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第二十五話 信長、清須を陥落させる

〔天文二十三年 (1554年)四月十四日〕

 信長兄上が清須を攻めた。

斯波(しば)-義親(よしちか)義銀(よしかね))様を引き取ってから十回目、今年に入って七回目です。

 戦の見物は村人の娯楽のようで清須東の河原神社に近い高台に村人が集めって、信長兄上の清須攻めを眺めていた。もう少し近くに寄った方が見やすいが、近づき過ぎるのは危険なので控えた。

 那古野勢も山王社の日吉神社境内までは火を掛けない。すぐ横の河原神社も無事である。

 しかし、周辺の村はすべて焼き払われ、村人は清須城へ避難しました。

 神社で匿えば、神社も燃やすと信長兄上が宣言したからです。

 村人もしたたかです。

 床の下に種籾を隠し、那古野勢が引くと城から出て種捲きをはじめます。

 それを聞くと、信長兄上が手勢を率いて攻めます。

 ですから、今年に入って何度も清須を攻める事になったのです

 聞こえませんが、信長兄上が馬上で叫んでいます。


「信長様が何か叫んでおるぞ」

「もっと攻めろと言っているだ」

「そうだ。そうだ」

「もう何回目だ」

「三回目以上は覚えておらん」

「信友様も諦めて降伏すれば、いいだ」

「降伏したら。首を刎ねられるだ」

「そりゃ、痛そだや」

「おぉ。横の家臣は下がれと言っているだ」

「信長様にへなちょこの矢など当たらん。それにしても鉄砲の音が凄いだ」

「凄い数だ」

「おぉ、家来の方が転けたぞ」

 

 農民の方が情勢を理解しているように思えます。

 そろそろ田植えも終り、信長兄上も焦っています。

 田植えの時期は兵が集まりません。

村で年貢が免除されている農兵と領主が抱えている者をかき集めて、信長兄上は七百人ほどで攻めていました。

 ほぼ同数の兵が城に籠もっており、討って出れば、何かが起るかもしれません。

 しかし、腹を減らした兵の士気は最低です。

 降伏勧告を無視し、守護代の織田-信友殿は潮目が変わるのを待って籠城し続けるようです。

昼過ぎまで鉄砲を撃ち続け、玉が尽きた所で引き上げるようです。


「さくら、帰りましょう」

「はい」

「叔父上の方はどうだ?」

「よい返事が来て、キラキラときらめいております」

「ようやく、疑いより困窮が勝ちましたか」

 

信光叔父上は織田弾正忠家の家督を争って、再び喧嘩別れして頂きました。

 そして、守護代の信友殿に織田弾正忠家の家督相続を願いますが、『村木砦の戦い』に協力した信光叔父上を信用しません。

 信光叔父上の援軍をずっと断り、疑い続けていたのです。

 しかし、兵糧が減ってあり、使者と一緒に届けられる米を重宝しました。

 塩屋から買うのは五穀米。

 信光叔父上が持ち込むのは白米です。

 少しずつ疑いが晴れ、やっと家督を認めるという書状が届いたようです。

 これで準備が整いました。

 これでもう一度、清須を信長兄上に攻めて貰う必要がなくなりました。

 最後の仕上げです。


「楓、兄上に伝言をお願いします」

「どの伝言でございますか?」

狛千代丸(こまちよまる)が吠えたです」

「狛が吠えた。伝えてきます」

 

 狛千代丸は平手政秀様の幼名です。

 政秀様が考えた策の準備が整ったという合図であり、那古野に帰還した信長兄上は、義親様に清須の信友殿を追い詰めたと報告し、次は確実に清須を落とすと宣言します。

 那古野、末森、熱田、深田、津島、中島の諸将を総動員して、朝・昼・夕・夜の四ツに部隊を分けて、三日三晩掛けて攻め続けると、清須攻めの戦略を披露するのです。

 七千人を越える兵力で休みなく攻め続けられる。

 信長兄上に寝返った領主の中には清須への恩を持つ者もおり、こっそり兵糧を送り、情報を清須に漏らしている者もいます。

 義親様の前で宣言した戦略は、間違いなく清須へ届くでしょう。

 青ざめる信友殿の前に守山の使者が援軍を送ると言えば、どうなるでしょうか。

 藁に縋るつもりで、信光叔父上の援軍を喜ぶでしょう。

 政秀様の策はどこまでも鋭敏だと思いました。

 私以外の方に託していたならば、清須攻めを楽しめたでしょう。

 

 〔天文二十三年 (1554年)四月十八日〕

 夜も明けぬ暗い早朝に中根南城を出て、清須を見守る為に河原神社近くの高台を目指しました。養父の中根(なかね)-忠良(ただよし)殿も昨日の内に兵を連れて那古野に入っています。信長兄上は日が昇ると同時に那古野城を出発し、末森、深田、津島の援軍と清須の南で合流します。そして、その日の内に清須を囲い、翌朝から清須攻めが始まると誰もが思っているでしょう。

 私は日が昇る頃に河原神社近くの高台に到着すると、すでに守山からの援軍が清須へ入城を始めていました。

信光叔父上もやる気満々です。

大量の食料を一緒に運び込み、清須の兵の士気が一瞬だけ高くなったようで、城から歓声が沸いています。

 信光叔父上は五十人ほどの兵を連れて清須城の本丸へ入り、門をくぐった瞬間に牙を剥きだして、本丸の外で待っている兵を城へ引き込みます。

 本来、本丸へ向かうときは側近のみです。

 しかし、信光叔父上の身の安全を考えると、100人の側近は多過ぎて信友に疑われます。

 30人では信光叔父上の身が守られません。

 ぎりぎりの50人を率いて本丸に乗り込むと、半数で信友殿の首を狙い、残る半数がすべての門を開くのです。

 簡単そうで命賭けの策でした。

 次第にざわつく声が大きくなり、歓声が起ると清須の城壁に信光叔父上の旗が上がります。

 織田家の家紋は同じようですが、少しずつ違うのです。

 敵と間違わないように、信長兄上が好む『永楽通宝』の旗も上がっています。

 近づけば、判るでしょう。

 

 日が高くなってきた頃、土岐川 (庄内川)の渡河を終えた信長兄上の那古野勢が着陣し、それに続いて、次々と兵が集まってきます。

信長兄上は彼らを出迎え、兵が整った所で清須へ向かいました。

すると、清須の大手門が開きます。

信長兄上は軍を止めると、わずかな側近と主だった武将のみに前進を命じたのです。

武将らは何が起っているのが判らないような顔をしています。

大手門に近づくと信長兄上が下馬します。

 同時に、大手門から信光叔父上が現れ、信長兄上の手を取って握手しました。

 主だった武将らは狐につままれたような顔です。


「若様。織田家の家臣らが口をポカンと開けて阿呆面になっています」

「さくら、阿呆面は可哀想でしょう」

「そうですか?」

「清須を攻めて手柄を上げるぞ。そんな風に意気込んできたのです。戦う前に戦が終わっていましたと知れば、あんな顔になります」

「なるほど。やはり、若様は最高です」

「私の策ではありません。平手様が残された策です」

「実行されたのは若様です」

「私は手紙に書かれていた通りに動いただけです。平手様が凄かったのです」

「そうかも知れませんが、さくらは若様を尊敬します」

「私もです」

「もちろん、私もです」

 

 さくらに続き、楓と紅葉も賞賛の言葉を贈ってくれる。

 護衛の仁平太も頷いていた。

 凄いのは私ではなく、政秀様です。

 政秀様は傾奇者だったらしく、人を驚かせることが大好きだったそうです。

 父上 (織田-信秀)をその豪胆さが褒めていたとか。

 この戦で政秀様の観客は、信長兄上に仕える主だった武将だったのです。

 大成功、巧くまとめられて良かったです。

 私は用が済んだと帰ろうとすると、清須から登城せよという使者がやってきたのに驚くのでした。


■清須の陥落日

一般的に1555年(天文24年)4月18日と語られる説が主流である。しかし、山科言継の日記に信長に対する反発と、敵への共感が書かれている。

そこに天文二十三年十月に「尾州牢人織田大和守女ニ墨二丁遣之了」と書かれている。天文二十四年に清須が陥落したならば、天文二十三年十月の織田大和守家の女とは誰なのでしょう。天文二十三年十月には清須は陥落していたと思われます。

以下の理由から、清須の陥落は1555年(天文24年)4月18日ではなく、1554年(天文23年)4月18日を採用しております。


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