01
自分はどうも、刃物と縁があるらしい。
一度目は中学生の時。同級生にナイフで刺されたことがある。これだけでも、一般人ならあまり経験しないことだろう。
二度目は高校生の時。手を滑らせ、果物ナイフで指を切った。これは単なる自分の過失、結局は病院で三針縫った。まあ、一度目の時よりは痛くなかった、としか言いようがない。
そして三度目。俺は大学生となり、切先は俺の恋人へと向けられた。
「最近、不審者が多いからお前も気をつけろよ」なんて声をかけたのは、丁度その日の朝だった。一年間同棲していた彼女が、それを聞いてふわりと笑ったのを鮮明に覚えている。冬が過ぎ去り、幾分過ごしやすくなったその日、彼女は少し薄い上着を着ていた。
「へえ。心配してくれてるんだ? 優しいね」
「馬鹿にすんな。俺だって、人並みに心配くらいするっつーの」
「照れちゃって。じゃ、行ってくるね」
「ああ」
土曜日の朝、彼女はアルバイトに向かい、そのまま戻ってこなかった。
厳密に言うなら、彼女は遺体となって実家へと戻った。『同棲』であって『結婚』はしていない俺の家には、当然のように戻ってこなかったのだ。かわりに、彼女の遺品を少しと、墓参りに行く権利だけが与えられた。
犯人は見つからなかった。過去形ではなく、現在も見つかっていない。彼女を背後からめった刺しにして、逃走した犯人。警察が言うに「恐らくは通り魔で、彼女とは何ら関係のない人物だろう」とのことだった。
見たこともないような人物に、彼女は殺されたのだ。そして犯人は、今でものうのうと生きている。事件から半年がたった今、犯人は彼女のことも忘れて人生を謳歌しているのかもしれない。彼女の生活を奪って、夢を奪って、命を奪ったような、人間が。
「許せないよねー」
隣から女の声が聞こえてきて、俺ははっと顔をあげた。一人では広すぎるソファに座っていた俺の、すぐ隣。そこに、見知らぬ女がちょこんと座っている。俺は中腰になって小さな悲鳴を上げた。
「そんな反応しないでよ。幽霊じゃないんだから」
「え、なに、え、なんだ? なんで? え、だれだよ」
でたらめに疑問詞を並べて、俺は後ずさりする。だってここは俺の家で、玄関の扉にはばっちりと鍵がかかっていたはずだ。玄関だけではない。部屋の扉にすら鍵をかけてあるし、無論、窓だって施錠してある。
彼女のことを想って泣くときは、いつだってそうしていた。
「あたしだってさー、男の人が泣いてるところにお邪魔するのは申し訳ないなーと思ってたよ? とりあえず涙拭きなよ、はいどうぞ」
見知らぬ女がそんなことを言いながら差し出してきたのは、『女性大募集! 安心・安全・高収入!』などと書かれているピンク色のポケットティッシュだった。明らかにそこら辺の駅前で配っている代物である。俺は足元に落ちていたボックスティッシュをひっつかむと、盛大に鼻をかんだ。女は眉をひそめ、自分の差し出したティッシュを床に放り投げる。まるで、ポケットティッシュだと思ったらチラシのみだった配布物でも投げ捨てるかのように。
「いや、あの、どっから入って来た……いやその前に誰? いや、なんだ?」
「どっからって、窓ガラス割って侵入したに決まってるでしょ」
「え!?」
「嘘だよ。どうやって入ったのかは教えられないけど、君には真似できないやり方で入った。泣いてるって知らなくってさー。空気読めなくてごめんね」
その発言こそ空気が読めていないわけだが、もはやそれを突っ込む気力すらなかった。正体不明の女から距離を取るためもう一歩後ずさろうとするものの、足に力が入らず尻餅をついてしまう。女はそんな俺を観察し、降参したように両手をあげた。
「見ての通り丸腰だからね。強盗じゃないから」
そんなことを心配しているわけでもない。俺は目の前に突如現れた、訳の分からない女をまじまじと見た。厚手のパーカーは淡いピンク色。その中には白のタートルネック。なんの変哲もない紺色のジーンズ。見たことのあるラインナップは、ユニグロで買い揃えたらしかった。茶色に染められた髪は、肩の上でふわふわと揺れている。年齢は恐らく、二十代前半だろう。
「何見てんの」
女に注意され、俺は下を向く。――いやおかしいだろ、なんで俺が下手に出てるんだ。怪奇現象が起こっているせいで、どうも弱気になっているらしい。俺は再び上を向いた。
「お前が誰かは訊かない。だから早く出てけ。ここ、人ん家だぞ」
「君の家だってことは知ってるよ。でもいいのかな? あたしのこと、そんな無碍に追っ払っちゃって」
女は優雅に、ソファにふんぞり返った。俺は顔をしかめるが、彼女には見えていないようだ。ふふん、と鼻を鳴らし、女は続ける。
「今日は君に、いいお話を持ってきたんだ」
「……保険の勧誘か? だとしたらお断りだぜ」
「保険の勧誘ねー。それに近いかも。でもそれ以上に、君にとっては素敵なお話だよ」
女はそこで言葉を切ると、俺の方を見てにんまりと笑った。そして、声を潜める。
「君の恋人、生き返らせてあげようか?」
思わず、自分の耳を疑った。この女は、空気も読めなければデリカシーの欠片もないのか。俺は唇を噛みしめ、女を睨んだ。
「帰れよ。そんな作り話、聴きたくない」
「作ってなんかない。真実だよ」
「帰れって言ってんだろ!」
「――じゃ、証拠見せたら信じてくれる?」
俺の話を一向に聴こうとしない女は、テレビのリモコンを勝手に手に取ると、勝手に電源をいれ、更には勝手にチャンネルを回した。
「ああ、これなんかちょうどいいかも」
有名俳優の訃報が流れているニュースを見て、女は画面をそっと指さす。
「今からあの俳優さん、生き返らせるから」
「はあ?」
「そうしたら、信じてくれるんだよね?」
彼女は微笑み、ソファから立ち上がった。腰を抜かしているような間抜けな体勢をしている俺を見下すと、優雅に手を振った。
「あの俳優さん、今から生き返るからね。それじゃ、また明日」
その女との出会いは、まさに摩訶不思議で最低なものだった。