第十九話 魯坊丸の交渉
〔天文二十三年 (1554年)一月二十九日〕
信長兄上は二十四日に村木砦を陥落させると、近くの山間 (飯喰場)で宴会を開いた。翌朝、知多半島を横断し、今川方の寺本城の城下町を放火してから、迎えの熱田水軍の舟に乗って帰宅した。
信長兄上のあまりに早い帰城に安藤-守就殿以下、田宮殿、甲山殿、安斎殿、熊沢殿、物取新五殿も疑ったそうだ。しかし、同行した斉藤家臣が報告すると、信じられない話も信じるしかない。
信長兄上は留守を預かった斉藤の兵に心ばかりの馳走を振る舞ってお帰り頂いた。
勝利の湧く那古野家臣の中で怒っていたのは林-秀貞殿と弟の通具殿であった。
秀貞の領地は那古野の北である。
しかも土岐川 (庄内川)を挟んだ向こう側であり、清須城の東に位置する。
清須への警戒を行いながら兵を用意して、二十二日の朝に熱田で合流する筈であったが、大雨で土岐川が氾濫して渡河できなかった。
その嵐の中で出航しているとは思っていない。
翌日(二十三日)の夕方に川が静まって那古野を通った頃、すでに信長兄上が出陣してしまったと知って兵を引き返した。
完全な置いてきぼりであった。
おそらく、全軍が集まるのを待っていたのでは『村木砦の戦い』に勝利はなかった。
嵐が去った後に伊勢湾を渡って緒川城に辿り着いても、三河から今川の援軍が近づいており、村木周辺で野戦となった。
仮に野戦で勝っても村木砦の陥落させる余力もなく、今川方が有利で事が進む。
信長兄上はそれを覆した。
源-義経が暴風雨の中を海渡って『屋島の戦い』を再現してしまった。
この一戦の勝利は大きい。
東海一の弓取りと称される今川義元殿を出し抜いた一勝であり、信長兄上は義元殿と互角に戦える事を証明した。
この機会を逃して、次はない。
私は定季師匠に頼んで信長兄上との面談を求めた。
二十九日、戦勝祝いを告げに私は那古野城を訪れた。
毎日のように戦勝祝いの使者が訪れ、信長兄上は忙しいようです。
私は定季師匠と一室で待っていました。
「流石、師匠。これほど早く面会ができると思っていませんでした」
「平手様が書かれた最後の一通を見たくないかと唆しました」
「これは私宛であって、信長兄上宛ではありません」
「その最後の一通が信長様ではなく、魯坊丸様であった事に不満をお持ちです」
「不満なら清須を落としてくれればよいのです」
私がそう言った瞬間、襖が開いて「誰に清須を落とせと言っておるのだ」と鋭い声が上から降ってきた。
私は慌てて信長兄上に頭を下げた。
「前置きはよい。人払いも済ませておる。さっさと出せ」
「こちらでございます」
「これか……確かにお前宛だな」
不満そうな声を出しながら信長兄上が手紙を読み出した。
手紙の両端に力が入り、ぐしゃぐしゃになってゆく。
読み終えると、手紙を置いて私を睨んだ。
「必要ない。儂が清須を落とす」
「そうして頂けますと助かります。私もこのような手紙を頂いて困っております」
「爺ぃめ。最後に耄碌したな」
「ですが、この機を逃して清須を奪えなければ、村木の一勝の意味がなくなります」
「何が言いたい」
鋭い眼光が私を捕らえ、チビリそうだ。
元服前の子供に向ける殺気じゃない。
だが、思い返す。
動ける時に動かなかった為に窮地に陥った。
村木の一勝が無ければ、水野家も離反して織田家は終わっていた。
蹂躙されるか、今川へ臣従するか。
そんな二択しか残されていなかった。
やり直せる。もう一度やり直せる機会が訪れた。
信長兄上は傾くのが好きだが、根は真面目で誠実な性格をしている
暗殺や謀略を好まない。
戦の天才という話は信じがたかったが、それを『村木砦の戦い』で証明した。
平手政秀様は信長兄上をよく見ていた。
織田弾正忠家を支えるのは信長兄上しかいないと私もそう思えてきた。
そして、信長兄上が苦手な謀略を私に託した。
怖いが、ここは引けない。
顔を上げろ、目を見据えろ、笑みを零せ。
「信長兄上が清須を攻略して頂ければ、私が謀略を巡らす必要もありません。楽でございます」
「ならば、黙っておれ」
「黙りません。黙っておれば、織田家が滅びます」
「儂が清須を落とす。信光叔父上の力など借りずとも落としてみせる」
「ですから、落として下さいと申しております。私もその方が楽なのです。ですが、準備を怠る訳にはゆきません。平手様の遺言でございます」
「爺ぃの名を出すな」
「まず、改めて守護様の名で宴会を開いて下さい。そして、その席で信光叔父上に織田弾正忠家の家督を預かると宣言させます。信長兄上が否定する所から始めましょう」
「やるとは言っておらん」
「清須を力攻めできる自信がございませんか?」
「なんだと⁉」
信長兄上が刀を抜いて切っ先を私に向けた。
時間がゆっくりと流れ、時が止まったようだった。
汗が滝のように流れ、ポタポタとしたたり落ちるが、目だけは見据えておく。
実際、少しちびった。
床が少し濡れたが、汗のせいとしよう。
震える手をぎゅっと握り絞めると、口を開いた。
「三ヶ月お待ちします。今回、臍を曲げた林-秀貞殿にも清須攻めを控えて貰いましょう。東尾張の岩崎丹羽家の用心で末森の信勝兄上、笠寺の山口家の用心で熱田の兵も参加させません。那古野衆、津島衆、深田の信次叔父上、勝幡の信実叔父上のみで清須攻めをお願いします」
「儂が従うと思うておるのか」
「従わずともそうなるように仕向けます。すでに平手様が舞台を作ってくれておるのです。私はそれに従うのみです。ですが、一つだけ信長兄上に手伝って貰わねば、できぬ事がございます」
「何だ?」
「清須へ続く街道を封鎖して兵糧攻めをお願います。これができないと三ヵ月後に落とすのが難しくなります」
「儂が従うと思うのか」
「従うとか関係ありません。それをしないと力攻めでも清須を落とすのは難しいと存じます。まぁ、外堀を埋めてしまうという途方もない労力を払えば、落とすのも容易いですが、それこそ三ヶ月で落ちません。今川方が雌雄を決する為に動き出します。早々に尾張を統一し、互角の兵力を整えないと互角に戦えません。それで宜しいのですか」
ちぃ、信長兄上が小さく舌を打った。
私は畳みかけるように段取りを説明し、最後に信光叔父上への報酬として那古野城を与えると書いて貰うように頼んだ。
「儂が書くと思うのか?」
「嫌ならば別の手を使うのみです」
「ほぉ~、どんな手だ」
「信勝兄上に信長兄上を出し抜きましょうと唆します」
「信勝が出た所で何ともならんわ」
「続いて熱田商人と津島商人を唆し、傭兵を一万人以上は集めます。信勝兄上の兵を合わせれば十分な脅威となり、清須勢は信光叔父上へ助けを求める。最後に奪った清須を信長兄上に五万貫文で買って頂きます」
「そんな銭があるか」
「無ければ、守護様が清須に戻って、信光叔父上を守護代とするだけです。それが嫌な信長兄上は払うしかありません。そして、清須を謀略で取った私は、『尾張の孔明』と呼ばれ、私の言葉を無視できなくなります。どちらな道をお望みですか」
「…………」
「平手様が用意された道と、私が考えた道です。どちらが信長兄上の為に考え尽くされた道が明白です」
「儂が力攻めで清須を落とせない場合のみだ。それでよいな」
「結構でございます」
ずっと武者ぶるいが止まらなかった。
偉そうな事を言ってしまったので、信長兄上の心証は最悪だろう。
定季師匠は楽しそうです。
でも、これからずっとこれを続けると思うと辛い。
政秀様、恨みます。




