episode3
5月のこと。
夜の公園で梨々香が少し照れくさそうに蘭に言った。
「今週末、テニスの試合があるの。もし時間があったら見に来て欲しいな。」
蘭は少し考え込み素っ気なく返事をした。
「時間があったらね。」
その言葉に梨々香はちょっと肩を落としてしまうが、すぐに笑顔を取り戻した。
それを見て蘭は少し心が揺れる。
やっぱり少し反応が冷たすぎたかなと感じるが言ったことを取り消すわけにもいかない。
「じゃあ、考えておいてね。」
梨々香は明るく言ってその場を離れていく。
蘭はその笑顔が少し気になり、心の中で自分の反応を少し後悔していた。
試合当日。蘭はやっぱり梨々香の試合を見に行くことにした。
最初は面倒だと思っていたが試合だが始まるとテニスの試合に自分の思っていた以上に引き込まれていった。
梨々香はシングルには出ないらしく午前中の試合が終わる。
そして、待ちに待った梨々香の試合。
ダブルスにて麗との息の合った連携でどんどん点数を取っていった。
蘭は梨々香の無駄のないしなやかな動きに梨々香のことを改めて見直した。
いつもの梨々香が持つ温かさだけでなく勝負の世界でもしっかりとした芯を持っていることを初めて感じ取った。
試合が終わった後、梨々香は麗と楽しそうに談笑している。
さらに、そこに同級生が梨々香に近づき、タオルを差し出したり、お菓子を手渡したりする場面が続いた。
梨々香はその度に優しく微笑んで受け取る。
どれもこれも当たり前のように、周囲の人たちに気配りを忘れずに。
その一つ一つの微笑みに、蘭はなぜか胸がざわつくのを感じた。
こんなにも多くの人に好かれる梨々香をどこか遠くで見守ることしかできない自分が少し悔しいような気持ちになった。
「どうして、あんなにも…みんなに優しいんだろう。」
その瞬間、蘭は自分でも驚くほど梨々香に対する想いが深いことを実感した。
試合がすべて終わり、会場が徐々に落ち着きを取り戻す頃。観客席の隅で静かに佇んでいた蘭に、ひときわ明るい声が届いた。
「蘭!」
汗で前髪を額に張りつかせたまま、梨々香が駆け寄ってくる。眩しいほどの笑顔を浮かべて。
「来てくれたんだ!ありがとう、すごく嬉しい!」
少し戸惑いながらも、蘭は手にしていた袋を差し出した。
「…これ、差し入れ。チョコクッキー、好きって言っていたでしょう?」
「え!本当だ!ありがとう、嬉しい!」
梨々香は目を細めて喜んでくれたが、その反応は他の同級生からお菓子をもらったときと何も変わらないように感じられた。
――同じだ。私だけじゃない。
ほんの少しでも、「あなたに来てほしかった」と言ってくれるのではないか、そんな期待をしていた自分を蘭は心の中で嗤った。
…自惚れていた。特別なのは、自分の気持ちだけだった。
そのとき、遠くから声がかかる。
「梨々香ー!はやく!コーチが呼んでる!」
麗が手を振っている。
梨々香が「あっ」と声を上げてそちらを向くと、一瞬で表情が和らいだ。
「ごめんね、蘭。また後で!」
梨々香は軽やかに駆け出し、麗のもとへ向かう。
その背を見送りながら、蘭は胸の奥に棘のようなものを感じていた。
――今の顔、私には見せたことない。
麗に向ける、あの無防備で信頼しきった微笑み。
まだ出会って数か月もしないのに蘭は梨々香に引き込まれて行っていた。
蘭は知らず、拳を強く握りしめていた。
どうしようもない嫉妬が、胸をじんわりと焦がしていくのだった。
その夜。ダンスノートに今日の試合で感じたことを書き留めていた蘭のスマホが震えた。
《今日は来てくれてありがとう。蘭に見てもらえて嬉しかったよ。》
梨々香からのLINEだった。
一瞬、胸が温かくなりかけたが、すぐに蘭はその感情に蓋をした。
――どうせ、他の子にも同じメッセージを送っているんでしょう。
冷めた気持ちのまま、短く返信する。
《お疲れさま。すごくいい試合だった》
それ以上は書けなかった。書こうと思えば書けたはずの言葉が、指先に届く前に溶けて消えていく。
次の日の放課後。教室を出た蘭はいつものように公園へ向かおうとした。
しかし、その足がふと止まる。
「…あ、買い物頼まれてたんだった。」
思い出したように呟いたが本当は言い訳だったのかもしれない。
公園で踊れば、梨々香を思い出してしまう。昨日の、観客の一人としての自分――何でもない“誰か”だった自分のことを。
荷物を持ち直してそのまま家路を選ぶ。
その翌日も、そのまた翌日も、蘭は公園に立ち寄らなかった。
時間はあったのに、心だけがどうしても動かなかった。
ダンスが自分を救ってくれるはずだったのに。
ベッドに寝転びながら天井を見つめた蘭は胸の中に溜まった澱のような感情に名前をつけられずにいた。