03
夢を見た。
――死んで償えよ。
顔も見えない相手を、ひたすらに殴った。蹴った。無我夢中で首を絞めた。ばたばたと暴れる相手の腕を押さえつけて、腹部をナイフで刺す。低い呻き声。気にせずにもう一度。もう一度。もう一度。呻き声。死んでいない。人間って案外丈夫にできてるんだな、と思いながら、再度顔を殴る。相手の顔面は、判別できないくらいにぐしゃぐしゃになっている。それでも、死なない。赤く染まった腹部を刺す。何かが飛び出て、それでも死なない。
――死んで償えよ。死んで償え!
這いずって逃げようとする相手の背中に、ナイフを突き刺す。鋭い悲鳴。がたがたと痙攣する身体。それでも、まだ、死なないんだ。
――死んで償え、死んで償え、死んで償え……!
離れた場所で、彼女が、悲しそうな顔をしていた。
「そんな夢まで見るんなら、あたしと契約しちゃえばいいのにー」
ふくれっ面で顔を覗き込まれ、俺は息を詰めた。朝だと理解するまでに数秒を要したのは、この女がここにいたからだ。
「だからお前はなんだって勝手に入って来るんだよ!」
「いいじゃん。あたしたち、三日間限定でお友達でしょ?」
「お前と友達になった覚えはないっつーの」
「いいじゃん、細かいことは」
女はふふん、と笑うと、「お腹空いたから早くご飯作ってよ」などと自己中極まりないことを言ってみせた。これまでとは違う意味で頭を抱えつつ、俺はベッドから身体を起こす。今朝は春が遠ざかってしまったような、冷たい空気があたりを支配していた。上着を羽織りながらカーテンを開ける。雨とも雪ともいえないものが、地面を濡らしていた。
彼女を生き返らせる代わりに犯人の命を奪う、という提案をされた日。俺は、答えを出せなかった。何を言ってるんだと、女を追い払うこともできなかったのだ。
「お前、犯人知ってるのか? だとすれば、俺に教えてくれ」
「だめだよ。今教えたら、『顔』も『名前』も知らない人じゃなくなっちゃう。そしたら、この取引自体が成り立たないでしょ。あたしとしては、それは避けたいもんね」
呆れた。この女は、人殺しの犯人を知りながらも、自分を優先するって言うんだ。
「……なら、警察に行って事情を説明してくれ」
俺がまともなことを言うと、彼女はぶんぶんと首を振った。
「無理だよ。証拠がないんだ」
「……じゃあどうして、お前は犯人を知ってるんだ」
「あたしの特殊能力、としか言えない。今までいくつか見てきたから、あたしが結構変わった能力を持ってることくらいは理解できるでしょ?」
そうだな。人の家に勝手に上り込んだり、人を生き返らせたりする能力は見たよ。と、内心でだけ思った。
もしも女の話が本当なら。俺はまた、彼女とこの部屋で暮らせるのかもしれない。何事もなかったかのように。――自分が手を汚さず、犯人を殺す道さえ選べば。
けれど自分の手が汚れなくても認知できなくとも。犯人を殺す道を選ぶのは、他でもない俺だ。
たとえ人殺しの犯人でも、易々とその命を奪っていいのか。
いつまで経っても判断できなさそうな俺を見て、彼女は大きく手を叩いた。
「分かった。それじゃ、三日以内に決めてよ。彼女を生き返らせるか、生き返らせないか」
「……三日以内?」
「うん。三日以内なら大丈夫だよ。だけど、それ以降は駄目だからね」
――その話をしてから、今日で三日目だった。俺は今日のうちに、どちらにするのかを選ばなければならない。
彼女を殺した犯人の命を奪い、彼女を生き返らせるか。
彼女を殺した犯人を野放しにして、彼女も諦めるのか。
「……そういや」
俺は朝食のトーストにかじりつきながら、女の顔を見る。女はコーンポタージュを飲みながら首を傾げた。
「なあに?」
「お前、どうやって人間生き返らせたりしてんの」
その点については、もう疑っていなかった。疑うのであれば、彼女の存在から疑いなおさなければいけない。それが面倒で、俺は逆に彼女の話を全て信じていた。明日になってもこの幻覚が見えているようなら、いい加減に病院に行かないと――などと思いながら。
「どうやってるか、ねー。仁志君も、悪魔になったらできるようになるよ」
やはり訳が分からない。もしもこれが幻覚でないなら、彼女も病院へ直行すべきだと思う。
「じゃ、あんたいくつなの?」
「えーっとねー、永遠の二十三歳?」
「明らかに適当な回答しただろ、今」
「事実だもん。ていうかもう、年齢なんて覚えてないって」
「悪魔だからか」
「そーゆーこと」
俺の幻覚なのか、彼女の妄想なのか。会話だけが弾んでいく。
「じゃあ、どうしてこんな事してんだ?」
「こんな事って?」
「人を生き返らせたり、かわりに人の命を奪ったりすること」
「ああ。――それはまだ教えられないかな。仁志君があたしと契約するかどうか決めてくれたら、教えてあげる」
にっかりと笑った彼女の歯には、コーンの皮が張り付いていた。俺は苦笑しながら、ハムエッグをつつく。
「……つーか。さっきから仁志君仁志君って馴れ馴れしく呼んでくれるよな」
「え、いやなの? 女の子に名前呼ばれたら嬉しくない?」
「……そっちの名前は?」
「え?」
「お前の名前、訊いてんだよ」
俺の質問に、彼女の顔から何かが消えた。白い顔、と表現してもいい。何かが失われたような、穴が開いてしまったような顔で、彼女はふにゃりと笑った。
「何が似合うと思う?」
「あ?」
「名前。あたしには何が似合う?」
「何が似合うって……」
返答に窮す俺を見て、彼女は「じゃあ」と頷いた。
「今日は春雪が降ってることだし、雪でいいや。雪って呼んで」
「……いいやってなんだよ。自分の名前だぞ?」
それでも彼女は意に介する様子もなく、「再生屋の雪でいい」と繰り返すだけだった。