第5部:日和見主義者はラヴ・コメディを拒絶する
「……最近、色々と馬鹿らしくなってきてさ」
「何がだ?」
問うと、色々だよ、と冴木は答えた。
「本当に、色々なことさ……いや、俺にしてみれば、これまでの全てと言った方がいいかもしれないな」
「…………」
「どうしてか、虚しいんだ。全部が全部、意味のないようなことに思えてな……現実逃避に本に、図書館に逃げ込んでみたが、虚しさが増すだけで嫌になって、危うく手首切りそうになったから逃げてきた」
「……そりゃぁ、また」
難儀なことで。
ここまで重苦しい話題を持ち込まれるのは意外だった。
「これまで俺が、嵯峨根とやってきたことがどうしようもなく馬鹿らしいことに思えてきた……意味なんかない、ゴミみたいなモンに、思えてきた」
実際、莫迦らしいことだし、意味なんかないからな。
人様の迷惑になる分、ゴミそのものでもあるのだろう。
「だからって、俺がやれるようなことを考えてみて、そこで、何もできないことに気づいた。勉強も運動もできない、大した特技も無いし見てくれがいいわけでも声がいいわけでもない。芸の一つだってできやしない」
「それで、恋愛を?」
「……いきなりだったんだ」
冴木は頷きながら言った。
「誰かに恋でもすれば、まだマシなモンにでもなれるのかと思って、目についた奴に突撃して、そいつに男がいるのに気づいて、躊躇って……結局、このザマだ」
「…………」
はぁ、と。
小さく、私は息を吐いた。
そういうことか。
そういう、
「しょうもないことで悩んでたのか、この莫迦は」
「……は?」
呆気にとられたように、冴木は私を見る。
「もういい、飲め」
有無を言わさず私は缶ビールを冴木につきつけ、奴は手にしたそれをとりあえずといった面持ちで飲む。
「飲め。飲め。もっと飲め」
「お……おう」
「つまみもある。無ければ私が作る。とりあえず酒を飲め」
「……あぁ」
飲め、飲めとテーブルに缶を積み上げては冴木に飲ませた。
それは、いつもの冴木なら簡単に消費してしまう程度の量だったが、半分も飲まないうちに冴木の瞼はだらしなく下がっていく。
「……眠くなってきたよ、嵯峨根ぇ」
「そうか」
そうか。
それならいい。
「寝てもいいぞ。どうせ、明日も予定なんて無いんだ」
だから、飲んで、酔って、眠ってしまえ。
突発的に発症する心の発作なんて、こうして水に、いや、酒に流してしまうのがちょうどいいのだ。
「……そして、誰もいなくなった」
空いた皿を片付ける最中、ふいに、冴木がそれを口にした。
「どうした?」
「推理小説のタイトル」
「それは分かる」
タイトル通り、最終的には登場人物が全員死ぬミステリーだったか。
私の問いは、なぜそれを口にした、という意味なのだが。
「なーんか、川に落ちて、上がるまでに、嫌なこと考えちまったんだよ。俺の中にたくさんの俺がいて、そいつらが色々話していったら、ひょんなことで全員の矛盾をバラされて全員死ぬ、みたいなヤツ」
はは、と笑う冴木の目は、焦点が合っていない。ほどよく酔い、睡魔に襲われ、現実と夢が曖昧になっているのだろう、ただのうわ言だと私にはわかった。
「そんで、俺がなーんも考えられなくなって、本体も死んじまう……別に生きようが生きまいが関係ねーが、なんとなく、気になっちまってな」
「…………」
私は、何も言わなかった。
ただ、自分を告発するような冴木のそれに、耳を澄ませていた。
「阿呆らしい、ってのは自分でも分かってる。だけど、言わずにはいられなかった。だから、嵯峨根のとこに来たんだ」
「……そうか」
「来て正解だったよ。あったかいシャワーと、旨い飯と、酒も飲めたしな」
「……そうか」
殴らなかった。
ただ、うわごとを話すに任せた。
殴るだけなら、いつでもできるだろうから。
「……そろそろ眠くなってきた。俺は寝る」
「そうかい」
おやすみ、と。
言って、ごろんと力なく寝転がる冴木に、私は毛布を被せてやった。
すーすーと、寝息をたてはじめてから、
「……阿呆らしい」
呟いた。
「莫迦らしい。阿呆らしい」
どうでもいい話。
わたしからすれば、その程度。
見方にもよるだろうが、恋愛なんて、所詮ロマンを求めてすることじゃない。
もっと打算的で、性的で、挙句下半身を求めあう薄汚いモノに成り下がるだけだ。
法律上の関係になれば惰性で寄り添いあわざるをえず、それを嫌がれば面倒な問題がついて回る。
結局、デメリットでしかないのだ。
ばからしい、と思う。
心から愛し合うなんて、刹那的な衝動でしかないのだ。
シンデレラだって、白雪姫だって、どうせすぐに愛は冷めるだろう。
だから、私は愛を信じない。
愛の物語を、絶対に信じない。
美しい瞬間だけを切り抜いたスライド・ショーなんて現実ではお呼びじゃない。
熱すれば、冷める。
冷めれば、一緒にいることには努力が要る。
それを怠れば、離れてしまう。
そして、離れてしまえば、
「……痛いんだよなぁ」
ズズ、と残り少ない缶チューハイを啜る。
音は静かな室内に大きく響き、ただ、寂しさを拡大させる。
圧縮冷凍で保存され、解凍された果実の甘味、酸味、仄かなアルコールの匂いとそれがもたらす酩酊、そして、
「しょっぱい?」
口の中に塩辛さが広がっていく。
それは缶とは別からやってくる液体であり、
「……なんで、泣いてるんだ?」
気づけば、頬が濡れていた。
どうして、私は泣いている?
今までの話の、どこに泣ける要素があった?
仮にあったとしても、憐れみの類に過ぎないだろうし、その手のモノで感極まるといった経験なんて私には無い。
「何なんだろうな」
自分でも、分からない。
自分で自分が、分からない。
足元に目をやれば、寝息を立てる冴木の寝顔が幸せそうに緩んでいる、さぞ、いい夢を見ているんだろう。
「……はは、」
小さく、笑う。
直後、口元に傾けていた缶から、液体の流れる感覚が失せた。
「もう、無くなったのか」
テーブルの上のつまみも、もう無い。
スルメやスナック菓子はストックしてあるが、わざわざ開けたいほどでもない。
「……寝るか」
嫌なことを、考えてしまったし。
私も冴木と同じく、そういう、憂鬱な夜なのかもしれない。
ならば、私もさっさと寝てしまった方がいい。
割り切り、よいしょ、とベッドに向かうべく立ち上がる。
ベッドに横たわり、毛布を肩より上、頭まですっぽり被りながら、思う。
普段は私一人だけの部屋に、悪友と二人。
既に、眠ってしまっているのに。
話しかけてくるでもなく、ただ、寝息を立てているだけなのに。
心のどこか、深い部分が安堵の息を吐くのは、どうしてだろう?