第二十二話 魯坊丸、帰蝶の会う
〔天文二十三年 (1554年)二月十五日〕
二月十五日、帰蝶義姉上の部屋にきた私は、信長兄上の笑い声に出迎えられた。私だって帰蝶義姉上に会うつもりはなかった。
沖村城の林-秀貞様の協力を得られるようになり、私は兵を離散させる策を思い付いた。
孫子の兵法、九地『卒離而不集』(兵士が散り散りになり、集まらない)です。
孫子の兵法では、城攻めが下策とされており、逃げ場を断つと『死地』となります。
ですから、敢えて包囲網に穴を空けておく。
逃げる敵を放置し、手柄首を見逃すので役は誰もやりたがらない。
信長兄上に協力的でない林家に達観した秀貞様という組み合わせであれば、積極的に清須攻めに参加しない武将になって貰える。
五条川を渡って、北東に逃げれば助かると知れば、兵も必死に抵抗しなると考えました。
翌日、熱田神宮で大宮司の千秋季忠様と定季師匠に相談すると、俵道を絶つ策を褒められ、さらにもう一手を付け加えられました。
北東なら逃がしてくれるという噂を流すのです。
定季師匠が言いました。
「こういう場合、同じ尾張の者が動くと疑われます」
「そうなのですか?」
「他国で盗みを働けば、その者の罪ではなく、その者を雇っている家、出身の村に責任が掛かります。熱田の商人が裏切っていれば、熱田の罪であり、信長様は熱田を罰せねば筋が通りません」
「あっ、判りました。身元が判らぬ者でないと裏切れない。しかし、身元が判らぬ者では信用できない。他国であれば、領主に賄賂を送る事で知らぬ存ぜぬが通用します。もちろん、その領主がそれなりの力を持っていないと攻め滅ぼされてしまいます」
「正解でございます。では、どなたが適任でございますか?」
私は定季師匠の質問に美濃国主の斎藤利政様の名を上げた。
利政様は美濃守護を追い出して国主になった下剋上の覇者であり、信長兄上の同盟者だ。
同盟を結びながら尾張を狙っていても誰もそれを疑わない。
私が出す策を渡りに船と思って、逆に織田-信友を籠絡する策略を乗せてくるかも知れない。油断ならない相手だから清須の者も那古野方の謀略を疑わない。
話がまとまると、定季師匠は那古野で信長兄上に面会し、帰蝶義姉上の協力を求めた。
帰蝶義姉上から父の利政様の協力を取り付け、斉藤家の御用商人を使わせてもらう。
斉藤家の後ろ盾を持ち、信長兄上から尾張のどこで商売をしてもよいという朱印状を持つ商人が誕生する。
これから兵糧攻めされる清須に高値で兵糧をわずかに入れて貰い、五条川の林家の関所が節穴であり、清須の兵に同情するほど、信長兄上に協力的でないと噂を流して貰う。
信長兄上は嫌な顔で帰蝶義姉上の協力を認めた。
しかし、帰蝶義姉上が協力の見返りに私に会ってみたいと言ってきた。
仕方なく帰蝶義姉上に旗屋から服の注文を出して頂き、見本の服を持って私は那古野城を訪ねた。
すると、那古野城の玄関に信長兄上が待ち構え、私の姿を見て大笑いした。
控え間で化粧を解き、魯坊丸に戻って帰蝶義姉上の部屋に入ると、中で待っていた信長兄上がまた腹を抱えて笑っている。
くぷぷぷ、信長兄上は笑い死にしてくれないか。<怒>
「先程の格好は何であった?」
「変装でございます。中根南城の者が度々に那古野城を訪れれば、何かあると疑う者が出てきます」
「目の下にホクロ、鼻にイボがあったように思ったが、如何した」
「目下ホクロとソバカスは墨で書いております。イボは鳥もちを工夫しました。判り易い特徴があると、人相を誤魔化し易いのです」
「ほぉ、念の入った事だな」
「三河に入ったとき、人目で魯坊丸と見抜かれれば、用心もするようになります」
「であるか」
信長兄上ばかりがしゃべていたので、帰蝶義姉上が怒って信長兄上を叱った。
自分が楽しむ為に呼んだのに、信長兄上ばかりが楽しむが狡いそうだ。
私はどうやら二人の玩具と気付かされた。
帰蝶義姉上が気に掛けていたのは、「それで井伊家の娘とはどうやって知り合ったのです」、「本多の娘とのなれそめは」などを矢継ぎ早に質問された。
最後に「二人を招待するので、必ず那古野に送り出して下さい。絶対ですよ」と言われた。信長兄上も面白そうだと、ノリノリなので決定事項となった。
信長兄上と帰蝶義姉上は苦手だ。
〔天文二十三年 (1554年)初旬〕
さて、せっかちな信長兄上は二月中に清須封鎖の触れを出し終わり、清須に繋がる街道をすべて封鎖した。さらに、周辺の村を襲い、村人を清須城へ追い立てた。
よい策だ。
清須城に蓄えている兵糧にも限りがあり、周辺の民を押し込めば、兵糧の減りも早くなる。
二月末になると兵糧の不安を感じたのだろうか、民への炊き出しが中止された。
しかし、焼き尽くされた村に帰っても何もなく、流民として逃げ出すようになった。
少し嫌な気分になった。
熱田の森で死んでゆく流民は、こんな風に作られてゆくと思い知らされた。
私は季忠様に那古野のような足軽を雇わないかと提案した。
湊も守る足軽がいてもいいだろう。
数は知れているが、五十人ほど足軽を森の流民から雇った。
傭兵から足軽を雇うより格安だったからです。
その家族に家が与えられ、私は少しだけ溜飲を下げたのです。
紅葉が報告します。
「若様。塩商人『塩屋』から連絡が熱田に入りました。清須の台所奉行と接触できたようです」
「で、清須の状況は?」
「こちらが思っていた以上に兵糧の蓄えが少ないようです。塩商人が米を運ぶのも変ですが、塩俵を言い張って通るようです」
「無茶な話ですね」
「信長様の朱印状の力です。それで清須では兵の食料を一日三合に減らしているようです」
「戦では一日十合を支給すると聞いていたが、違いますか」
「違いません。戦のない日でも朝昼に二合半、夕に二合半の五合を食します。三合では腹が減って仕方ないでしょう」
「兵の士気が下がるのもお構いなしですか」
「塩屋は五穀米三十俵 (900キロ)を二十倍の値で買って貰えると喜んでいるようです」
三十俵を月に二回入れる事になった。
一日が三合 (450グラム)だから一俵 (30キロ)で66食、三十俵なら2000食となり、15日で割ると一日133食です。
清須城に三百人から五百人が籠もっているので、大いに助かるが十分ではない。
あと二ヶ月もすれば、米蔵は空に近づくでしょう。
飢えていないでしょうが、士気は駄々下がりでしょう。
すぐに美濃商人が通る五条川の道が清須の兵に知れ、城を捨てて逃げる兵も多くなります。
二ヶ月後が楽しみです。




