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落第悪魔と喪心探偵

その部屋は暗く、灯りは点いていない。


カーテンの隙間から漏れる街灯が、床に細い帯を落としているだけだ。


視線を落とした先の机の上には、開封されていない封筒がいくつも積まれている。


勲章の入った小箱も、無造作に転がっていた。


どれも、価値のあるものだ。


だが、俺にとって価値のあるものはない。


俺は椅子に座ったまま、古い写真立てを伏せる。


そこに写る笑顔たちは、今はもうどこにもない。


「……出てこい悪魔。俺と契約するんだ」


低く呟く。


返事はない。


だが、部屋の隅に溜まっていた闇が、ゆっくりと濃くなる。


それは影だった。


ただの影のはずなのに、輪郭がある。


人のような立ち姿。


だが厚みがない。奥行きがない。


光が当たっていないわけではないのに、そこだけが光を拒んでいる。


「……ふうん?」


声は、空気を震わせず、頭の内側に直接落ちてきた。


口が動いたわけではない。


そもそも、口がどこにあるのかも分からない。


それでも、確かに聞こえる。


「随分と素っ気ない呼び出し方だね。普通はもう少し敬意ってものがあるんじゃない?」


影が、ぬるりと壁から剥がれる。


平面だったものが立体になる瞬間は、不自然だった。


光がわずかに歪み、床に落ちていたはずの影が一つ、音もなく消える。


悪魔が、そこに立っている。


顔らしき部分は黒く塗り潰されている。


だが、“見られている”感覚だけははっきりしていた。


「聞きたいことがある」


鼓動は乱れない。


「昔、国総出の軍事作戦で、多くの兵士の心が奪われた。結果あいつらはただの殺戮兵器になった。……あれは、お前たちがやったのか」


ふとした瞬間に、脳裏に彼らのことが浮かぶ。


忘れようとしているわけではない。


追い払おうとしてもいない。


ただ、隙間に入り込むように現れる。


ある者は、戦場から帰らなかった。


焦げた匂いの残る瓦礫の中。


崩れた建物の下敷きになり、無情にも聞こえた無線の途切れたあの声。




ある者は、帰ってきた。


だが白い病室の天井だけを見つめ、


管に繋がれ、拘束帯に身体を固定され、


命令には反応するのに、名を呼んでも瞬きひとつしない。


生きている。


けれど、そこに彼等の心はいない。


俺もきっと心を奪われてしまったのだろう。思い出すどの記憶も鮮明だ。 匂いも、音も、温度も思い出せる。


だが。


胸は、動かなくなってしまった。


締め付けられることも、焼けることもない。


ただ事実として、映像が流れていく。


悲しみという形を、もう上手く掴めない。


恐怖も、後悔も、焦燥も。


どこか薄い膜の向こう側だ。


それでも思う。


あいつらの心が、どこかに落ちているのなら。


拾いに行こう。 世界の裏側にだって。


影は少し首を傾げたように歪む。


「少なくとも僕は関わってないね。それはきっと、力のある悪魔貴族の仕業だろう。


僕は落第悪魔ってやつさ」


輪郭がかすかに揺れる。


笑っているのだと、なぜか分かった。


俺は膝に両肘をつき、前を見据える。


「あいつらの心を取り戻すために、何を差し出せばいい?」


影が、音もなく距離を詰める。


「え? 力が欲しいでも、復讐したいでもないの?」


「答えろ」


短い命令に、影は一瞬だけ沈黙した。


やがて、仕方なさそうに息を吐く気配。


「じゃあ、君の“特性”と心を少し、もらおうか」


その瞬間、影の輪郭が揺らぎ始める。


黒い塊の中から、ゆっくりと形が浮かび上がる。


小さな肩。


細い腕。


不釣り合いなほど無垢な輪郭。


幼い子供の姿だった。


だが顔だけは、まだ影のまま。


「君の食欲と恐怖心。


これは君を君たらしめている衝動だ」


悪魔が一歩踏み出す。


足音はない。


だが、胸元に何かが触れる感覚があった。


冷たくも、熱くもない。


ただ内側の何かが、静かに削り取られていく。


「もう怖がらなくていい」


影の顔が、すぐ近くにある。


「もう空腹に襲われることもない」


囁きは甘い。


「何故なら君にはもう、この僕がいるからね!」


腹の奥が、強く収縮する。


内臓を直接掴まれたような錯覚。


一瞬、視界が白む。


そして静寂。


胃の存在が、消えたようだった。


昨日から何も口にしていない。


だが、空腹という感覚が思い出せない。


戦場を思い浮かべる。


銃声。爆炎。断末魔。


だが胸は、微動だにしない。


恐怖という感情の輪郭が、曖昧になっている。


「……これで契約か」


「うん。成立」


悪魔は楽しげに頷く。その手には水晶玉のような物が握られている。


その顔に、ゆっくりと目が浮かび上がる。


暗闇の中でだけ光る、子供のように澄んだ瞳。


だが、その奥は底が見えない。


悪魔はすっと離れた。


さきほどまで曖昧だった輪郭が人間に近づいている。


肩の線が明確になり、指先に細い爪の光が宿る。


「さあて、と。初めましてなんだから自己紹介でもしようか。僕の名は」


言葉の途中で、意識がふっと揺れる。


疲労か。 それとも、何かを奪われた反動か。


なんだかまぶたが重い。


だが腹の奥は、どこまでも静まり返っている。


もう二度と、空腹を感じることはないのだろう。


そしてきっと、恐怖も。

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