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第二十九話 魯坊丸、山崎城の立地に悩む。

〔天文二十三年 (1554年)六月〕

 信長兄上が私に難題を持ってきた。

 佐久間-信盛殿を使って山崎に砦を建てろという。砦の縄張り (設計)などした事もない私に砦を造れとか、無茶ぶりが過ぎます。私にどうせよというのです。

 まず、牛山とりで (中根北城)と菱池とりで (中根中城)の縄張りをした村上小善と村上弥右衛門を呼んで、砦造りのお勉強からです。


「魯坊丸様、砦は地形を利用して造るものです」

「敵が攻めてくる方角も重要でございます」

「この辺りから取れる常滑りの土を利用すると、足が滑って踏ん張りが利かず、砦に攻めるのに難儀致します。その土地で利用できるものを把握するのが重要でございます」

「この丸根とりで、中根南城は海に面しております。海側は石垣を積み、壁を高くするだけで防御がかなり高くなります」

 

 小善と弥右衛門が交互に話し掛けてくる言葉に私は頷くだけです。

 後ろで紅葉がすべて紙に書き出してくれているので、私は聞く事に集中できます。そして、時折に話を止めて「何か、ご質問はございますか」と聞いてくるので疑問に思った事を言いました。規模によりますが、村木砦 〔東西150m、南北240m〕の規模になると、村人1000人ほどを動員して三、四ヵ月も掛かったようです。村木砦ほどの規模は必要ないと感じましたが、村木砦の半分である中根南城と同じくらいは欲しいと感じました。

 翌日、熱田神宮のお仕事をしながら大宮司の千秋季忠様と師匠の岡本(おかもと)-定季(さだすえ)殿に集めって貰って相談です。


「定季師匠、敵地で砦を造る方法を教えて下さい」

「また難題でございますな。どこに建てろと命じられたのでしょうか?」

「山崎です」

「山崎ですか。山口-教継が入っている桜中村城から16町 (1600m)しか離れておりませんぞ」

「その通りです。その北に成田家の鳥栖城(とりすじょう)があります。その鳥栖城から北東に同じほど (16町 、1600m)の所に中根南城があります」

「同じく海を挟んでおりますが、山崎と井戸田の大喜田光(だいきたこう)城も9町 (900m)ほどでございます。できない事もないが難しい場所です」

「潮が高くなった所で攻められると、半日は援軍が送れません。完成した砦なら持ちこたえられそうですが、築砦中では持ちこたえるのが難しい気がするのです」

「もしくは、それ以上の兵を常駐させるしかございません」

「そこでお知恵を借りたいです」

「ございませんな。そんな都合のよい方法があれば、皆がやっているでしょう」

「そうですね」

「魯坊丸様。まず現地を見てから考える事をお薦めします。山口の勢力圏に近づくのは危険でございますが、見ずに考えるのは愚者でございますぞ」

「判りました。現地を見て参ります」

 

 大宮司様が心配されたが、三河へ旅をするのに比べれば、隣の家を訪ねるようなものです。私は渡し舟で熱田から白毫寺(びゃくごうじ)近くの船付き場へ移動します。鎌倉街道の下の道の1つです。

 銭の惜しむ旅人は徒歩で渡れる井戸田の渡しを通りますが、この辺りは少しだけ水深が深く、干潮になっても水が切れない場所なのです。

 そこから少し井戸田の方の歩いた所が山崎です。

 私らは怪しまれないように熊野三社のお参りに来たように装い、熊野参道を歩いて行きます。熊野三社まで3町 (300m)しかありません。

 お参りをした後に寄付を出して、神主の話を聞かせて頂くのです。


「一度は熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社にお参りして頂けると嬉しく思います」

「そうですね。(たいらの)清盛(きよもり)公も後白河(ごしらかわ)法皇も参拝されたと聞きます。一度行ってみたいものです」

「御利益がございますぞ」

「他に面白い話はございませんか」

「他にでございますか……そうですな。この神社ははじめ山崎城にあったそうですが、廃城となってここに移されたとか」

「山崎城があったのですか」

「あちらに見える丘にあったそうです」

「では、元熊野三社にもお参りするべきです。行ってみましょう」

 

 本当に隣の丘でした。

 しかし、斜面がキツいので一度井戸田方面に歩いて坂道を迂回します。

 しかも草木が生い茂って歩き難い。

よく見ると何段に分かれていました。よく調べれば、塁壁(るいへき)の斜面も残っています。

丘の上には、何もありませんが礎石がありました。しかし、砦を建てる間、身を守る術がありません。

ここに砦を築くならばかなりの時間が節約できます。

 しかし、問題もあります。

この丘の東に井戸田へ繋がる街道が走り、資材の持ち込みは便利ですが、山崎城の修復に取りかかれば、すぐにバレて山口勢が押し寄せてきます。

 街道の横では誤魔化しようもありません。

 丘の西側を下ると海沿いに歩いて、白毫寺の船付き場から帰りました。

 長居は無用なのです。

 それから何度が足を運びましたが、よい知恵が湧く事もなく、数日が過ぎました。

何通りか、山崎城へ資材を運ぶ方法を考えましたが良い案が浮かびません。

 山崎勢が襲ってきた時に微下込む所がないのです。

 廃城で迎え討つのも無理です。

 なお、廃城となった山崎城は蔵人浄盤が建てそうですが、戸部家が一色城を建てる頃には廃城となっており、熊野三社はその前に今の場所に移ったとか?

城の資材はすべて一色城を建てる利用して持ち出したそうです。

 他に詳しく知っている者がいませんでした。

 さくらが廊下で頭を下げます。


「佐久間様がお越しです」

「今度は何の用ですか?」

「おそらく、砦の打ち合わせではないでしょうか?」

「砦……まだ何も準備していません」

「しかし、私にどこまで準備できたか聞いてきました」

 

 私は客間に移動して、砦の場所も決まっていない事を告げます。

 信盛殿が難しい顔をされます。


「信長様がどうなったかと聞かれるのです。何か返事を持って帰らねば、某が叱られます」

「叱られるとか言われても知りません。資材置き場すら決まっていません」

「それで困ります」

「いいですか。井戸田から山峡に資材を置くと、その資材を燃やされる危険があります。兵を常駐させれば、山口勢と睨み合いが始まります。1000人近い兵を揃え、ほぼ同数の農民を駆り出して砦造りとなります。それが三ヵ月から四ヵ月も続きます。どれほどの銭が掛かると思います。そんな長期間も誰が兵を貸してくれるのですか」

「信長様にお頼みします」

「清須への引っ越しで人手が足りない時期です。蹴られても知りませんよ。絶対にお叱りをうけます」

「それは困ります。何とかお知恵を貸して下され」

「せめて資材置き場だけでも無事にできれば……資材置き場」

「魯坊丸様」

「…………」

「魯坊丸様、どうされました」

「…………」

「魯坊丸様⁉」(怒)

 

 信盛の大きな声にはっとした。

 そうなのです。

 資材置き場だけでもできれば、山崎城はのんびりでも構わない。

「信盛殿。これから話す事は他言無用でお願いします。信長兄上にも人払いをお願いした後にお話し下さい」

「何でもございますか?」

「熱田商人を使って白毫寺の船付き場を新しい立て替えます」

「船付き場ですか。砦と何の関係があるのです」

「新しい船付き場を立て替えるには資材が必要です。そして、資材置き場も必要となります。そして、新しい船付き場が完成すると同時に、その資材置き場が山崎城の資材置き場へと変貌するのです」

「山崎城の資材置き場ですか?」

「正確に言えば、廃城となった山崎城を建て直します。しかし、その前に資材置き場を山崎砦に改造してしまうのです。白毫寺を騙すのではありません。船付き場の資材置き場として用なしとなった瞬間に山崎砦へと変貌するだけです」

「そんな事が可能なのですか?」

「あの辺りは海が深く、潮が引いて水が残っている場所です。資材置き場で悪さをされたくないので、通り道を残して深い堀を掘って海の水を引いておくのです。そうなると攻め手は通り道のみです。海から攻めるならば、熱田水軍の援軍が期待できます。簡単に負けません」

「その資材置き場が砦の役目となるのですな」

「廃城となった山崎城は三重の塁壁で守られる城ですが、土塁では簡単に落とされます。ですから、それを石垣に変えて建て直せば、簡単に落ちない城となるでしょう。しかし、三重の石垣を積むとなると銭が掛かります。山崎城は加藤家の助けを求めましょう。加藤家は熱田の豪商をいくつも従える家です。銭を惜しまず、立派な城を築いてくれるでしょう」

「山崎は某が拝領した土地でございます」

「山口と争っている間、領民はほとんど戻ってきません。土地の開墾もできません。年貢のない領主にこだわってどうします」

「確かに、そうですな」

「熱田を防衛する為に山崎城を加藤家に再建して頂くのが上策です。笠寺を信長兄上が取り戻してから、その件は考え直しましょう。まずは山崎砦を造り、山崎城の資材置き場を確保する事に全力を注ぐのです」

「判りました。そのように信長様に報告してきます」

 

 せっかちな信長兄上はすぐに実行しろと言ってきました。

 熱田衆から白毫寺に話を持ち掛ければ、一、二もなく承諾しました。

 船付き場の南に資材置き場を選定し、工事がはじまったのです。


挿絵(By みてみん)


■山崎城

正式な名称は、山崎字羽城 です。

城主は蔵人浄盤、次に加藤弥三郎、最後に佐久間信盛でした。

加藤順盛の子で織田信長の小姓であった加藤弥三郎が城主となった

東西45m、南北56mの規模。


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