じて、しょぼくれて謝罪する、などということはないのだ。
何かあったのだろうか、とは思うが、冴木の時とは違い、それを口にするのは遠慮された。
「なぁ、嵯峨根」
「はい?」
「ラブコメって、何だと思う?」
「はぁ……?」
二,三カ月くらい前に、誰かに似たような質問をされた気がする。
「ただの、男女がいちゃつくための口実じゃないんですか?」
「……そうだよな」
オブラートに包んで答えると、先輩は笑みを崩さずに頷く。
「そうだよな、うん」
「……?」
意味が、分からなかった。
正確には、先輩の言った言葉の真意が。
「つまりは、だ」
先輩は言う。
「つまり、そこには同性愛、というのは含まれていない訳だろう?」
瞬間。
その瞬間、私は自分の思考の甘さを悟った。