プロローグ
大河ドラマ風、知識チートなしの信照伝です。
のんびりと書いてゆきます。
慶長15年(1610年)、徳川四天王と呼ばれた本多-忠勝が死去した。将軍徳川-秀忠に動向して倒れた。そして、もう一つの居城である桑名で息を引き取った。
その知らせは上総国の大多喜城に届き、忠勝の子、忠政の元へ届けられた。そして、信照の孫が隠居したが忠政の後見人である信照の元へ走った。
信照は名を中根-平右衛門-忠実と改め、知行三千石 (家康から一千石、忠勝から二千石)を頂いて大多喜城の家老職を務めた後に隠居していた。
「爺様、大変でございます。御隠居様が身罷られました」
「騒ぐな。鯉が驚いているであろう」
「鯉に餌を与えている場合ではありません。登城の御仕度を」
「登城はせぬ」
「爺様は隠居されて身を引かれましたが、忠政様の後見人は続いております」
「城には行かん」
信照はそういうと、鯉の餌やりを終えて部屋に上がり、驚いた孫も追い掛けた。
部屋に入ると、侍女がてばやくお茶を用意し、信照はそれを啜った。
「爺様、城に上がらぬとはどういう意味でございますか」
「今宵、儂は忠勝様を追って『追い腹』を切って死亡する。其方は朝一で城に使者を送り、昼前に家族・家臣を伴って、河川敷で棺桶を焼いて見送れ」
「爺様は忠勝様を追い掛けるのでございますか」
「うむ。そういう事にしておけ」
信照が「そういう事にしておけ」というと、孫の頭の上に『?』(クエッションマーク)がいくつも浮かび上がる。
「儂の孫と思えぬほど、察しが悪いのぉ。嫁の本多の血が入り過ぎて、頭まで筋肉になっておるのではないか」
「爺様、詳しく教えて下され」
「本多家の家臣は脳筋が多い。殿を追って『追い腹』をかっさばく馬鹿が出る。儂がだけが残れば、どうせ死ぬ事になる。先に死んだ事にした方がよいだ」
「確かに、爺様の御仲間方々様なら『追い腹』を召されるような気がします」
「儂一人が残っても気まずいだけだ。其方等がな」
「お気遣いありがとうございます」
信照は頭を下げる孫を見てうんざりする。
建前だけを聞いて納得する単純な孫を見て心配しか起こらない。
気まずいなど方便の一つに過ぎない。
「儂は元の名を知っておるか?」
「織田-信照と聞いておりますが……詳しくは存じません」
「織田-信秀の十男、信長の弟となる。天下人豊臣-秀吉の主だ」
「太閤様の主ですか」
「儂は生き延びる為に秀吉の間者になる話を持ち掛けた。秀吉もそれに納得して、儂を徳川へ送った。忠勝は儂の目付だ。目付が死んで、儂が本多家で一番影響力がある者となった。老い先短い家康は……」
「爺様⁉ 家康ではありません。大御所様です」
「そうであった。『関ヶ原の戦い』に勝利して徳川家は盤石である。しかし、その豊臣家と結んで土台を食い潰すと、盲進に耽るほど大御所様は気弱になっておる。儂が生きていて碌な目に遭わん。死んだ事にする方が良いのだ」
「爺様は大御所様と仲が良いと思っておりました」
「仲は良いぞ。甲斐武田-信玄を相手に手を取り合って対峙した戦友だ。だが、大御所として徳川家を盤石にする為に友を殺す事を厭わぬ奴だ」
「平気で友を殺すなど、大御所様に無礼でございます」
「甘い。天下人を目指した瞬間から人の業など捨てねば、天下は取れんぞ。儂は天下など求めておらんから人の業を残しているが、天下人となった者と付き合う術は学んでおる」
「それが『追い腹』でございますか」
「儂が死む。そして、一介の僧になれば、本多家に影響力を失う。御御所様の目に止まらぬ。大御所様も忙しいので、儂の事など忘れてくれると願いたい」
「そうなのですか?」
まったく判っていない孫を見て、信照が苛立った。
大御所である家康は戦国の世を生き残り、天下を奪う野心を持っている。
一方、信照は城に仕事もせずに引き籠もりたい。戦国ニートという珍しい武将であった。
怠惰な武将は淘汰されて生き残る事ができない。しかし、織田家という名と知恵を使って、信照は戦国の世を生き延びた勇者であった。
家康にとって信照の知恵は有用だった。しかし、天下を取った今となって、考えが理解できない遺物の信照は危険な立場であった。
虫けらを潰すように中根家を潰しておきたいと家康が考えかねないと信照は考えた。
律儀な忠勝が亡くなり、信照を擁護する者はいなくなった。
難癖を付けられる前に死んだ事にして、中根家の家族や家臣を守りたい。
そんな思いで身代わりの死体に腹を切って死んだように見せかける。
それでも気弱になった家康が信照の存在が気になったとしても、廃寺に住む破戒僧が刺客に殺されるだけで済む。
少なくとも家族や家臣を守れる。
だがしかし、信照は家族や家臣の為と言って死にたくない。
やっと屋敷に籠もって、書物を読みふけるだけの自堕落なニート生活を手に入れたばかりだ。
残り少ない人生を望みの儘に過ごしたい欲望があった。
『追い腹』という行為で家康に祈りを送り、淡い望みを託した。
そんな信照の気も知らず、のほほんとする孫が心配になった。
「身代わりの死体が届くまで時間がある。儂は信照の名を捨てるまでの半生を語ってやる。何か思う事があれば、糧とせよ」
そう言うと、信照は自分の半生を語り出した。
信照から見た信長像とその後の話です。
織田信照と中根忠実が同一人物という点で、資料が乏しく断定できません。
しかし、沓掛城の領主となった後からピタリと存在が消え、中根忠実が本多忠勝の元で活躍します。織田信照の妻が本多忠勝の妹という文献は残っていませんが、そう伝わっています。
なお、明智光秀と天海坊のような年齢の不備もありません。
つまり、状況証拠なら十分あり得るが、証拠がないというのが現状です。
歴史には、ファンタジーが一杯です。