06
――そうして俺はサスペンス劇場のごとく、自決しようとしている犯人を見つけ出し、犯人の事情を聴き、熱き言葉で犯人を救った。訳がなかった。
タクシーを飛ばして二時間半。メーターをまともに見れなくなった俺に、「犯人の家ここだよ」と雪は指さした。灰色の壁をした、ごく普通のマンション。田舎ではあるが、自殺するはずの山奥でも何でもない。
「犯人の場所に案内しろって言ったろ」
「だから、その人はまだここにいるんだよ。今から山奥に行くところ。先回りしすぎたから、もう家まで来ちゃった」
来ちゃった、などと鬱陶しい女のようなセリフを吐き出した雪は、さっさとタクシーから降りてしまった。俺は「カードで」と涼しい顔をしながら、実はリボ払いになっているクレジットカードを運転手に差し出す。あとで、どれほどの請求が来るのだろう。考えただけで恐ろしい。
雪はまるで我が家のように、マンションの中をずんずんと進んでいった。躊躇いなくエレベーターに乗り、迷わず三階のボタンを押す。そうして三階の角部屋にたどり着くと、固く閉ざされた扉を指さした。
「ここ。犯人の部屋」
言われて、俺はネームプレートを確認する。聞いたこともない苗字。やはり、知り合いではない。
雪はもはや仕事を忘れたらしく、面白いドラマでも見つけたかのような目をこちらに向けてきた。
「で、どうするの? 今から『赤黒い霊柩車』とか『京都なんちゃら殺人事件』の主人公みたいに、かっこよく犯人の自殺を止めるの? ここ、崖っぷちでも何でもないけど」
「そうだな、とりあえず……」
インターホンを押そうとした刹那、ゆるゆると扉が開いた。勢いよく開けば顔を打ち付けていたかもしれないが、これだけ覇気のない開け方をされるとそれはそれで不気味である。しかも中から出てきたのは、生気のない三十代半ばの男であった。
「……ひっ」
ひっ、とかそういうのはこちらのセリフではなかろうか。痩せ形で眼鏡をかけてリュックを背負っている、としか言いようのないくらいに特徴のない男は、俺と雪の顔を見比べた。
「え、だ、誰?」
きょどきょどと首を振る男を、俺は観察する。こいつが、――こいつが彼女を?
「……こいつで間違いないんだな? 雪」
「うん。ていうか、今から山奥行って死のうとしてたところでしょ? ね、リュックの中見せてよ。首吊るためのロープ、入ってるでしょ。あと、タオルでぐるぐる巻きにされた包丁」
「包丁?」
「仁志君の彼女さんを刺した凶器」
その会話を聞いた途端、男の顔がさっと曇った。慌てて扉を閉めようとする気配を感じ取り、俺は扉の隙間に足をねじ込む。男は「ひえっ」と気色の悪い悲鳴を上げ、無様に倒れ込んだ。すかさず、扉の中に入る。扉が閉まる直前に、雪が「おじゃましまーす」と間抜けな声を出した。
「ひっ、ひぃっ……!」
四つん這いになって逃げようとする男の肩を掴んで仰向けにすると、俺はその上に跨った。男が苦しそうなうめき声をあげたが、気にしない。
「――おい。今の話、本当なのか? 半年前、××駅の前で女を刺殺した犯人は、お前なんだな?」
大声をあげられそうなので、俺は片手で男の口をふさぐ。男はこくこくと頷いた。
「彼女とは知り合いじゃなかったんだ。全く知らない人間なのに、お前は衝動的に人を殺した。誰でもよかったのか?」
口をふさがれているため、無言で頷く男。額に脂汗が浮かび始めている。
「人を殺して、お前はそのことを悔やみ続けたんだ。でも警察に行く勇気すらなく、この家でずーっとウジウジしてたんだろ。部屋に入ればわかるよ、空気が湿気てる。……それで今日、自殺しようと決心したわけか」
男はうなずき続ける。その目には涙がたまり始めていた。
「俺のことが怖いか?」
男の動きが止まった。答えが分からないのではなく、どう答えるべきかで悩んだのだろう。俺は続けた。
「俺は彼女と同棲してた男だ。彼女を殺されてからこれまでずっと、お前のことを殺してやろうと思ってた。それで今日、やっとお前を見つけたんだ」
男の目に恐怖の色が浮かび上がる。
――彼女もきっと、そんな目をして死んでいったのだろう。唇を噛むと、不快な鉄の味が口中に広がった。
「俺のことが怖いか」
返事はない。男の目尻から涙が零れ落ちた。ひゅー、ひゅー、と妙な音を立てる呼吸すら、震えている。
――怖いくせに。
「……俺に殺されるのが怖いくせに、自分で死のうとしてんじゃねえよ!」
力任せに、空いていた左手で男の頬を殴った。男の口をふさいでいた右手も、若干巻き添えを食らってしまう。構わず、負傷した右手で反対の頬も殴打した。男が血の混じった唾を吐き出すのと、背後で雪が「あちゃー」と声を出すのは同時だった。
何かのドラマのように、相手と距離を取って説得することなんて、不器用な自分にできるはずがなかった。それどころか、勝手に手があがってしまう。俺は男にのしかかったまま、渾身の力を右腕に込めた。拳はもう、感覚がなくなってきている。
「殺されるのが怖いくせに人を殺すな! 怖くなくても誰も殺すな! でもって、てめえも死ぬんじゃねえ! 何考えてんだよ、いや聴きたくねえ! お前が何を思って何を抱えて、彼女を殺したのかなんて知らねえよ! 興味ねえ! 彼女は死んだ、お前が殺したんだ、馬鹿野郎が!」
息が苦しい。自分が何を叫んでいるのかすら、よく分からない。しかし背後で雪が、「ちょっと意味不明だよ」と呟いたのだけは、はっきりと分かった。
「彼女は死んだんだ、もう戻ってこない! 殺される理由もなかったのにだ!」
――戻ってこれたかもしれない。俺が雪と契約していれば。俺がこの男を殺す道を選んでいたら。こいつが死ねば、彼女はこの世界に戻ってこれたかもしれない。けれど、だからといって。
「誰かを殺していい訳がねえだろ!」
右の拳を振り下ろす。ぐしゃり、と何かが潰れた音。その音を出したのは男の顔面か、それとも俺の拳なのだろうか。
「死んで償えるかどうか分かんねえんだ、だから生きて償え! お前は、お前は!」
「――ストップ」
振り上げた拳を背後から掴まれ、俺は振り仰ぐ。雪はいつになく神妙な面持ちで、俺を見ていた。自分の荒い息遣いだけが、やたらと大きく聞こえる。
「その人、とっくにのびちゃってるよ。反撃どころか自殺もできないくらい」
そこで俺はようやく、まともに男へと目を向けた。赤黒く腫れた顔で、伸びたラーメンのようにぐんにゃりとしている。ただ、伸びすぎたラーメンのように冷たくなってはいなかった。妙な方向に曲がった鼻で、確かに息をしている。それを確認した途端、俺の肩から力が抜けた。雪の小さな手から自分の拳がするりと抜けて、地面に落ちる。それから数秒後、俺の隣に雪が膝をついた。桜色のパーカーから、ごそごそと何かを取り出し俺に差し出す。それはやはり、ピンク色のポケットティッシュだった。
「――全力で人を殴って、命を助けた気分はどう?」
ふわりと微笑んだ雪は、やはり彼女に似ていた。ポケットティッシュを受け取ろうとする自分の手が赤黒くなっていることに、そして震えていることに気付く。
力任せに殴って、叫んで、それでも自殺を阻止して。そんな今の気分はもちろん、
「……最っ低だ」
枯れた声をこぼすと、雪は「だろうね」と苦笑した。