第六話 赤塚の戦い(2)
〔天文二十一年 (1552年)四月中旬〕
四月十七日、信長兄上が兵五百人と共に熱田神宮に入った。
忠良養父は忠貞義兄上に城の守りを任せて、五十人の兵を連れて熱田へ向かった。この中根南城は塩付街道が通っており、海を隔てて松巨島の桜中村城と繋がっている。周辺の村々から兵を出し、述べ百五十人が海岸で備えている。
井戸田の大喜家からも少しだけ兵を送ってくれた。しかし、井戸田にも熱田へ繋がる鎌倉街道が走っており、潮が引くと徒歩で渡れる。今川勢が熱田を襲うならば、遠回りの塩付街道より鎌倉街道を使う。
井戸田、田子の村人が兵を出し合って三百人が海岸を守っているらしい。
忠良養父の小者が戻って広間に通された。
「殿からの伝言でございます」
「うむ、何かあったか」
「熱田神宮には周辺から兵が集まり、述べ三百人が大宮司様に下に付き、信長様と共に山口家の主城である鳴海を目指します。中根南城の事は回せるとの事です」
「ご苦労であった」
信長兄上は笠寺を襲わずに鳴海を先に攻める気らしい。
広間で待機している武将らがざわついた。
武将らが「何故、信長様は笠寺に向かわぬのか」という声が上がる。
手薄になった中根や井戸田を今川勢が襲ってくるかも知れないと心配になって騒いでいる。今川の援軍は五百人ほど、桜中村も三百から五百人程度であり、背後の鳴海を襲われれば、こちらに兵を向ける余裕はない。
それに俺も戦うなら山口-教吉を選ぶ。
「皆の者、騒ぐな」
「魯坊丸様、お耳を汚し申し訳ありません」
「構わん。だが、信長兄上は我らを見捨てて、鳴海に向かう訳ではない。今は潮も満ちている。背後を気にせず、先に鳴海を落とせば、今川勢の足も止まる。問題ない」
私はそれらしい理由を述べて、皆を鎮めた。
信長兄上の本音を推測すると、まだ今川勢と対峙したくないのだろう。
織田家と今川家の和睦を破ったのは今川であるが、矛を交わすまでは“言い訳”が通用する。つまり、山口-教継を今川家臣と認めず、織田家の家臣として成敗したという建前だ。
さくら達の話を聞いていると、今川義元殿は戦より調略を好む。
孫子の兵法でも、『戦わずして勝つ』のが“上の上”と書いてあった。
兵を一人も失わずに勝つ戦いを目指している。
信長兄上も“和睦を破っていない。交渉の余地がある”としておきたい。
しかも鳴海を守っているのは、まだ若い教吉である。
何度も父上に従って戦場を駆けている教継より御しやすい。
元服もしていない私が言う言葉ではないので、敢えて言わなかった。
物見に出していた楓が帰ってきた。
信長兄上は中根南城に近い平針街道を抜けて、天白川の上流である島田で渡河すると、常滑街道を南下して鳴海を目指した。そして、鳴海から笠寺へ続く鎌倉街道の渡り場に近い三王山に登って兵を休ませた。
「楓、三王山とは」
「鳴海城の北に十五町 (1500m)ほどの所にある山でございます。山を下った所に松巨島への渡し場があり、潮が引けば、徒歩で渡れる鎌倉街道でございます」
「では、信長兄上はそこで山口勢を待ったのだな」
「はい。目の前で鎌倉街道を封鎖された山口-教吉は討って出ました。その数はおおよそ一千五百人でした」
「信長兄上のほぼ倍か」
「戦は数でございません。信長様は山を降り、隣の赤塚山へ移動して山口勢を迎え討ちました」
楓は山を下る勢いを生かし、地の利で織田方が押し返したという。
信長兄上は二倍の敵を押し返したので『勝った。勝った』と喧伝する。一方、山口-教吉も織田方を退けたので『勝った。勝った』と喧伝する。
双方が“勝った”という戦いは多いのだ。
これで信長兄上は熱田神宮への義理を果たし、今川に使者を送って交渉がはじまる。
皆が広間を出て、信長兄上の凱旋の準備をはじめた。
織田方と山口方で人質交換をした後に戻ってくると言ったからだ。
私は後ろに控えている紅葉に聞く。
「これで戦は終わったと思うか」
「終わると思います。信長様は今川方へ使者を送り、鳴海と笠寺の返還を求めるでしょう」
「今川が認めるとは思わん」
「認めるか、認めないか、それは問題でございません。山口-教継が願えるのは自由ですが、その配下や領民が望んだ事ではございません。その配下は織田家の家臣だと言い切れます」
「あっ、なるほど」
「今川方は認めませんが、兵を五百人程度しか送って来なかった事から察するに大事にする気はないと思えます」
「つまり、鳴海、笠寺で起こる内紛に、織田と今川の双方が関与しないと決めるのか」
「奪った大高も含まれます」
昨年、織田弾正忠家は幕府の仲介で織田と今川の和睦交渉をして仮調印を結んだ。
細部が決まらなかったが、紛争している両家の中間地帯に双方が干渉しないという役儀を結んでいる。
今川方の兵が少ない事から紅葉は和睦を反故にする気がないと予想した。
和睦が続いているならば、山口-教継は自らの兵のみで鎮圧する事になり、織田方の地侍や大高城を追い出された水野家が内乱を起こす。
織田家の支援を受ける地侍だ。
簡単に鎮圧できる訳もなく、山口勢が熱田を攻める余裕がなくなる。
「どれくらいの時間が稼げると思う」
「少なくと今年の秋まで、長ければ数年ほどの時間が稼げます」
「今川-義元殿の腹一つか」
駿河の今川家も織田家と戦続きで疲弊しており、遠江での造反が続いている。
織田家を追い出した三河の掌握にも時間が掛かる。
父上は『尾張の虎』と呼ばれ、今川-義元殿も警戒していた。しかし、その父上が亡くなった事で尾張を急いで攻める必要が無くなったという事か……あれ????
「紅葉、信長兄上と信勝兄上が家督を争っているのは、今川-義元殿にとって調略する絶好の機会にならないか」
「当然なります。ですから、申し上げました。調略で手に入るかも知れません。兵を起こして力攻めする労力が減ります。今川-義元殿は織田家との和睦を破る気がないのです」
「そういう意味か……つまり、信長兄上が『大うつけ者』である方が都合よい」
信長兄上は今川-義元殿を油断させる為に『大うつけ者』を演じ続けている。
あり得ない。私の考え過ぎだ。
見限られて山口-教継のように調略されては意味がない。
家臣が信長兄上を出迎える準備ができたと迎えがきたので、城を出て平針街道まで移動した。城から北に一町 (100m)ほど歩くと、平針街道が塩付街道と交差している。
我らは平針街道の脇で並び、信長兄上が戻ってくるのを待った。そして、戻ってきた信長兄上が私の前で馬を止めた。
側近が私の説明をする。
「信長様、こちらが中根家に預けられている信長様の弟御の魯坊丸様でございます」
「であるか。大義である」
「見事なご勝利。おめでとうございます」
「そう言ってくれるか」
「倍の敵を退けたのです。大勝利でございます」
「戯け。褒め過ぎだ。教吉の首を取り損ねた。まずますの辛勝であった」
えっ~~と、それを自分で言っていいのだろうか。
どう答えよう。
その通りの辛勝でしたと答える訳にいかないし、大勝利ですと否定するのも違う。
私が答える言葉を失っていると、後ろの武将が信長兄上に言った。
「信長様。こちらの魯坊丸様は織田弾正忠家の家督は嫡男が継ぐべきだと、中根-忠良殿を説得しました。その言葉は熱田の大宮司様を喜ばせ、即断で信長様を支持すると言い切れたと申しております」
「であるか!」
信長兄上は満遍の笑みを浮かべ声を高めた。そして、私の頭を撫でながら「早く元服して、儂を助けろ」と言うと、馬の蹄を返して進みはじめた。
これが私と信長兄上の初めての出会いであった。
転生した魯坊丸、知識チートがない魯坊丸、どちらも『赤塚の戦い』をきっかけに出会いました。そして、褒め言葉を否定された魯坊丸は信長への返答に詰まります。信長の後ろから助けた船を出した人物こそ、魯坊丸の運命を変える人物なのです。
次回、『魯坊丸、川へ遊びに行く』 魯坊丸の運命が動き出す。