第五話 赤塚の戦い(1)
〔天文二十一年 (1552年)四月中旬〕
信長兄上と信勝兄上の戦は回避された。
津島と熱田の支持を受ける信長兄上と、織田家臣団の支持を受ける信勝兄上がぶつかれば、どちらが勝っても大きな被害がでる。
織田一門衆は、信長兄上が那古野、信勝兄上が末森、信光叔父上が守山、信次叔父上が深田、信実叔父上が勝幡と、それぞれの領地を固める事した。
衝突しなかったのは嬉しいが、そんな簡単なものなのか首を捻った。
「紅葉、家督とはそれほど軽いものなのか?」
「軽くはございません。話がまとまらないときに当主が方針を決めることになります。しかし、この一年近く、大殿が患っていらっしゃったので、大殿なしで合議を進めておりました」
「つまり、しばらくは今の儘でも問題ないという事か」
「しばらく、信長様と信勝様の支持者集めが活発になると思います」
紅葉が言った通り、信勝兄上の使者が中根南城にやってきた。
忠良養父は私を横に置いて使者を迎えた。
信勝兄上に付けば、優遇しようという話だ。
「中根家は熱田衆でございます。大宮司様の意向に従えと、この魯坊丸様がお命じになられました。中根家は魯坊丸様に従い、大宮司様に指示に従います」
「忠良殿はこのような子供に従うと申されますか」
「如何にも」
「その弟御は信長様に従えと言ったと聞きましたが……本当でございますか」
「織田家の嫡男は信長様でございます。嫡男が跡を継ぐのが道理と申されました。某もそれに賛同致します」
「信長様の蛮行を理解するには早過ぎるのでしょう。年端もいかぬ者に従うとは正気を疑われますぞ」
「何と言われるか。この魯坊丸様は大殿より預かった大切な御子でございます」
「すでに大殿は亡くなられた。素直に信勝様に従いなされ、悪いように致しません」
「魯坊丸様を侮辱する者の話など聞く気にならん。お帰りを!」
忠良養父の逆鱗に触れて追い返された。
信勝兄上は自らの支持者を増やす為に使者を派遣しているよう……大高城が落ちた?
部屋に戻ってきた楓がそう言った。
何でも鳴海城の山口-教継は同盟を結んでいる大高水野家に赴いた。そして、一緒に連れていった手勢が大手門を開き、外に待機させていた兵を城に入れると、大高城を乗っ取ってしまった。
父上が腹痛で今川-氏豊の那古野城に入城し、わずかな手勢が大手門を開き、外に待機させた兵を城に入れて奪った話を思い出した。
同盟国である信勝兄上の重臣が城を奪いにくるとは考えなかったようだ。
普通は考えない。
織田家は今川義元に攻められて大変な時期であり、その盾となる水野家を攻めるのは自殺行為だ。しかも父上が亡くなって信勝兄上は一人でも味方が欲しい状態だ。
「何故、織田家が水野家を攻める必要があるのだ」
「判りません。末森重臣である山口-教継様は信勝様の名代として大高に赴きました」
「織田家は水野家と争っても得な事はないぞ」
「そうですよね」
「どうして、教継が大高を奪う必要があるのだ」
「ですから、判りませんって」
楓は他人事のように言った。
翌四月十五日、教継から使者が届き、一緒に今川方へ寝返らないかという誘いがきた。忠良養父は当然のようにお断りしたが、ほぼ同時に笠寺に教継の兵が入って占領したという報告が届いた。
教継の元々は桜中村城を居城としており、中根南城から南西に一里 (四キロ)を離れていないお隣さんだ。海に隔たれているが、笠寺から東美濃や信濃へ塩を運ぶ塩付街道が通っており、潮が引くと徒歩で渡れる。
いつ攻めてくるか判らないので、中根南城は慌ただしくなった。
忠良養父も鎧直垂を身に付け、大広間の上座に座って皆が集まるのを待った。
私も横に座らされた。
後ろに控えているさくら達に聞いた。
「さくら、笠寺は大宮司様が別当を務めてなかったか?」
「大宮司様が笠寺の別当でございます」
「教継は熱田神宮に弓を引いたのと同じになるぞ」
「その通りでございます」
「今川に寝返ったからと言って、熱田神宮を敵にするのは恐ろしくないのか」
さくらは答えられなかったが、横の楓と紅葉が答えてくれた。
熱田神宮を敵に回すと、まず天罰が恐ろしく、次に熱田を信仰する民を敵に回す。
しかし、笠寺は元々山口本家が管理しており、本家が織田家に謀反を起こしたので没収されていた。分家の教継は奪い返したのだ。
笠寺の元住職を戻せば、その心配はほとんどない。
神社や寺院の横領は日常茶飯事であり、保護者が変わるのは珍しくない。
問題は、大高城の南にある氷上姉子神社らしい。
あぁ~、私は悟った。
氷上姉子神社は日本武尊の妻である宮簀媛命を祀る神社である。
日本武尊が残した草薙剣を安置してあったが、宮簀媛が熱田神宮に移された。熱田神宮にとって代えが利かない貴重な存在なのだ。
毎年、氷上姉子神社で取れた稲を氷上湊から船で運び、熱田神宮に奉納する儀式が執り行われていた。
鳴海は遠浅なので大きな船が着岸できないが、大高の入り江ならば関船などを大型船が乗り付ける湊が造れる。
「大高城を攻めさせたのは、今川義元殿と思うか」
「おそらく、今川様の命と思われます」
「将来、大高に今川の船団を置くつもりだな」
「そうかも知れませんが、さし当たって氷上姉子神社を庇護して貰う為に熱田神宮として強くものが申せません」
その日、熱田大宮司の千秋季忠様が信長兄上と信勝兄上に笠寺を不当に占領された事を訴え、奪還を願ったようだ。
信長兄上と信勝兄上は笠寺を熱田神宮のものと書簡を送っており、“笠寺別当を認めているのに、何もしないなどという事はございませんね”と問い詰めた。
つまり、季忠様は奪い返すので兵を出せと要求した。
翌十六日、今川の武将である葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏が続々と到着し、笠寺の横にある笠寺城に入った。
教継は笠寺を今川勢に任せると、北上して桜中村城へ入った。
中根南城は海岸に兵を配置しての臨戦態勢だ。
熱田の各領主も兵を集め出した。
信長兄上が兵を出すと返事を送ってきた。
それを伝えにきた熱田神宮から使者が俺に頭を下げて去ってゆく。
「さくら、織田家は今川家と和睦の最中だったな」
「はい、その通りです」
「信長兄上が攻めると、織田方から和睦を破ることにならないか?」
「かも知れません」
「若様、今川方に寝返った山口が笠寺を攻めました。非は今川方にあります」
「楓ちゃん、教継は笠寺を取り戻しただけ、周辺の騒動と言ってくるわよ」
「だが、周辺の騒動で今川も織田も兵を出さないと取り決めを結んでいる。笠寺に今川の兵を送ってきたので言い逃れできないだろう」
「今川様は織田家が和睦を破ったと、朝廷と幕府に送っているでしょうね」
「それなら、大宮司様も今川が和睦を破ったと、朝廷と幕府に訴えているさ」
「でしょうね」
楓と紅葉の口論に意味はない。
今川義元殿は朝廷や幕府の仲介で結んだ織田家との和睦を何度も破っている。
戦国の世は強いもの、奪ったものが得をする。
今川義元殿は信用ならない人物と評価されても、朝廷も幕府も『遺憾の意』を表明するだけで終わる。
黙っていれば、好きなようにされる。
信長兄上は熱田衆の支持を失わない為か、今川義元殿と戦うことを決めてくれた。
しかし、信勝兄上からの返事が来なかった。
こちらの世界線では、山口教継が大高城を騙し取った事にしました。
大高と沓掛が今川方になった事は事実ですが、大高の水野家が裏切ったのは不明です。
水野家は不明な点が多いですね。