来訪者
鈍色に染められた空の下、私はとある探偵事務所へ向かって歩いていた。
今にも泣き出しそうな雲が低く垂れ込め、湿り気を含んだ風がコートの裾を重く引く。舗装の割れ目に溜まった雨水が、灰色の空を歪んだ鏡のように映していた。
目的地の名は、喰代探偵事務所。
古びた雑居ビルの一角に構える、小さな事務所だと聞く。
だが、その名は密かに広まっていた。
摩訶不思議、そう形容するほかない到底人間がなせる技ではない事件をいくつも解決へ導いた探偵がいるらしい。失踪した人間が在るはずのない場所から発見されたことも、誰も触れていないはずの凶器が語ったこともあるという。
噂の真偽は分からない。
それでも私は、藁にも縋る思いでそこへ向かっている。
胸の奥に沈殿した不安が、歩みを重くする。
だが同時に、かすかな期待もあった。
もし本当に人の理を越えた何かに対抗できる存在がいるのなら。
やがて、錆びた階段の上に掲げられた小さな看板が視界に入る。
薄れた文字で記されたその名を見上げた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
喰代探偵事務所。
私は一度だけ深く息を吸い込み、軋む階段へと足をかけた。
この扉の向こうに、答えがあると信じて。
「あ! お客様?! ようこそ、喰代探偵事務所へ! さあ上がって~!」
弾むような声とともに、勢いよく扉が開いた。
私を出迎えたのは幼い子供だった。
年の頃は十にも満たないだろうか。頭の高い位置で結われたふたつのおさげが、跳ねるたびに左右へ揺れる。黒を基調とした西洋のゴシック調の装いは、年齢に似つかわしくないほど完成されていて白いレースと小さな十字の飾りが胸元で揺れていた。
くりくりとした瞳でにこにこと笑いながら、子供は慣れた様子で扉を大きく開ける。
「どうぞどうぞ~!」
促されるまま一歩足を踏み入れた瞬間、むわりとした空気が肌を撫でた。
古びた木材の湿り気、積み重なった紙の匂い、そして濃いインクの香り。長年、ここで無数の記録が綴られてきたのだと分かる匂いだった。
部屋は思ったよりも広くない。だが壁一面に並ぶ本棚と書類の山が、空間を圧迫している。薄暗い室内で、卓上ランプだけが橙色の光を落としていた。
その光の中心に、一人の男が座っている。
長い黒髪が背に流れ、膝下まであるロングコートに身を包んでいる。細身の体を深く椅子に預け、机に肘をついたまま何かの書類へ視線を落としていた。横顔は静まり返った湖のように動かない。
私が入ったことに気づいていないのか、あるいは気づいていて無視しているのか。
紙をめくる乾いた音だけが、やけに大きく響く。
幼い子供は私の袖を軽く引き、小声で囁いた。
「いま、ちょっと難しいこと考えてるから、びっくりさせないであげてね?」
無邪気な笑顔の奥に、どこか底知れないものが覗いた気がして、私は思わず喉を鳴らした。
ここが 摩訶不思議を解く場所。
そして、あの男が。
「あの子が探偵の喰代タロウだよ。そして僕は助手のリリム。どうぞよろしく、お客様」
にこり、とリリムは胸に手を当て、どこか芝居がかった所作で名乗った。
“あの子”と呼ばれた男は、相変わらず机に向かったまま、ページをめくる指先すら止めない。
「あ、はい。よろしくお願いします。リリムさん、タロウさん」
私がぎこちなく頭を下げると、リリムは満足げに頷いた。
「今お茶を淹れてくるからね! あ、コーヒーの方がお好きかな?」
ぱたぱたとツインテールを揺らしながら、彼女は給湯室らしき奥の扉を指差す。
「それでは、珈琲を頂いても……」
そう答えかけた、その時だった。
「いいや、紅茶だ。珈琲は不味くて飲めやしない」
低く、抑揚の乏しい声が割って入る。
私は思わずそちらを見る。
喰代タロウは、視線を本から一度も上げていなかった。長い睫毛が影を落とし、淡々と文字を追い続けている。こちらを見ていないはずなのに、空気だけが鋭く切り替わった。
「お客様優先だよ、タロウ。君の好みは聞いてない」
リリムが腰に手を当て、むっと頬を膨らませる。
「……」
ページをめくる音。
「君にはリンゴゼリーを持ってきてあげるから我慢しなさい」
「クリームは多めで」
即答だった。
リリムは呆れたように肩を落とし、それでもどこか楽しそうに笑う。
「はいはい。仕方ないなー! もう!」
軽やかな足音が奥へ消えていく。
室内に再び静寂が戻る。
ランプの灯りが揺れ、紙とインクの匂いが濃くなる。
私は改めて喰代を見た。
細い指先。伏せられた瞳。整った横顔。年齢は若いはずなのに、その佇まいには奇妙な老成がある。
やがて、彼はゆっくりとページを閉じた。
ぱたり、と乾いた音が鳴る。
「……で」
初めて、こちらに視線が向けられる。
その瞳は、思っていたよりも鋭く、そしてどこか冷えていた。
「貴方は、何に追われている?」
私は、まだ何も話していない。
それなのに。
背筋に、冷たいものが走った。




