思い 01
気づけば家の前に立っていた。生まれてから18年間過ごした思い出の家です。
現在時刻は午前5時30分、気温は薄着でも暖かく感じられるくらいの温度。例年のこの時期に比べても、とても過ごし易い暖かさです。
「桜が満開だ…」
少し家の周りを見渡すと、あちこちで桜の花が満開になり、桜の花びらが春らしい匂いの風に乗せられて宙を舞っていました。
そこまで長い間眠っていた感覚は無いのですが、本当に半年以上の時間が経ってるんだと改めて実感させられます。
「5時半か…みんな起きてないよね」
1人そう呟いて、辺りを歩き回って時間を潰す為に玄関に背を向けると、唐突に家のドアが開きました。
朱里ちゃんだ……少しの間会っていないだけだけど、何だかすごく懐かしく感じます。会えて嬉しい筈なのに、暖かい物が頬を伝い流れ落ちる感覚が止まりません。
「久しぶり……朱里ちゃん元気だった?」
堪え難い涙を堪えながら、声を絞り出します。
「ぁ……お……おねぇ……ちゃん?」
朱里ちゃんは、目を見開いて涙を流していました。
まぁ驚くよね、死んだ人が生身の体をで目の前に立って居るんだもの。
「朱里ちゃん、お姉ちゃんじゃなくて、"お兄ちゃん"でしょ」
「ぐすっ…何いでるの…お姉…ぢゃん、ぐずっ…家はっ2人姉妹でじょッまっだく……もう……」
朱里ちゃんは、涙を手の甲で拭いならが、途切れ途切れ返します。
死ぬ前は、毎日の様にしていたやり取り、こんな何でも無いようなやり取りをもう一度出来た……それで初めて実感します。
大変な事も辛い事もあったけど、それでも……僕がこの世界で生きていた日々は幸福の連続だった。
「……お帰り、お姉ちゃん」
「ただいま、朱里ちゃん」
『ただいま』もう2度と言えないと思っていたけど、また言えて良かった。何だか帰ってきたって感じがします。
朱里ちゃんに手を引かれながら家の中に入っていきます。全てが懐かしい、家の匂いも、僕の手を引いてくれる妹の手の感触も体温も……。
こうして手を引かれながら家の中を見ていると色々な思い出が蘇ってきます。
そういえば僕は小さい頃からいつも朱里ちゃんに手を引かれて、色々な所に連れ回されてたっけ……なつかしいな。
朱里ちゃんに手を引かれてリビングまでやってきた。そんなに大きくない家なので、そんなに長い時間歩いていた訳じゃ無いけど、ここまでの道のりは少し遠く感じました。きっと色々な事を思い出しながらだったからでしょう。
「お姉ちゃん、待ってて……お父さんとお母さん呼んでくるから」
「うん、待ってる」
ソファーに座り、朱里ちゃんが部屋から出て行くのを見ていると。朱里ちゃんは何故かUターンして此方に戻ってきました。
「どうしたの?」
「やっぱりお姉ちゃんも一緒に来て。目を離したらまた居なくなっちゃいそうで怖い」
そうか……そうだよね。僕はもうこの世界には存在しない存在なんだ。
「そうだね、一緒に行こうか」
「……ずっとここに居るとは言ってくれないんだね」
……そうだね。そう言えるなら言いたかった。でも僕がそう言った所で朱里ちゃんは本当の事に気が付いてしまうでしょう。僕の嘘が朱里ちゃんにばれなかった事は今まで一度だって無いから。
「うん、会えるのはこれで最後」
「それは、本当なの千歳ちゃん?」
声のした方に視線を転じると、部屋の入り口にお母さんが立っていました。……いつからそこに居たんだろう、ぜんぜん気が付かなかった。
「本当だよ、神様にお願いしてね。ここに居られるのは明日の朝7時半頃までかな、その後は別の世界に転生させて貰える事になってるんだ。だから、みんなに会えるのはこれで最後。最後にみんなと話がしたかったんだ」
それでもダメなら、力技で無理矢理にでも来る積もりでしたが……。うん、そんな事にならなくて良かった。
「おがあざん……おねえじゃんがぁ……おねえじゃんが……」
朱里ちゃんが泣いたまま、お母さんに抱き付きます。すると、瞬く間にお母さんの服が鼻水と涙そしてヨダレ塗れに……。
「千歳ちゃん、本当に最後なの?」
「うん、神様と女神様に無理を言って時間を貰ったんだ」
「そう……じゃあ今日は千歳ちゃんが好きなもの全部作ってあげるわね」
お母さんは、一瞬悲しそうな顔をしたけど、すぐに笑ってそう言ってくれました。
「……朱里ちゃん、お母さんの服で鼻水拭くのは止めて、シャツまで染みて来たわ。それに泣いてる時間が勿体無いでしょ?
お父さんなんて、千歳ちゃんの姿を見た瞬間"甘い物買って来る"って言って何処かに行ったわよ」
お父さんは、甘い物を買いに行ってくれたらしい。甘い物か……お父さん何買って来てくれるかなぁ。
「うん、そうだね、泣いてる時間が勿体無い。お姉ちゃん、私お姉ちゃんに聞きたい事があるの」
朱里ちゃんは、お母さんの服をビショビショにしつつ復活しました。……聞きたい事、ですか。多分あの事でしょう。
僕が家族に会いに来たものも、その事を話すのが一番の目的です。
「朱里ちゃん、僕に聞きたい事って……」
「あの時の事について」
あの時の事。それは間違いなくあの事件の事でしょう。
「お姉ちゃんは、私を助けた事……それでお姉ちゃんが死んじゃった事、お姉ちゃんがそれをどう思ってるのか聞きたいの」
きっと朱里ちゃんは、きっと、何時もの様に悔やんで居たのでしょう。
表面上は何でも無いように見せて、心の中ではずっと最善の可能性を模索し続ける。それが例え過ぎ去ってしまった如何し様も無い過去だとしても、彼女は諦められないのです。朱里ちゃんはそういう子です。
あの時僕は笑ってたと言います。朱里ちゃんは僕とは違ってとても聡い子です。自慢の妹です。きっと、僕が何も後悔していない事もきっと理解はしているでしょう。
だけど、朱里ちゃんはそれで納得する子では無いという事を、僕は良く知っています。だから神様にお願いして、ここに帰ってきたのです。
朱里ちゃんの後悔と負い目を断ち切り、もう居ない僕の事を延々と悔やんで、朱里ちゃんがここで立ち止まってしまわないように。
「朱里ちゃん……僕は朱里ちゃんを助けられて良かったと思ってる。それで死んじゃったけど後悔は1つも無いよ」
1つも無い。と言えば嘘になるでしょう。本当はもっと生きて居たかったし、家族とももっと一緒に居たかった……。
だけど、大切な妹を死なせずに済んだのだから、結果死んでしまったとしても、朱里ちゃん達を助けた事は後悔していません。
「でも、私があの車から逃げられてれば……お姉ちゃんが帰りたいって言った時に帰ってれば…お姉ちゃんが言ったことの意味にもっと早く気づいていれば…」
「"でも"は無いんだよ、それに"もしも"はもう起こらないんだよ。僕はあの時死んじゃったし、もう生き返らない」
この先の未来に僕は居ない。朱里ちゃんが悲しい事や辛い事に出会っても慰めてあげられないし、助けてあげられない。嬉しい事や幸せな事があっても、一緒に喜んであげられない。
おいしい物を食べても、綺麗な物を見つけても、素敵な事があっても。この先、朱里ちゃんの傍に居るのは僕じゃない。君と共にこの先を歩んで行けるのは、明日が続いていく人達だけだ。
……だから、僕の事は忘れて…この先の未来を君と共に歩める人達と……。
「だから、朱里ちゃんには僕の分まで幸せに生きて欲しいんだ」
これは、僕の心からの願。何一つ偽りの無い僕の心の底からの願い。
「そんな事言われても、どうしたら良いか解らないよ……」
まだ一歩を踏み出すには少しだけ勇気が足りないようです。でも、その一歩分。背中を押してあげるのがお兄ちゃんの役目です。
「朱里ちゃん、こっちを向いて」
「…? なぁに」
――最初の一歩を踏み出せない君の背中を押してあげる。これが君のお兄ちゃんとしての最後の仕事。
「朱里ちゃん、少し早いけど、大学入学おめでとう。渡したい物があるから手を出して」
――そしてこれは、不出来なお兄ちゃんから卒業するための、卒業証書。
「これって…」
「アメジストのネックレス。僕の御下がりでごめんね」
――君の未来に、君の事を大切に思い支えてくれる素敵な人が現れますように。そんな願いを込めて君に送ります。
「いいの?これってお姉ちゃんの大切なものじゃ…」
「うん、朱里ちゃんが持っててくれるならそれが良い。だから受け取って」
「うん、ありがとう」
――卒業おめでとう、君の未来に幸多からん事を、君の往く道に常に幸福が溢れていますように、何時も遠い場所から祈っています。
「朱里ちゃん、いつものおまじないしてあげるから手を出して」
「うん」
朱里ちゃんの両手を、自分の両手で包み込んで、その手を自分の胸に当てて目を瞑り祈る様に願いを掛けます。
このおまじないは、僕が小さいときから色々な人にしているちょっとした特技です。
効果は、精神を安定させる、暗い気持ちや感情を取り除く、幸福感や快楽を与える等、多岐にわたります。理屈は分かりません、やり方を教えても僕以外の人が試しても効果が無い不思議なおまじないです。
いつからしているのか、なぜそんな事が起こるのか、どんな切欠で覚えたのか等は、よく分からないし、覚えていません。ただ、これは運動も出来ないし勉強だって苦手が多い、それに自信だって無い。そんな僕が他の人に誇れる数少ない特技の一つ。僕だけの唯一無二の特技です。
「朱里ちゃんはもう大丈夫、朱里ちゃんは悲しい事や辛い事も全部乗り越えて、先へ進めます」
朱里ちゃんの心に小さな光りを燈します。
朱里ちゃんの、心の奥にある後悔や自責の念、その他にも黒く渦巻いている暗くて重い感情を消す事も出来ましたが。だけど、それはしませんでした。
朱里ちゃんがこの先を歩いていくために、自分の力で事を乗り越えて欲しい。そう思うちょっとした兄心です。
「お姉ちゃん、ありがとう…私、頑張るから…だから、今から言う事を少しの聞いていて」
「うん」
「私、強くなる、後悔は消えなし暗い気持ちも無くならない、今までは、迷ってもお姉ちゃんが傍で助けてくれたけど、これからはそうじゃない。
どんなに辛い事があっても、明日は来るし、時間は経つ。それにいつまでもウジウジしてたら、お姉ちゃんが安心して次に進めない!!
だから、私は強くなる、辛い事も後悔も乗り越えられるようになって見せる」
「やりたい事も全部やる、食べたいものも好きなだけ食べる。お姉ちゃんの分も含めて、この世界で誰よりも幸せになって見せる」
「だから…だからね、もう私達の心配は要らないよ、お姉ちゃんも、誰にも負けないぐらい幸せになって」
朱里ちゃんがそう宣言するって事は、もう僕が心配するような事は何もありません……安心した。
朱里ちゃんは全部乗り越えられる。もう大丈夫、朱里ちゃんはこの先の未来に、後悔を引き摺らずに歩いていける。
「うん、僕も朱里ちゃんが幸せになれるように祈ってるから」
「私も、お姉ちゃんが幸せになれるように祈ってる」
「ふふ、お母さん達も2人の幸せを祈ってるわよ、ね、お父さん」
「あぁ、当然だとも、今までもこれからもずっとだ」
ギュッと、お母さんに抱きしめられたました。何だか久しぶりな感じがします。
……ん、お父さん? 一体いつの間に帰って来たの?全然気づかなかったよ。
「とりあえず、今すぐに千歳が幸せになれるよう、甘い物を買ってきた、そこらじゅうの甘味処を回って集めてきたんだ」
おぉ、ざっと見ただけで洋菓子屋さんの屋さんの箱が20以上、和菓子屋さんの箱が15以上、どの箱も見慣れたロゴが入っています。全部僕がよく行ってたお店の物だ…さすがお父さん。だけどこんな時間に一体どうやって?
「お父さん、まだ8時だよ…お店も開いてないのにどうやって?」
「千歳の名前を出して事情を説明したら、どの店もすぐに入れてくれたよ」
「……みんな良くお店の中に入れてくれたね」
「みんな、千歳の事を覚えていたみたいだよ。「ハッハッハ、あの子がついに化けて出たか!!」ってみんな言ってたよ」
……そうかみんな僕の事覚えててくれたのか。でも化けて出そうに見えてたなんて、ちょっとショックです。
「千歳が、色々な店の商品を宣伝して歩いてたなんてはじめて知ったよ」
「そんな事してないよ、人違いじゃない?」
全く心当たりがありません。というか、人見知りの僕がそんな事出来る筈が無いのは、朱里ちゃんだって分かっている筈ですが……。
「お姉ちゃんさー、街とか行くと、ロールケーキとか切ってない丸のままで買って、歩きながら食べてたでしょ、多分あれの事じゃない」
「確かに、それならよくしてたよ。でも普通の事じゃないかなぁ? だって、ただの買い食いだよ? みんなもしてたし」
「他の人と、食べてる物のサイズが違うから、お姉ちゃんかなり目立ってたよ」
「!?」
気づかなかった……。まさか目立ってたなんて。朱里ちゃんも気づいてたなら早く教えてくれれば良かったのに。何故教えてくれなかったのでしょう?
「そんな目で見ないでよー、お姉ちゃんが幸せそうに食べてたから言い辛かったんだよぉ~」
心遣いが痛い……。朱里ちゃんの言葉がグリグリと僕の心を抉ります。
「まぁまぁ、せっかくお父さんが買って来てくれたんだし、お昼までまだ時間もあるから、お菓子でも食べましょ」
そうですね、お菓子!!あの時食べられなかった分も食べなくては……。
「うん、お母さんジュースも」
「はいはい」
お母さんが、ジュースを準備してくれている間にとりあえず1つ……。
そう言えば、僕もお母さん達に聞きたい事があったんでした。糖分恐るべし。
8/22(土曜日) 改稿