【華の根を喰らうもの】
春のやわらかな陽射しが、夏の気配を帯び始めたころ。
野イチゴを両手いっぱいに抱えた弟が、本殿に飛び込んできて、私は目を覚ました。
「姉様ーー!見て見て!今年も野イチゴが、こんなに!」
すでにたっぷり食べたのだろう、子狐の口元は真っ赤に染まっている。
私は起き上がりざまに、一本の尻尾でその口元をぐいっとぬぐった。
「ずいぶん採ってきたわね。他の狐たちの分は、ちゃんと残しているの?」
起き抜けの体を軽く伸ばしながら、ふわりと人の姿に転じる。
髪を整えつつ、ちらりと弟の顔をのぞき見ると――
「しまった…」という顔で、彼は目をそらした。
私がため息をついて顔をじっと見つめると、
弟はそっぽを向いたまま、しれっと口笛を吹いてごまかしている。
身支度を終えて、拝殿から出る。
風に乗る夏のにおいは、どこか湿り気を帯びていた。
里への石段を下りていく道中、祓火羽がこころなしか少ない気がした。
「春の実りは十分だったと思ったんだけど…」
私が思っていたより不作だったのだろうか?
などと考えていると、いつのまにか里へついていた。
「姉様!今日はこれを友達と食べてくるんだ!いいでしょ!」
里についてすぐ、弟は目を輝かせて足をそわそわさせている。
先に足が走り出してしまいそうな勢いだ。私は微笑んで、
「ええ、でも暗くなるころには里長の家で待っていてね。」
「わかった!」
言い終えるのを待たずに返事をして、わんぱくな弟は駆けて行ってしまった。
里長の家に挨拶をしようと、戸を叩く。
「おはようございます。狐末ですー」
と声をかけたが返事はない。まだ朝の時太鼓がなったばかりだというのに、
留守なのだろうか?
不思議に思いつつ、里の中に歩いていくと、
大きな畑の前に、住人と里長、惣真さんまでいた。
「なにかありました?」
声をかけると、みな、困った顔でこちらを振り返る。
「巫女様…」
畑の植物たちは、どれも元気がなく、
ぐったりとうなだれている。
「もうこのあたりの夏野菜は小さな実をつけてもいいころなのに、この調子なんだよ。」
若い男性が言う。続いて、「うちもだ、うちも」と皆が声を上げた。
「巫女様、なんとかならないか。お祈りでも祭事でもなんでもやるから。」
「…わかりました…少し、視ます。」
土に指先を少し刺して、目を閉じる。
土の中の気は、どんよりと濁って、生命力が減っていた。
「土の様子がよくないですね…。今日九尾様にお伝えします。」
「ありがたいねぇ。」
…土の様子を見ている間、嫌な視線を感じた。
体が強張り、呼吸が浅くなるような恐怖感。さながら、蛇に睨まれた蛙――。
立ち上がって、みんなの顔をぐるっと見渡す。が、おかしなとこはない。
「巫女様?どうしました?」
気づけば惣真さんが、横に立っていて、優しい声で問いかけてくる。
「あぁ、いえ、なにも。ただみんな、元気かな?と思って」
少し驚いて、上ずった声で答えてしまった。
「最近、日中は少し蒸しますもんね。…狐宇から便りはありますか?」
狐宇とは、私の婚約者の白狐で、
今は九尾である私を護る侍神になるための修行中だ。
「いいえ、もう三月で祝言ですから、修行の仕上げに入っているのでしょう。」
そう伝えると、惣真さんは口元を隠し、
「それはそれは。おめでたいことです。
狐宇も大きなけがなどせず、無事帰ればいいですね」
と小声で耳打ちしてきた。
そのあまりの近さに、首筋の毛がぞわりと逆立ち、反射的に身を引いてしまう。
「おや?申し訳ない。」
顔を見ると、心底反省しているような顔をされて、
私は反応に困る。こんなに距離が近い人だったろうか?
しばし硬直していると、里長のせき込む声が聞こえた。
「ごほっごほっ…げほっ…」
はっとそっちを見ると、里長は一颯さんに肩を借りて、
家へ向かおうとしていた。
「里長!?どうしたんですか!?」
私が駆け寄ると、里長は弱々しく笑い、
「いやぁ、なんのなんの、まだ冷える朝に、布団を蹴ってしまってなぁ。
軽い風邪のようなものじゃよ。狐末さんの心配には及ばんて。」
親子揃って強がる性格なようで、軽いと感じると全然見せてくれない。
「夏の風邪はこじらせると厄介ですよ。」
そっと手に触れて、軽く見る。
土と同じ、どんよりと濁った気が充満している。
「…大したことはなさそうですけど、悪化したらすぐに知らせてくださいね。」
……本当は、そうではなかった。けれど、病は気からとも言う。
今は安心させて、私が何とかすればいい。――その時はそう思ったのだ。
里長が家に帰るのを見届け、里の全ての畑を見て回った。
どの畑も、どんよりとした嫌な気が蔓延って、同じような状態だ。
けれど、川や井戸水には、特に異変が見られない。
こうした異変は、大抵、神の機嫌や不満が水を穢すことで起きるものだ。
だが――…どうにも違うようだ。
私は途方に暮れてしまった…。