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第十三話 平手の死 

〔天文二十二年 (1553年)閏一月〕

 私、魯坊丸は無事に八歳 (満七歳)となれました。

 去年は父上 (織田-信秀)が亡くなり、織田弾正忠家がもう終わりかと何度も思いました。

 何と言っても信長兄上と信勝兄上の家督争いが問題です。

 皆から『大うつけ者』と馬鹿にされていた信長兄上と、実直な信勝に期待する家臣団との間で戦になるかとヒヤヒヤしていました。

 私は熱田神宮に預けられていた。

熱田衆が信長兄上を支持していたので、信長兄上に勝って貰わねば命がありません。しかし、仮に信長兄上が勝っても疲弊した織田家が外敵の今川に敵う訳もなく、私の将来を考えると真っ暗でした。

 何かできる訳もなく、淡々と過ごしていました。

 

 そんな私に転機が訪れます。

 天白川の河川敷で死にそうな女の子を助け、井伊家の孤児とする事で引き取りました。

 今も元気に私の侍女見習いとして頑張っている。


「魯坊丸様、お部屋を綺麗にしておきました」

「駒、ありがとう」

「先程、千秋-季忠様と岡本-定季様がいらっしゃいました。ご当主様との話が終わって

からこちらに来ると使いが参っております」

「また来ましたか」

「ご体調が悪いとお断りしますか」

「それはできません。さくら、楓、紅葉はまだ広場に居ます。こちらに呼んできて下さい。仁平太を連れてくるようにと」


 駒は「はい」と言って出ていった。

 朝食を終えると、少し北の中根村近くの広場で馬を走らせる訓練と、兵を動かしながら身を守る体術を教わっていた。

 中根南城の北にある“牛山とりで”と“菱池とりで” の兵も参加した本格的な訓練だ。

 さくら達は護衛の連携を密にする為に残っていた。

 正月から春だが、閏一月はまだ寒い。

私は他の侍女らに着替えさせて貰い、火鉢にすり寄った。

 手をさすりながら去年の事を思い返した。

 その一つが駒を引き取る為に考えた策だ。

 季忠様が私に会う為に城を訪ねてくるほどに態度をガラリと変えてしまった。

 普通の子は井伊家の孤児を使って今川家の悪評を広める策など考え付かない。

しかも私の策は織田弾正忠家からの離反者を食い止めるのに成功した。

 季忠様曰く、“稀代の軍師の卵”らしい。

 そう評価したのが、『熱田の孔明』と称される定季様であり、季忠様の命で師匠となった。

 戦の“いろは”から“軍略”・“謀略”の数々を教わっている。

 織田家を離反した山口(やまぐち)-教継(のりつぐ)を貶める策や人の使い方を教えてくれた。山口家に仕える鳥栖城(とすじょう)成田(なりた)-義次(よしつぐ)などの離反に半ば成功し、後は機会を伺うだけまで進んでいた。

 きっかけがあれば、今川家への離反者が出ると……思っていた矢先の事だ。

 太原(たいげん)-雪斎(せっさい)和尚が東尾張になってきて、清須の織田(おだ)-信友(のぶとも)を唆し、松葉城と深田城を奪わした。

 織田弾正忠家と清須の織田大和守家の和睦が消えた。

 その波紋は東尾張の岩崎城の丹羽(にわ)-氏勝(うじかつ)を動かし、嫌今川に染まりつつあった態度を恐今川に変化させた。

 今川家に従うのは嫌だが、織田弾正忠家は頼りにならず、滅ぼされるよりはマシだという結論へと至った。

 定季師匠曰く、『戦わずして勝つ』という孫子の兵法を見事に体現されたという。

 私にもそう見えた。

 兵法家の力を見せ付けられた瞬間でした。


 だが、その状況を一変させたのが信長兄上だった。

 松葉と深田の二城の奪還に兵を出し、それを阻止する為に清須から出た兵を萱津(かやづ)で迎え討った。

この『萱津(かやづ)の戦い』で信長兄上は武功を上げて、一躍にして家臣団の信用を取り戻した。家臣団は一斉に信長兄上を『尾張の虎の子も、また虎だった』と讃えた。

 信勝兄上を脅し、今川有利の和睦条件を追加させる事に失敗した。

 信長兄上が武力で雪斎和尚の策を打ち破ったのだ。

 

 季忠様、定季師匠と一緒にさくら達が部屋に入ってきた。

 私は上座を譲り、下座に移動する。

 簡単な挨拶をすると、すぐに本題に入った。


「やっと尾張も落ち着いてきました」

「落ち着いたのですか? 織田弾正忠家は義元と戦うと意気込む信長兄上派と、義元公と何としても和睦すべきという信勝兄上派に割れております」

「ははは、確かに割れております。しかし、信勝様も末森・那古野・熱田のすべてを今川に割譲するつもりはありません」

「従属を条件に各領主の領土の安堵を求めるでしたか」

「織田弾正忠家を残した儘で領土の安堵など……認める訳がありません。流石、魯坊丸様の謀略は確かでございます」

「何の話です」

「遠江は旧残党が活性化して暴れ、三河は幕臣らが義元殿の暴挙に怒って反乱を起こしております。義元殿は尾張にかまっていられない状況となってしまいました。お見事です」

 

 雪斎和尚は信長兄上の武功に負けを認めたと認めて引き上げた。

 しかし、義元殿は認めなかった。

 雪斎和尚が引き留めるのを聞かず、兵を起こして八事まで兵を進めた。

 公方様の仲介でなった和睦を自ら破った。

 圧倒的な兵力で八事までを今川領と宣言し、今川(いまがわ)-氏豊(うじとよ)が保有していた那古野までの返還を求めた。

 確かに今川氏豊が那古野まで支配しており、父上が奪ったのは事実だ。

 しかし、その前は斯波家臣の那古野家の領地だった。

 今川家も戦で勝って奪った土地であり、言いがかりも甚だしい。

 今川勢が倍近い兵力であっても土地を守ろうとする地侍の士気は高く、信長兄上は交戦を主張し、信勝兄上は家臣団の慎重論を支持した。

 恐怖で織田弾正忠家を二分する事に成功した義元殿は兵を下げた。

 岩崎城は接収して城番を置き、丹羽-氏勝は藤島城へ移された。

 笠寺で抵抗していた戸部-政直は義元の養女を娶り、今川準一門に取り立てられて大高城を移った。今は大高城の奪還を狙う水野忠守の相手をしている。

 山口-教継の笠寺支配も盤石になった。

 いろいろ準備していた工作がすべて薙ぎ払われた。

 義元殿の出陣で東尾張の支配は盤石となり、織田弾正忠家は再び二つに割られた。

 だが、義元殿が帰ると、季忠様、定季師匠の逆襲がはじまる。


「魯坊丸様の策は見事に嵌りましたな」

「季忠様。私の策ではなく、定季師匠の策でございます」

「某は雪斎和尚が義元殿を引き留めた理由を聞いただけです。答えたのは魯坊丸様です」

「さくらが足利一門の棟梁である公方様の命を、足利一門の今川家が破っては世も末ですと嘆いたからです」

「同じように嘆いている者は他にいるかと、魯坊丸様が問われたからです」

「楓が植田城の横地(よこち)-秀重(ひでしげ)殿も嘆いていたと教えてくれました。他にも三河には幕府の幕臣が領主をしており、今川に不満を持っていると教えてくれたからです」

「横地殿は遠江の領主でしたが、公方様の命で植田に移りました。幕府への忠誠心が厚い方です。三河武士は幕府の領地を預かっている者が多い。足利一門の今川家に従うのも致し方ないと考えておりました。義元殿は公方様の顔に泥を塗ったのです。怒るのも当然です」

「定季師匠は私に聞かずとも宜しいのではないですか」

「某が策を考えても誰も動いてくれません。魯坊丸様の策である事が肝要なのです。現に魯坊丸様の侍女殿が熱田商人の説得に成功したでしょう」

 

 遠江の残党や反今川を思う三河武士を焚き付けるには銭が要った。

 銭があれば兵を養え、兵があれば勢いが付く。

 勢いがあれば、同じ反今川を感じる領主の支援を受けて大きな力をなり、遠江と三河で内乱が勃発した。

 その銭を調達してくれたのが紅葉である。

 公方様を裏切る義元殿が熱田の支配者となれば、商売ができなくなる。あるいは、骨の髄まで矢銭を搾り取られると脅して、商人らから融資を引き出してくれた。

 銭は父上の通り名で流れた。

 定季師匠に問われ、雪斎和尚が懸念した私の答えだ。

 義元殿は尾張にまかう時間が取れず、信長兄上は清須勢と対峙しながら今川家に寝返りそうな家を一つ一つ潰している。

 私はそろそろ本題を聞いた。


「わざわざ来られたのです。何かございましたか?」

好事魔多し(こうじまおおし)とでも申しますか。正月早々に清須を攻めた事を平手(ひらて)-久秀(ひさひで)殿が咎めますと。信長様は怒りに任せて罵倒されたのです」

平手(ひらて)-政秀(まさひで)様ではないのですか?」

「政秀殿は正月の挨拶で京に行っておりました。尾張の内情を説明し、義元殿の暴挙を抑えて貰えるように、朝廷と幕府に頼んでおります」

「政秀様が留守の間に信長兄上と平手家が揉めているのですか?」

「そうなります。今朝も久秀殿の見事な馬を信長様が所望されたが、久秀殿が断ったと。それをお怒りになった信長様が久秀殿の謀反を疑われていると噂が流れてきました」

「筆頭家老の(はやし)-秀貞(ひでさだ)様は止めないのですか?

「林-秀貞殿は沖村城(おきむら)から動けずにおります」

 

 紅葉が後ろから沖村城の位置を教えてくれた。

 清須城に近く、沖村城から南西一里 (四キロ)の所らしい。正月早々に戦を仕掛け、清須に兵が集まっているので、秀貞殿が城から動けないそうだ。

 そこで仁平太が発言を求めたので許した。


「確証はございません。しかし、那古野付近に藤林の者が徘徊しておりました。噂を流し、織田様と平手様の離間を狙っているのではないでしょうか」

「藤林とは誰だ」

「伊賀の藤林でございます。今川様は藤林の棟梁である長門守を雇っております。藤林周辺の伊賀者二百人が駿河に向かったと聞いております」

「伊賀者も二百人も召し抱えているのか?」

「行商人、馬売り、小者として雇われて、あることないことを吹き込み、主との仲を割く策がございます」

「つまり、信長兄上には久秀殿が罵詈雑言を吐いていると伝え、久秀殿には信長兄上が始末しよう考えていると流布しているのか」

「おそらく。ただ噂を信じるかどうか」

「さくら、確かめてこい」

 

 さくらが「はい」と答えて飛び出していった。

 相談の本題は中途半端に中断され、さくらが戻ってくるまで、次に内乱を起こす算段を始めた。

私の手の者は六人のみだ。義元殿のように二百人もいない。

 足りない手は、神社の神人や熱田商人の手を借りる。

 銭と父上の官名である“三河守”と書かれた手紙を渡すだけだ。

 公方様を助ける為に立ち上がって欲しいと綴る。

 さくらが戻ってきた。


「政秀様。平手一族の怒りを静める為に割腹されて、一族をお止めになりました」

 

 私の目は点になった。

 織田家の取次を一手に請け負っていた信長兄上を支える重臣の死に驚く。

 定季師匠が声を荒げた。


「くそぉ! 政秀様、潔過ぎますぞ」

「師匠。潔いとはどういう意味ですか?」

「魯坊丸様、一つ隠していた事を謝罪させて頂きます。魯坊丸様の師事を頼まれたのは、政秀様でございます。信長様の将来の片腕を育てて欲しいと頼まれました」

「政秀様が……会った事もございません」

「会わずとも判ります。しかも政秀様は六十を越え、老い先短い命でございます。信長様が尾張を背負う頃には生きておりません」

「それで将来の片腕ですか」

「義元の策に乗り、自ら命を絶てば、一年、半年でも尾張から目を逸らさせる事になります」

「長くても一年ですか?」

「その一年が重要なのでしょう」

 

 今、義元殿が大軍で尾張を攻めてくれば、織田弾正忠家は滅びる。

 熱田、末森、那古野は火の海に包まれる。

 だがしかし、今川家もタダでは済まない。空になった遠江と三河で叛乱者が城を襲い、駿河・遠江・三河も荒れる。

 今川家は尾張に兵を残せず、手に入れた尾張を放棄する。

 勝幡の信実叔父上が台頭し、織田弾正忠家を再建すれば振り出しに戻り、美濃の斎藤-利政殿が漁夫の利を得れば、美濃と尾張を制した大大名の誕生となる。

 そんな事態を義元殿も見たくない。だから、信長兄上の片腕を暗殺に近い形で奪いにきた。

 政秀様は自らの腹一つで家中の分裂を鎮めた。

そして、信長兄上に尾張をまとめる時間を稼いだのか。

勿体ないくらいの忠臣と思えた。 

信長兄上は政秀様の枕元で泣き崩れたと聞こえてきた。

 

【この物語では】

平手政秀の死によって、信長は尾張を手に入れる時間を手に入れます。

しかし、魯坊丸の暗躍が平手政秀の死に繋がったと知った信長はどう思うでしょう。

政秀から勝手に信長の将来を託さされた魯坊丸。

魯坊丸の謀略が政秀の死を呼んだ原因と知った信長。

二人は協力関係を築いてゆきますが、小さな亀裂はここから始まっていました。


 ■植田城

文明3年(1471年)に室町将軍足利義政の命により、遠江国横地城主の横地秀綱が尾張国へ移住し築いた。後に織田家に仕えている。

5代秀政の弟の秀次は分家し猪子石城を築いている。


猶、猪子石城は天正13年(1584年)以降に廃城になっており、尾張藩士の天野信景(1661~1733年)によって書かれた『尾張古城志』に記載されていない。

『尾張古城志』には、植田城跡、嶋田城跡、梅森城跡、赤池城跡、平針城跡、浅田城跡、岩崎城跡、高鍼たかばり城跡、下社城跡、上社城跡、長久手城跡、岩作城跡などが記載されている。

それぞれの大きさは、猪子石城(3000坪)、岩崎城(8500坪)、末森城(8000坪)、鳴海城(1840坪)、沓掛城(1364坪)、荒子城(1064坪)となっており、岩崎城や末森城に及ばないが、猪子石城はかなり大きな城であった。

この猪子石城の成立が、およそ1550年以降なので、天文21年(1552年)の城主を4代横地秀重と推測する。



植田城主 初代横地秀綱(1475年没)・・4代秀重、5代秀政(弟に秀次)


■高針城

この地に勢力を持っていた土豪・加藤勘三郎信祥のぶよし のぶあきの築城といわれるお城であり、【尾張徇行記】『この寺の城主加藤勘三郎信祥 高二千二百石を領す』とある。

室町時代前半に加藤勘三郎の居城であり、加藤氏は代々「勘三郎」を世襲している。

一説によれば、加藤勘三郎信祥は織田信忠に仕えており、本能寺の変後、信忠を訪ねて京に出向き、そのまま行方不明になったという話も伝わっています。

なお、その支城である下社城主が柴田勝義(勝家の父?)であったという説もあります。


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