episode10
夕暮れに染まる夏祭りの会場。
屋台の明かりが灯り始め、浴衣姿の人々が賑やかに行き交う中、蘭はひとり境内近くの少し静かな場所に佇んでいた。
深い藍色に桜の刺繍が施された浴衣。
蘭にとっては滅多に着ない服装だが梨々香と過ごすこの夜のために少しだけ勇気を出して選んだ一着だった。
(遅いな、梨々香……部活、長引いたのかな)
そう思ってスマホを確認しようとしたそのとき――
「あ、蘭先輩……!」
不意に背後から声がかかる。振り向けばそこには松野あかりがいた。
白地に淡い水色の浴衣をまといにこにこと笑っている。
「あかり……どうしてここに」
「夏祭り、あかりと回りませんか?あかりは蘭先輩と回りたいです」
あかりの瞳は期待に満ちていた。
蘭が梨々香と来ることは分かっている。それでも、それを壊してでも一緒にいたい――そんな執念が微かに滲んでいた。
「……梨々香が来るまでここで待ってる。だから、私は――」
「梨々香先輩、どうせ来ないんじゃないですか?
あかりが学校出る時梨々香先輩体操着から着替えてもいませんでしたよ。
…どうせ来ないんですしあかりと一緒に回ればいいじゃないですか」
食い下がるように言うあかりに蘭は静かに首を振った。
「……行かない。私は梨々香と来たの。誰が何を言っても変わらない」
「……ふーん」
あかりは、わずかに顔をしかめそして目を細めた。
「だったら……2人が付き合ってるって、言いふらしちゃおうかな。それでもいいんですか?」
それでも蘭の表情は崩れなかった。
心はもう決まっていた。
「好きなだけ言えばいい。私は……梨々香のこと、ちゃんと守る。
――だから、あかり。これ以上、私たちに近づかないで」
その言葉に、あかりの笑顔は完全に消えた。
「……つまんないの」
ぽつりと呟くと、あかりは振り返り、夏の闇に溶け込むように去っていった。
その背中に、蘭は何も言わずにただ静かに目を伏せた。
――そして。
そのあかりの気配が完全に消えた頃。
「蘭っ!」
その声と同時に鈴の音が鳴ったような気がした。
振り返ると、浴衣姿の梨々香が、息を切らしながらこちらへ走ってくる。
薄桃色に桜の模様、帯には優しい白。髪は緩くまとめられ、ひと房だけこぼれた髪が揺れている。
蘭の息が、一瞬止まった。
誰にも見せたくない――そう思ってしまうほど、梨々香は、綺麗だった。
「遅れて……ごめん、部活長引いちゃって。でも、待っててくれてありがとう」
笑顔を浮かべる梨々香に、蘭はそっと手を差し出した。
「来てくれて……ありがとう。すごく嬉しい」
その手を取った梨々香の頬が、照明に照らされて紅く染まった。
そしてふたりはようやく一緒に夏祭りを歩き出した。
――絆が、またひとつ深まった夜だった。
「見て、蘭。あれ、りんご飴……!」
梨々香が屋台の明かりの中、嬉しそうに指を差す。
浴衣の袖を揺らしながら小走りで駆け寄るその姿に、蘭は自然と微笑んだ。
「りんご飴、好き?」
「うん。小さいころ、お祭りのときだけ食べさせてもらえたの。特別って感じがして」
そう言って、梨々香はりんご飴を買い求め、満足そうに頬を緩める。
蘭はそんな彼女を見つめるだけで幸せだった。
たこ焼き、かき氷、射的……
夏の夜の熱気とざわめきの中2人はふわふわとした夢のような時間を過ごしていた。
そんな中、不意に背後から、冷たい声が飛んだ。
「ずいぶんと楽しそうね、織谷さん」
振り返れば、そこに立っていたのは田中先輩だった。
学校では常に冷静で厳しさと威圧感を漂わせる先輩。
浴衣姿の梨々香を見るその目は、明らかに冷たかった。
「麗は今も部活の準備をしているっていうのに。
副キャプテンであるあなたはこうしてのんびりお祭り……いいご身分ね?」
梨々香は怯むように微笑み愛想笑いを浮かべた。
「麗にはちゃんと謝ってから来ました。明日は早めに行って、調整も――」
「……言い訳しないで」
田中先輩の言葉が、ピシャリと遮る。
「昔からあなたってそう。誰にでも優しくして、波風立てないふりして……
でも、結局は自分が可愛いだけじゃない」
梨々香の手に握られたりんご飴の棒が少しだけ震える。
「――やめてくれませんか」
不意に、低くよく通る声が割って入った。
田中先輩が顔をしかめてそちらを見ると蘭が梨々香の隣に立っていた。
瞳は鋭く、しかしその声には静かな怒りが滲んでいた。
「梨々香は誰よりも努力してる。全部見てない人に偉そうに言われたくない」
「……あなた、確か一条さん?」
田中先輩は不快そうに顔をしかめた。
「ダンス部にも入らず勝手な練習してるって話。自分勝手なあなたに織谷さんの何が分かるのかしら?」
蘭は表情を変えず、ただ一言返した。
「私は、ちゃんと見てる。梨々香がどんなふうに頑張って誰の前でも笑ってるか」
しんとした空気の中、田中先輩の唇がわずかに歪んだ。
「……ああ、思い出した。あなたたちシンデレラコンビね?」
鼻で笑い、田中先輩は2人を見下ろすようにして言い放った。
「似合いの偽善者同士、お幸せに」
そのまま、踵を返して人ごみに消えていった。
梨々香の手が、胸元をぎゅっと掴む。
「ごめん、蘭……私、言われっぱなしで……」
「謝らないで。……私がいるから」
蘭はそう言って、そっと梨々香の手を握った。
熱い夏の夜に、2人の手のひらだけが静かに温もりを分け合っていた。




