花咲き待ち人、祈り人
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負(フリーワンライ)提出作品の加筆修正作品。使用お題は「咲かない花の種を蒔く」「渇望」「あなたが笑っていられるために」
天を覆い隠す鬱蒼とした森の中を少年は走る、息を切らせて。
昼か夜かもわからない森は深い闇に満ちていて、少年を死の世界へと導いているように思われた。
だが少年はそんな闇の深さにも恐れず駆けていた。細い手足を必死に動かし、たった一つだけ持った短剣を片手に、森の奥へ奥へと走っていく。
死の世界が本当にあるのなら、その世界に辿り着いてしまってもいい。そんな自暴自棄にも似た、渇いた気持ちが確かに少年の内側にあった。
森に入った当初は聞こえていた男達の声は、もうすっかり聞こえなくなった。だが彼らの声は耳に残り、未だに少年を駆り立てる。
走れ、走れ、走れ、走れ――!
己を叱咤し筋肉の少ない足で苔の多い地面を蹴った。
頭の中で散々聞いた声が繰り返され、追い立てる。
逃がすな、追え、追え、追え、人殺し、けっして逃がすな、捕まえろ――!
男達の声は波のように押し寄せ少年を苛む。
逃れ、走り……いったいどれ程の時間が経過したのかも少年にはわからなかった。最後にその目で眩しい太陽を見たのはいつのことだったか。
数時間前か、何日も前なのか。時間の感覚はとても曖昧で、強烈な喉の渇きの他にはなにも感じない。空腹も、疲労も少年の身体には存在していない。
だから少年は走る。闇の奥深くに向けて。
あと一歩。あと一歩。その言葉で己の足を幾度となく後押しし、交互に足を前に出し続けようとして、前に伸びた足が木の根に掬われた。
鈍い音をたてて転がる少年は、世界がまるでかき混ぜられているようだと思った。自分の周りが回るのではなく、自分が回転している。しかし彼にはまるで世界が回っているような気すらした。それと同時に自分の頭の中もぐちゃぐちゃに混ぜられて、いろんなものがミックスされ、やがて何かに放り出されるように地面に倒れたときは、急激に全ての動作が停止したため、頭の中がクラクラとした。あれだけしっかりと握っていた短剣すらも、転がっていく最中でどこかへと手放してしまっていた。
クラクラする痛みにも近い衝撃を残したまま、顔を上げようと両腕を突っ張ってみる。そこで漸く視界すらもぐらぐらと揺れていることに気づく。とても世界を正常に見ることができなかった。
だから幻を見たのだろう。
美しくも可憐に、優雅な色とりどりの花が咲いている、青空の下にいる、なんていう。
早く視界不良を取り除かないといけない。思う反面、もっと幻に浸っていたいという気持ちも少年の幼く、渇いた心に芽生えていた。
「なんてこと……お前、だいじょうぶ? ひどい怪我だらけで、いったいどうしてこんなところにやって来てしまったの?」
少年の歪な視界の中、質素なドレスにエプロンをつけただけの装いをした娘が膝をついて話しかけてきた。
花を踏み潰し、それでも周囲を埋め尽くす花の中に、女の姿はぽかんと浮かんだ天使か女神のように美しいものだった。
「……女神様だ……」
少年はいつになくぼやけた声で呟いた。森を走り抜ける中で声から力が失われたわけでもないのに、あまりの美しさに、幼い心は陶然たる境地に至っていたようだ。
娘は目を丸くして、まじまじと少年を見つめ返す。この子供はなにを言っているんだろうと言いたげだったが、少年には当にそのような存在としか見えなかったのだ。
娘は、どうやら花畑の中に小さな家を構えているようだった。
色とりどりの花々に囲まれて、地平の果てまで無数の花。色鮮やかな大地と青空という天井の間に、娘が一人暮らせるだけの家がぽつんと静かに佇む。
暮らしぶりにあまり不自由なところはないようで、小さな家のすぐ横にはしっかりとした造りの井戸があり、娘はそこで少年についた泥を落とし、細かな傷を清めてくれた。
やはり女神様だ! と少年は確信する。
「ありがとうございます、女神様」
たどたどしく慣れない丁寧な言葉を紡ぐのは、彼女に失礼があってはならないと思ったからだ。
しかし娘は困ったように目尻を下げ、少年の頭へ手を伸ばして撫でる。
少年へと語りかける声はとてもか細いが、優しさを含んでいた。
「あたしは女神なんて存在ではないわ。この花畑に暮らす魔女よ」
「魔女様……? 初めてみました」
魔女という存在については昔から度々耳にしていたが、その存在を目にするのは初めてのことだった。
魔女には恐ろしい力、とてつもない力があり、それを自由自在に操るというから、もっと恐いものだと空想していた。少年にとって、魔女とは本当に実在しているかどうかわからない存在だったのだ。ところが今、目の前で少年の頭を撫でる娘は己を魔女と名乗り、しかしとてもそうは見えない姿をしている。
女神の如き慈悲に溢れた少女――少年の世界には存在していなかった美しい存在。
「そうね、お前のところにはあまりいなかったのかも。あたしのように一人でひっそりと暮らしている魔女も多いようだし。さ、中へ入って。ベッドを使って。お前はとても疲れているみたいだから、ゆっくり休むといいわ」
そう言って魔女と名乗った娘は少年を家の中に案内し、一つきりのベッドを貸し与えた。
ふかふかとした上等なベッドではなかったが、硬くて臭いのする藁よりもずっと優しい寝床だった。それに枕や上掛けからは花のような匂いがし、スーッと少年の鼻を満たしていく。森で散々嗅ぎ、手足に染みついた苔や草の匂いが簡単に忘れられた。
このようなベッドで眠ってしまってもいいのか。少年は戸惑った。
だが娘に背を押され、おずおずと良い匂いのするベッドに入ると、森の中を駆けている間は疲れているなんてちらとも思わなかったのに、あっという間に疲労感と眠気が少年の小さな身体を飲み込んだ。
とろとろとした絡みつくような眠りに落ちる寸前、まだベッドの傍らに佇んでいた娘の手を取り、少年は重くなる唇を必死に動かし告げる。
「ぼく、ランっていいます、魔女様」
「……そう。おやすみなさいラン。よい夢を」
その時娘がどんな表情で言葉を返したのか、彼は目にすることができなかった。あまりにも瞼が重すぎて、見つめていることもできず、すぅっと眠りに沈んでいた。
*
その日からランは娘の許で生活をした。
一面の花畑と青空の下での暮らしはとても穏やかで幸せなものだった。
不思議なことにランが通り抜けてきた森は花畑の近くにはなく、ランが転がり落ちたはずの場所もどこだったかわからなくなってしまった。
森や、森の外にあった町はどこにいったのだろう。疑問はあれども、それは帰郷の念からのものではなく、すぐに少年の気持ちは娘へと向く。
やはり彼女が魔女というのは嘘で、本当は女神様なのだ。きっとここは死後の世界なのではないだろうかと何度も考えた。考えて、しかしそれでもいいやと何度も肯定する。
何しろ娘が作ってくれる食事はとても美味しい。野菜や、花畑で見つける野草が主食で、ときどきパンや肉が並ぶ。だが不思議と空腹感を抱かない。そのような慎ましやかな食事に加え、井戸水もほんのりと甘く、とろりと喉を潤し、そして胃を満たしてくれる。
森の中を駆けていたときに持っていた渇望の一切を満たしてくれる食事と、それを与えてくれる娘にランは深く感謝した。
娘はそんなランの姿を見て、いつも目尻を下げた微笑を浮かべる。それはとても困ったような、或いはとても深い哀しみを抱いているような表情で、少年の胸には次第に違う願望が生まれ、育っていった。
もっと笑ってほしい。
もっとちゃんと笑っている姿を見たい。
安穏とした生活の中に増える願望は少しずつ降り積もる。
時と共にその願いは自然の摂理に従うように強まっていく。
と同時に、日々ランの肉体は体力を取り戻していく。力を取り戻し、そして確実に成長していく。死後の世界でも成長するなんて不思議。彼は首を捻るだけで、なんの疑問も娘に向けない。当然だ、彼女という存在は彼にとって絶対唯一のものだから、おかしな質問をして彼女を困らせたくなかったのだ。
娘は外からやって来たただの細くて汚い子供を相手に心を砕いて居場所をくれた。ランはそれに報いたいと強く思ったのだ。
娘とともに花の世話をし、種を蒔き過ごす。水を遣り、家の裏手にある小さな畑をほんの少し広げて世話をする。
色鮮やかな世界には動物はなく、鳥も空を渡らない。雨も降らず、嵐もない。
世界を揺らすのは花の頭上を渡る風の音。それからランと娘の声に、二人が生み出す音だけ。
そうした音がなければ、この世界はとても静かだ。その静けさが、かえってか安心感を生む。いつの日かあったはずの母の胎内に守られているような穏やかな静けさ。互いの呼吸の音がよく聞こえた。
そんなのんびりとした生活を続ける内に、ランの背は娘を抜き、力も娘よりずっと強くなっていた。
一つのベッドで眠るにはさすがに不都合が出始めたので、新しいベッドを作った。
娘がどこからか木材を調達し、ランがそれを組み立てた。
別々に眠るのは寂しかったが、同じ部屋にもう一つのベッドを置くことになっていたので、それで気持ちを紛らわせた。
そんな年頃になると、娘がせっせと蒔いている種がなんなのか気になるようになった。
娘は家の傍ら、窓から見える場所に種を蒔く。時々ランが水遣りを手伝うも、芽吹いたそれが花を咲かせることはなく、蕾もつけずに枯れていく。何度も何度も枯れていく。
その姿を見るたびに娘はくしゃりと表情を歪めて、枯死した姿を見つめた。
「またダメだったのね」
いつもいつも彼女はそう呟く。悲哀と落胆を混ぜ込んだ声を土の上で変色した姿に向けて落とす。
「またダメなのかも」
減らない種を掌に載せて呟く。落胆と諦めを一緒にして。
他の花や畑の野菜は井戸水を遣ると、すくすくと育つのに、この花だけは花をつけることなく死んでいく。
どうしてだろう。とても不思議だったが、娘の雰囲気から聞いてはいけないことなのだと察して、ランはいつも違う話題で話しかけた。
時には冗談を言って、娘にいつもとは違う笑みを浮かべさせることに成功したりもした。
娘の笑顔は次第に増えていき、ランに向けられる笑みも明るいものが増えた。やがて笑い声が花畑に木霊する回数も増えていった。
何度花が枯れても、娘はランとの生活を楽しんでくれていた。
きっと女神様は寂しかったのだ。成長したランはそう思い、より深く彼女を愛した。愛しくも敬うべき女性。それがランの中の娘だった。彼女が一切の成長を見せないことなど些細なことである。
死後の世界の、それも女神であればそれも当然のことと、むしろ簡単に受け止めてすらいた。
ラン。ラン。
娘の若く瑞々しい声が何度も少年だった彼を呼ぶ。
立派な男になっても娘はランのことを大層慈しみ、幼いときのように頭を撫でてくれたり、抱き締めてくれたりした。
いつも晴れの花畑、その暮らしの中、ランが次第に強くした想いは、花よ咲け。であった。
ランとの暮らしに笑みを浮かべる彼女が唯一笑っていられない時。何度も訪れるその時間がなくなればいいのにと、強く願い、望んだ。
そうすれば女神様はいつだって笑っていられる。そのために花よ、咲け。早く咲け。
咲かない花の種が蒔かれる場所をジッと見下ろし水を与える。願いをこめて水を遣る。
いつの間にかすっかり皺の増えた手が、柄杓を握ったまま視界に留まる。
驚くほど穏やかな時間の中、ランは着実に歳を重ねていた。こうしてこの花の種に水をやるのも、もう何百何千と繰り返した動作なのだろう。数えたことはなかったが。
気づけば、時折花畑を歩き回るだけで、少し疲れやすくなったようだった。
それはとても悲しむべきことである。愛する娘と花畑の散歩や畑の世話ができなくなってしまうのだから。
程なくして、憂慮していたとおりに、ランがベッドから立つのも辛くなると、娘がよくベッドの傍でいろいろな話をしてくれた。
いろんな国にいる魔女の物語。
彼女は花畑から遠くに出かけることはないのに、不思議といろんな魔女のことを知っていた。まるで見てきたようにその魔女たちのことを話すから、きっと彼女が考えたおとぎ話なのだろう。
楽しい物語。悲しい物語。幸せな物語。切ない物語。
ランはそれらの物語を耳を傾けるのが大好きだった。彼女が自分のために考え、話してくれていると思えば、嬉しく思わないはずがない。
だから眠りの間際、彼女がか細い声で涙ながらに語った言葉を聞いても、やはり嬉しいとしか思わなかった。
彼は娘と過ごす時間に大きな幸福を見出していた。彼女と出会った、それこそが彼にとって最大の幸運であったのだと。涙を流す必要も、悔いることもないのだ。だが、その言葉ももう彼女には伝えられない。
昔のように重い唇を動かすことは出来ず、ただ自分が眠った後も、笑っていてほしいな、と老人は願った。強く強く。
その願いが娘に聞こえるわけもないと知りながら。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あたしが、あのときお前を帰していればよかったのに……。お前にここの水を与え、食べ物を与えてしまったから、ここから離れることもできなくさせてしまった。なんて、なんて愚かなことをしてしまったんだろう。あまりにも長い年月、魔女で居続けたあたしにはお前こそが天からの使いだったのに、こんな場所に縛り付けてしまってごめんなさい。人間として得るはずだったお前の幸せを奪ってしまってごめんなさい。帰さないまま死なせてしまってごめんなさい……ごめんなさい、ラン」
魔女が深い哀しみに暮れた夜、咲かない花が蕾をつけた。
娘の哀しみを移したような深い青をした蕾はゆっくりと、花開く時を待つ。