それでも私は守りたい
「熱が三十九度か。今日は学校休め、和樹。」
父親は険しい顔で体温計を確認して、和樹の頭に手を当てるとそう言った。不覚ながら、和樹はこの日思いっきり風邪をひいてしまった。まあ理由はなんとなく心当たりがある。どう考えても昨日雨の中千影を送り迎えしたからだろう。
朝八時三十分。普段なら学校にとっくに着いて、秀たちとバカみたいな話をしている頃だろう。いつもは見ることのない朝のニュースを最後まで見ていると、ミチュが部屋に入ってきた。
「才谷くん、大丈夫ですか。もう、風邪ひいちゃうなんて無理しすぎですよ?」
ミチュはいつもの感じで話しかけてくるが、明らかに元気がなかった。
「ありがとう、ミチュ…」
しばらく沈黙が続いた後、ミチュは真剣な顔で和樹の方に向き直した。
「才谷くん。あなたは大切な人がいついなくなっても後悔しない生活をしている?恥ずかしくて伝えられない想いがあったりしない?あるなら今すぐに行動するべきよ。別れはいつくるかなんて、誰にもわからないんだから」
急に何を言い出すのだろう、と和樹はボヤっとした頭の中で朧に考える。その時だ。カランコロンカランと音が鳴り、誰かが来店する。この時間に来るのなんて一人しかいないのだ。
「どうやら千影ちゃんが来たようね。私はお邪魔だろうから出ていくわ。」
そう言ってミチュは部屋のドアに手をかける。
「あなたは私が絶対に助けるからね」
そうとだけ言い残すと、ミチュは部屋から出ていった。それと行き違いになるように、千影が入ってくる。
「和樹ー?ごめんねー。私が雨の中で無理させたからー。看病はなんでもするからー、なんでも言ってねー。」
こんな時でも表情は変わらない。でも付き合いの長い和樹にはわかる。千影はとても心配してくれている。
『恥ずかしくて伝えられない想いがあったりしない?あるなら今すぐに行動するべきよ。』
ミチュのセリフがただグルグルと頭を回り続ける。ただ、グルグルと。どうしたらいいのかなんてわからない。この時の和樹は風邪で頭がどうにかなっていたのかもしれない。だけど、確かな決意を持ってそれは起こった。
「なあ、千影。俺…お前に聞いてほしいことがあるんだけど」
「なにー?」
それは聞いているこっちが恥ずかしくなってしまうような、拙くて脆くて、辿々しいものだった。和樹も千影も、その会話をどんな顔でしていたのかなんて壁越しに聞いているミチュにはわからなかった。だけど、一つだけわかる。このやりとりは紛れもない、一人の人間の大きな決断を持って生まれた『愛の告白』だった。
「そっかぁ………やっぱりそうだよねぇ…。千影ちゃんなんだよ、結局」
ミチュは微かに聞こえてきたその会話を聞いて、涙を流していた。
「でもいいのよ。それでも私は守りたいんだもの。彼のこと。」
結果がどうなったかはきっと言うまでもない。千影に和樹を拒絶する理由なんて一つもなかった。いつも通りの調子で了承を意味する返答を発すると、何事もなかったかのように学校や勉強やゲームの話なんかをし始める。この二人は、お互いがどういう関係になろうと本質的にはほとんど変わらないのかもしれない。昼になると美月と秀が見舞いにやってきた。千影は部屋の隅っこでこの前和樹とプレイしたゲームを一人で楽しんでいた。相変わらず美月と秀とは全然会話をしようとしないのはもはやご愛嬌だった。
そうして次の日。和樹は前日の体調不良が嘘のように復活を果たしていた。大事を取ってこの日も学校は休みを取ることにした。この日も喫茶店にやってきている千影の横ですっかり元気になった和樹は一緒にコーヒーを飲んでいた。
「そういえば和樹ー。私、ノート無くしちゃったんだけどどこいったか知ってるー?あれの内容、私も全部は覚えてないんだけどー。」
和樹は驚く。確かにあの雨の日に手渡したと思っていたが、実際はその手渡したノートは和樹の期末テスト勉強ノートだったのだ。
「マジで?もっと早く言ってくれよ!急いで探そう!」
その時だった。足音もなくミチュが近づいてくる。
「千影ちゃん、新しいコーヒー作ってみたの。飲んでみてもらえる?」
気のせいかもしれないが、ミチュは少し元気がないようだった。
「いいよー。」
千影はそのコーヒーを持ち上げると、香りを嗜むように鼻を近づけた。
「なんかー。不思議な匂いがするねー。」
ミチュはただ黙ってみていた。千影がそのコーヒーに口をつけるのを。これで全て終わる。きっと、全ては解決する…!!!
「……やっぱりダメーーー!!!」
ミチュは手を水平に振り回すと、千影のコーヒーをはたき落として床へと落下させた。陶器が割れる音が響き渡り、茶色い液体がただ地面の木目を伝うように流れていった。
「ミ、ミチュ……?」
ミチュは大きく息切れをしていた。
「ごめんね……ごめんなさい………私………!」
ミチュはしゃがみ込んで泣き始めてしまった。和樹も千影も訳がわからないまま、時計の針と彼女の号哭だけがただ耳をうるさく劈いた。




