【曇天、華枯らす】
遠くの方から、だれかが呼ぶ声がする。
「……ま…………ね……ま……姉様!」
声に驚いて飛び起きると、顔を覗き込んでいた弟とぶつかった。
目の前で火花が散って、また同じ場所に倒れこむ。
「いっっだぁぁぁ!姉様!どうしてこんなところで寝てんの!?
とっくに朝の時太鼓も鳴ったのに、出てこないから探したんだよ!」
弟は顔を真っ赤にしながら、涙目でぶつけたところをさすっている。
涙の滲んだ視界のまま、ぼんやりと周囲を見渡すと、拝殿の狐火の前だった。
太陽は随分高く昇っている。
「…あぁ…あのまま寝てしまったのね…」
弟に返答せずに呟くと、弟は心底心配した顔をして
「やっぱりゆうべの野狐は姉様だったんだね。
そんなに酷い状態だったの?」
私は、顔を横に振って弟に向き直り
「うぅん、酷いわけじゃないけど。
放っておけば、夏の実りも、秋の稲穂もなにも育たないわ。
早いうちにお祓いできたし、大丈夫のはずよ。」
半ば、自分に言い聞かせるように、答えた。
急いで身支度をして、石段を駆け降りると
里長がいつものように出迎えた。
「狐末さん、おはよう。今日はまた、慌ただしいね。」
その顔を見て安堵する。
「ごめんなさい、今朝、九尾様にご祈祷していたら、
そのまま寝てしまって…遅くなりました。畑や、里長の体調はどうです?」
「見ての通り、おかげさまでだいぶ良くなったようじゃよ。」
畑を背に、元気に伸びをして見せる里長に、表情が緩む。だが―
「やぁ、狐末さん。」
後ろから出てきた惣真さんを見て、なぜかキュッと身が強張った。
「時太鼓を打っても降りてこなくて心配しましたよ。
そちらも昨日とお変わりないですか?」
「…ええ、ぐっすり寝て元気です。」
いつも通りにっこりと笑う惣真さんに、私の緊張も少し解け
しばらくは他愛もない話を交わした。
そこに、町一番のやんちゃ小僧が駆けてくる。
「巫女様!!おっかぁが!おっかぁが倒れた!!」
「えぇ!?カヨさんが!?」
カヨさんは、倒れたことは愚か、風邪すら引いたことのない人なのに!
息子さんに手を引かれて走っていくと、
玄関先で、苦しそうな喘声で、倒れこんでいるカヨさんがいた。
「カヨさん!聞こえます?」
「あぁ…巫女様かい…?やだねぇ、ただのたちくらみだって…」
真っ青な顔で、いつもの気概を崩さないカヨさん。
息子さんと肩を貸しながら、寝床へ運ぶ
「すまないねぇ巫女様…」
ぜぇぜぇと鳴る喉。ただごとじゃないと思い、手を握る。
どす黒く淀んだ気が、体内でとぐろを巻いていた。
これは、早く手を打たないと…夜まで待てば手遅れになるだろう。
心配そうに見守る息子さんに見えないように、
握っている手を隠し、黒いものを引っ張り上げて自分の腕に巻く。
途端に、カヨさんの呼吸は軽くなり、表情も和らいだ。
「なぁ、かあちゃん大丈夫?巫女様?」
ずしんと重くなった体に顔をすこししかめながら、
息子さんに向き直り、にっこりと表情を取り繕う。
「大丈夫、大したことないわ。今日は念のためゆっくり休めてあげて。」
腕を袖と体で少し隠しながら、そそくさとカヨさんの家を去る。
山の石段を登る元気などなく、私は妖炎山に入った。
野狐の姿で山を駆け、焔燈ノ社にたどり着く。
寂れた神社だが、化狐の平穏の寝床だ。
ここの周辺の木々は、一年中紅葉しており、この山が妖炎と呼ばれる由来となっている。
「華…狐に…」
目の前に微睡んでいた化狐たちに呟いて、
私の意識は闇に沈んでしまった。