第七話 魯坊丸、天白川に行く
〔天文二十一年 (1552年)四月下旬〕
戦が終わるとよかったね。では、終わらないとはじめて知った。
これまでは忠良養父の帰還を出迎えて、『ご無事でなによりでございます』と皆に言えば、私の仕事は終わった。
七歳の仕事など大した事はない……かった。
此度の戦で支出した帳簿を見せられ、戦の後にある仕事を教えてくれる。
それが終わると、中根家が統治する三村を回る。
古来から続く長根荘の長根村、新しくできた中根村と丸根村である。
村長に礼を述べ、負傷した者の家に慰問する。
戦が終わっても那古野城に呼び出されている忠良養父に代わって、忠貞義兄上や母上、城代がやっていた仕事が私に回ってきた。
私は口上を述べるだけであり、最後の家で見舞金を渡し終えるとお仕事は終わった。
「若様、お疲れではございませんか」
「さくら、まだ大丈夫だ」
「ご立派でございました。さくら、感動のあまり涙が止まりません」
「感動し過ぎだ」
「本来であれば、これらは元服してから覚える事でございます。今は剣術を教え、騎乗を教え、礼儀作法を教える。まだまだ教える事があるのに申し訳ありません」
「父上が亡くなったのだ。仕方ない」
今日の連れは、侍女のさくら、護衛の侍が二人、荷物持ちの小者が二人の述べ五人だった。
楓は尾張と三河を走り回って情報を集め、紅葉は神宮と商家を巡って情報を集めている。『赤塚の戦い』の後に使者が送り、今川家と織田家の戦は手打ちとなった。
織田家を見張る為に今川勢は笠寺城に留まり、周辺の者のあいさつを受けている。
一方、山口-教継は戸部城の戸部-政直殿を攻めている。しかし、海から兵糧や矢の援助物資が届けられているので落ちる様子はない。
政直殿はかなり武勇に長けており、今川勢の加勢がないと落城しないと思える。
また、大高城を奪われた水野-忠守殿も城を奪還しようと暴れており、山口家は兵を集中できないでいた。
一方、今川の将々は地道に調略を続け、沓掛城の近藤-景春を寝返らせ、通行の障害を取り除いた。
一歩一歩、東尾張に今川の牙が深く刺さってきている。
丸根村から出ると平針街道を馬に乗ってゆっくりとやってきる一団を見つけた。
向こうも私を見つけて、手を振った。
「これはこれ、魯坊丸様。先日ぶりでございます」
「先日はありがとうございます」
「いえいえ、事実を申しただけでございます」
「えっと……(誰だ?)」
言葉の詰まった私をさくらが見た。そして、小声で「御器所西城の佐久間-盛次様配下の信盛様でございます」と教えてくれた。
すると、ささやき声が聞こえたのか、笑いながら自己紹介をはじめた。
「挨拶がまだでございましたな。先日まで盛次の配下でしたが、叔父の大学允(佐久間-盛重)に頼み。領地を少し分けて頂き、今は信長様にお仕えしております」
「名前も知らず、申し訳ございません」
「佐久間一族という事で重宝されておりますが、下っ端でございます。お気になさらず」
佐久間家は熱田の北側を所有する鎌倉以来の名家である。
大学允(佐久間-盛重)殿は末森の家老と教えて貰った。さくら山を挟んで中根家とお隣さんである。佐久間家を敵に回すと、中根家は簡単に滅ぼされる。
仲良くしたいと思っている。
「今日は如何致しました」
「買い付けに行く所です。おぉ、そうだ。魯坊丸様もご一緒しませんか」
「あまり遠出はできません」
「隣の八事までです。信長様の弟御ならば気にいるでしょう」
信盛殿はなれなれしく、強引な性格だった。
仕方なく付いてゆく。
小者の一人が中根南城へ走った。
信盛殿は馬を降りると、私を馬に乗せた。
馬の上は見晴らしがよい。
平針街道を東に進むと、すぐに八事に入り、信盛殿は馬の手綱を引きながら土手を越えて、天白川の河川敷に下りた。
少し進むと集落が見えてきた。
そうだ。藁葺きを三角に束ねたのみの屋根がいくつも見える。
家ではなく、屋根のみだ。
さくらが険しい顔をして信盛に聞く。
「つかぬ事をお伺いしますが、あの集落に向かわれるのですか?」
「その通り」
「魯坊丸様をあのような不浄な所にお連れする訳に行きません」
「不浄と申されるか」
「獣の屠殺を生業とする者らではありませんか」
「鎧を作るには皮が欠かせません。矢を作るには羽が必要です。そして、侍は人を殺します。今更、不浄もないでしょう」
「しかし、魯坊丸様は神官です」
「神官ならば、なおの事問題ありません。自ら浄化できるのですから、怖い者知らずですな」
「無茶苦茶です」
「神官の長である大宮司様も戦に出ておられますぞ」
ぐぐぐ、さくらは言い負かされた。
元々、さくらは弁舌に長けていないので仕方ない。
私は三角の屋根に興味があった。
屋根の周りに溝を掘り、雨が降っても川へ流れ込むようにしている。
中は意外と広かった。
信盛殿はそこで皮と矢じりが付いていない矢の交渉をはじめた。
交渉が終わり、銭を渡すと、外の大量の皮と矢が並ばれ、信盛殿の小者が背負子に縄で括り出す。
そのとき、信盛殿の前に両手を組んで膝を付き、頭を下げる男が現れた。
「お武家様。どうか娘を助けて下せい」
「助けてだと」
「娘が熱に魘されて、今にも死にそうです。お助け下さい」
「銭はあるのか」
「ここに」
男は銅銭を数枚出した。
信盛殿はそれを手に取り、数え終わると手から溺れ落とすように返した。
「足りんな。しかも悪銭だ」
「これはお武家様から頂いた銭でごぜいます」
「知らん。儂はタダでは施さぬ」
「お武家様。娘を助けてくだせい」
「儂は知らん。しかし、お優しい信長様の弟御はどうかな」
信盛殿が私をチラリと見た。
見定めるような嫌な目だ。信盛殿が私を見るから、懇願する男も私に頭を下げた。
連れの者も皆が私を見る。
後ろで母親が魘される娘を抱きかかえて頭を下げる。
見捨てるのは、あまりに可哀想だ。
「さくら、医者を呼べるか」
「若様。お助けになるのですか」
「見てしまったからには無視はできません。寝覚めが悪くなります」
「寝覚めですか……」
「私の都合です」
以前、熱田神宮に向かう途中で倒れている者を助けると、楓から叱られた。
一人助けると、二人、三人と無尽蔵に助けを求めてくる。
私にその覚悟があるのかと聞かれた。
当然、無尽蔵に助けられない。哀れみのみで助けるのはお止め下さいと言われた。
以来、道端で人が倒れていても顔を合わさないようにしていた。
だが、娘の姿が目に入ってしまった。
ここで背を向けると後悔する。だが、可哀想だから助けたと言えば叱られる。
だから、私は娘を助けるのではない。
私の寝起きを優先するのだ。
「ぐっすりと眠れないと疲れが取れません。娘の命と私の眠り、どちらが大切ですか?」
「もちろん、若様の睡眠でございます」
「さくら、医者を呼べますか」
「残念ながら、このような場所にくる医者はいません。また、連れて行っても見てくれません」
「では、薬を用意しなさい」
私がそう言うと、顔をニヤけてさせた信盛殿がさくらを止めた。
懐から熱冷ましの薬を取り出した。
信盛殿は何が起こってもいいように、常にいろいろな薬を持ち歩いているそうだ。
「魯坊丸様とはこれからもよい関係を続けていきたいと思いました」
「では、分けて頂けますか?」
「特別に格安でお売りしましょう」
「私に献上した方が得と考えず、売るのですか」
「献上しても、それを河原者に渡すと知れています。捨てるのと同義です。それでは某の面目が保てません。売った物ならば、どうされように構いません」
「なるほど。河原者に施すのは褒められた行為ではないのですね」
「信長様も村の祭りで餅を配ります。一文の得にならぬ村人に貴重な餅を配るとは、『うつけ者め』と馬鹿にされます」
「私も『うつけ』と呼ばれますか」
「さて、某は知りません。ですが、戦で槍を持つのは農民です。信長様が戦で命を預けるのも農民です。命を預ける者を施すと『うつけ』になるのか、某は理解できません」
「よく判りました。武士の価値では、農民や河原者は無価値なのですね」
「その通りです。よく考えて、お渡し下さい」
信盛殿は熱冷ましの薬が入った袋を渡してくれた。
私はそれを父親に渡し、水を湧かしてから白湯にして、薬と一緒に飲ませるように告げた。
信盛殿が「どこでそれを」と聞いたので、熱田神宮の蔵書倉の唐書に書いてあったと答えた。
井戸田荘や長根荘の一族に支持を得る為に、私は村を巡った。
同じ村人でも一族衆と余所者を区別する。
しかし、信盛殿はその農民に命を預けて戦っていると言った。
ならば、死んでも構わないという兵を多く連れている方が強くないか?
信長兄上を守るべき武士が『大うつけ者』と罵っているようでは、命を賭して戦ってくれない。しかし、その武士に率いられる農民が真剣に戦わないと戦に負ける。
武士に『うつけ』と呼ばせず、農民に領主様の為なら命を賭しても戦いますと言ってくれる農民を得ないと駄目なんだ。
私は信盛殿の事も忘れて、ぶつぶつと呟きながら中根南城へ帰城した。




