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第三十話 岩室長門守、魯坊丸を警戒する。

〔天文二十三年 (1554年)六月〕

 長門守 (岩室(いわむろ)-重休(しげやす)は側近である。

 父の宗順(そうじゅん)(重利(しげとし))は武田家に請われて武田家臣となり、甲斐守護武田(たけだ)-信虎(のぶとら)様から多くの感状を貰っていた。そんな宗順に転機が訪れたのは、今川家の家督相続『花倉(はなくら)の乱』であった。

 信虎様は敵対していた今川家と同盟を結び、嫡男の太郎様に今川家の斡旋で三条家の姫を嫁がせた。

 この甲駿同盟(こうすんどうめい)は武田家中で内乱を引き起こし、反義元派を支援した前嶋一門を切腹させられた。前嶋一門は信虎様の為によかれ思った行為が仇となった。

 父の宗順は反義元派ではなかったが、それに協力した嫌疑を掛けられて甲斐を後にした。

 頼ったのは駿河の今川義元であった。

 義元は非常に冷たい男であり、信虎様より頂いた感状を紙クズのように扱い、伊賀者藤林(ふじばやし)-保豊(やすとよ)(長門守)と比べられた。

 甲賀者は主君に尽くす忍び、伊賀者は銭で雇われた忍びである。-

 元々、盗賊や野盗の類いであった為に、銭の為ならば謀略、放火、暗殺を厭わない。

 武士としての誇りがない。

 それと同じ働きを求められては、父の宗順が憤慨したのも頷けた。

 結局、今川家への仕官を断って駿河を去った。

 ただ、父が忍びの技で負けを認めたのは伊賀衆の棟梁である藤林-保豊ののみであり、元服した私に藤林-保豊と同じ通名『長門守』と付けるくらい力量を認めている。

 忍びの技で私は父に遠く及ばない。

 甲賀者としての誇りは持っているので伊賀者が嫌いだ。

 伊賀者は銭を渡せば、盗み、殺害、暗殺を平気で引き受ける。

 同じ忍びと呼ばれたくない。

 父は尾張に寄り、織田-信秀様に仕官した。信秀様は感状を褒め讃えて厚遇で召し抱えてくれた。その働きもあった私は嫡子信長(のぶなが)様の小姓に抜擢された。

 信長様は聡明で素直な良い子であった。

 守役の平手(ひらて)-政秀(まさひで)様を真似て、人を驚かせるのが好きな事だけが玉に傷であった。

 信長様も盗みや暗殺という陰湿な行為を嫌う。

 もう一人の守役である(はやし)-秀貞(ひでさだ)様は武家の林家らしく、忠義に厚いお方だ。しかし、武将らしく『小股取っても勝つが本』を説かれる。

 劉邦(りゅうほう)に仕えた名将韓信(かんしん)が“ならず者の言うままに彼の股をくぐるという辱めを甘受した”という故事である。

 耐える事が重要であって、卑怯な手を使っても勝つ事が良いと説かれているのではない。

 信長様もそう感じておられ、秀貞様と対立される。

 秀貞様が「勝たねば、家臣が付いてきません」という意見も判るが、私は罠や暗殺を駆使する意味と考えたくない。

 今、那古野城は清須への引っ越しで大忙しである。

 壊した屋敷を修繕し、焼いた町を造り直し、家臣に領地を分け与える。

 防備も整わぬ清須城に信長様を連れてゆく訳にゆきません。

 忙しさが十倍に撥ね上がっています。

 書類を持って廊下を歩いていると、向こうから信長様が歩いてきました。


「長門、よい所であった。信盛が帰ってきた。一緒に話を聞け」

「畏まりました」

「どんな返事が返ってくるか。楽しみであるな」

「山崎に砦を建てろとは無茶でございます」

「魯坊丸がどんな弱音を吐くのか、聞いてみたいであろう」

「お人が悪い」


 信長様は那古野から清須へ引っ越しの忙しい時期に笠寺方面を気づかいたくない。できれば、笠寺の北の山崎の砦を設け、今川方をけん制したいと考えました。

 しかし、よい策が思いつきません。

 そこで佐久間-信盛殿を使い、魯坊丸様に難題を押し付けました。弱音を吐く魯坊丸様の話を聞いて溜飲を下げるつもりです。

 悪戯心なのでしょうが、驚くのを楽しむ信長様の悪い癖です。

 部屋に入ると、信盛殿が待っていました。


「信盛、如何であった。魯坊丸も困っていたか」

「いいえ、そんな事はございません。流石、信長様の弟御でございます。魯坊丸様からすばらしい策を頂いて参りました」

「な、なんだと⁉ 山崎に砦が築けると申すのか」

 

 信長様が驚くのも無理はありません。

 潮が満ちれば、陸の孤島となる松巨島です。

 織田方が砦を築こうとすれば、今川方が邪魔をするのが必定です。

 今川勢を留める兵をどこで調達するかが問題です。

「言っておくが、那古野から兵は送れんぞ」

「兵は佐久間家のみで何とか致します。銭の方はよろしくお願いいたしますとの事です」

「大学允 (佐久間(さくま)-盛重(もりしげ))がそれほど多くの兵を出してくれると言うのか?」

「これから交渉致しますが、二百人程度なので問題ないと思われます」

「二百、足りぬであろう」

「まずは、これをご覧下さい」

 

 信盛殿が松巨島北部の地図を広げました。

 最終的に廃城となった山崎城を再建する事で今川勢を食い止めるとして、その資材置き場に山崎砦を海部に建てる絵図でした。

 突き出た陸地の両脇に深い堀を掘り、そこに海の水を入れて出島にする計画のようです。潮が引いても舟が着けられる場所です。

 万が一の場合は舟で逃げる事ができ、海から今川勢が襲ってくれば、熱田水軍が相手をします。ここに山崎砦ができれば、山崎城の修復は楽になります。


「先に山崎城を今川方に抑えられるのではないか」

「それならば、それでよいとの事です。今川勢に山崎城を修復して貰えれば、銭が安くなるそうです。そして、山崎城をめぐって争っている間は、他が襲われる心配も減ります」

「其方の意見か」

「滅相もない。魯坊丸様のご意見でございます」

 

 続きを聞いて目眩を覚えました。

古くなった船付き場の改修の話を白毫寺に持ってゆく、その資材置き場を借りる。

 そして、新しい船付き場が完成すると同時に、船付き場の資材置き場が山崎城の資材置き場へと変貌する。

 こんな策を元服前の子供が考えた?

 信長様も不思議に思われて、岡本(おかもと)-定季(さだすえ)様の策ではないかと問われました。しかし、そこで信盛殿が白状しました。

 実は、魯坊丸様も困っていた。

 信盛殿が「策がないでは困る」と何度も問い詰める間に、魯坊丸様が閃いたそうです。

 間違いなく魯坊丸様の策だと言います。

 信長様は大いに高笑いされて許可を出されました。


「長門、魯坊丸は使えるではないか。そう思わぬか」

「はい。確かに」

「気のない返事だな。私は魯坊丸様を恐ろしく感じました」

「長門はいつも心配性だな。あははは」

 

 信長様は笑われた。そして、実際に声に出して気付いた。

 私は魯坊丸様を恐れている。

魯坊丸様は私の姉が産んだ又十郎 (長利(ながとし))様と年が余り変わらない同じ大殿 (信秀)の子供だ。又十郎様は三つ年下なので劣っているのも仕方ない。しかし、三歳年上で信長様の同腹である三十郎様は剣術に熱心なだけである。孫子を覚えるにも苦労している。魯坊丸様は孫子を実戦する。

元服して熱田衆を率いるようになれば、末森の信勝様より危険ではないか。

そう思えた。

 魯坊丸様に力を与えてはいけないと、私の中でそんな思いがムクムクと膨れてゆくのを覚えた。


岩室いわむろ 重休しげやす

生誕不明

死没永禄4年6月(1561年)

別名通称:長門守

父:岩室または岩室宗順(重利)

弟:重義

子:小十蔵、加藤弥三郎室

甲賀五十三家の岩室家の一族。


父の宗順は武田家に誘致されて仕えていたが、天文6年(1537年)『花倉のはなくらのらん』の頃、『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門を切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。

これを機に宗順は駿河の義元に仕えた可能性がある。しかし、同じ頃、あるいは、後に雇われた伊賀者の藤林(ふじばやし)-保豊(やすとよ)(長門守)に仕事を奪われて、居場所を失った宗順は駿河を去った。

(※ 楠木小玉氏が自ら調べて資料を元に提唱しているが、具体的な資料を提示していないので調べられない)

その頃、尾張では織田-信秀が今川氏豊の那古野城を謀略で奪い取っていた。勢力を伸ばす信秀に召し抱えられた宗順は、甲賀者としての力を発揮した。その褒美の一つとして宗順の子である重休は幼少の信長の小姓に抜擢された。

信長より5歳から10歳ほど年上と思われる。

重休は1546年(天文15年)に13歳で元服した信長信の側近に取り立てられている。

永禄2年(1559年)に赤母衣衆に抜擢され、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは長谷川橋介、山口飛騨守、佐脇良之、加藤弥三郎と共に戦っている。また、重休・佐々政次・千秋季忠は織田信長本隊に先行して兵三百と共に今川軍と交戦した。佐々・千秋は討ち死にしたが、重休は生還した。

永禄4年(1561年)6月、反乱を起こした犬山城主・織田信清の鎮圧にも従軍し、重休は信清方の小口城攻略にあたり城将・中島豊後守の調略を試みたが失敗した。

この後、小口城の戦いが発生し、その戦でこめかみを槍で打ち抜かれて討死したという。


また、池田家からも岩室家が取り立てられた時期も特定される。

信長の乳兄弟である池田恒興の父は、池田(いけだ)-恒利(つねとし)は天文7年に没して幼い恒興が池田家を継承する。その恒利の実父は滝川(たきがわ)-貞勝(さだかつ)である。恒利は池田(いけだ)-政秀(まさひで)の娘を妻に貰って池田家に婿入りしている。

このように天文7年以前に滝川家が織田家に仕えており、天文7年以前から甲賀者を取り込んでいた事が判る。

滝川家に並んで岩室家が登場していない事から織田-信秀の勢力拡大に伴い、甲賀衆の数が足りず、天文7年以降に岩室-宗順を召し抱え、信長の小姓に抜擢された事から宗順が尾張統一に貢献した事がわかる。

なお、褒美の一環であるが、信秀の側室に岩室殿が存在する。織田信秀の十二男(十一男とも)織田(おだ)-長利(ながとし)(天文18年(1549年)?)の母である。

岩室家も池田家のように大きな勢力になってゆく可能性があったが、


前半の岩室宗順が今川家に仕えていたのは楠木小玉氏の説ですが証拠となる文献は見ておりません。

小玉氏は天文10年に織田家に仕えた説を採用しておりますが、文献に『背武田家移』とありますが『背今川家移』とないので、今川家に仕えた説は取っておりません。

天文10年では重休が信長に仕えるのが元服後になるのではないかと考え、天文7年の武田家の騒動で離反した説を取っております。

また、信秀は甲賀衆の滝川家を召し抱えており、岩室宗順はそれに続いて召し抱えられた事は判っています。


岩室氏 系譜 大江朝臣 濃州岩室城主

 

  初代 重利  背武田家移尾州仕織田信公領八千石

  二代 重休(長門守) 高須城代?城主?五千石

  三代 十助重義 播州別所小三郎長治 に仕える?千八百石

      (二代と三代は兄弟) 

  四代 十兵衛重休 仕池田三左衛門尉 荒尾興兵衛隆重(池田家筆頭家老)二百石

  五代 重郎兵衛利休美備前大守松平新太郎光政公 知行二百石


尚、『織田家臣人名辞典』にれば岩室長門守の子・小十蔵は本能寺の変後、織田信雄に仕え (中略)

 その後、播磨に移ったか、天正十四年十二月十四日、勝茂(木下勝俊)より播磨で百二十石を宛がわれている

                                    (美作古簡集)


※「背武田家移」は、「武田家を見限り、他の勢力に移る」という意味です。


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