episode1
放課後のテニスコート。夏の名残を残した風がネットを揺らし、ボールの打球音が静かに響く中、部活動の終礼が始まった。
「今日もお疲れ様。じゃあ、副キャプテンから一言、ある?」
田中美沙――テニス部の元キャプテンであり、現在は三年のOBとして練習に顔を出している――が、静かな口調で梨々香を見た。
艶のある黒髪を低めに結び鋭い目元に品のあるメガネをかけたその姿は一見すると完璧で冷静な先輩そのものだ。
梨々香は一歩前に出ると部員たちを見回して丁寧に言葉を選んだ。
「皆さん、今日もお疲れ様でした。もうすぐ大会なので一緒に高め合っていけたら嬉しいです。
よろしくお願いします」
「……ずいぶん薄い言葉ね。なんであなたが副キャプテンなのかしら」
その一言に、コートの空気がぴんと張り詰めた。
「田中先輩……?」
驚いたように梨々香が小さく呼ぶと、田中は冷ややかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「何かある? それとも図星だった?」
「……いえ、そんなことは」
梨々香は困ったような笑顔で小さく頭を下げた。だが、端から見ていた麗の目が鋭く光った。
(今のは、完全に悪意ある言い方だよね……。でも、どうして梨々香にだけ?)
この数日田中は部活に顔を出すたびに梨々香にだけ厳しく、冷たかった。
言葉尻をとらえては皮肉を言い、梨々香の提案には難癖をつける。
キャプテンである麗に対しては礼儀正しく振る舞っているのに。
その疑問は、翌日ふとした瞬間に氷解する。
「田中先輩って、去年、他校の男子校の人に告白して振られたらしいよ。しかも、その相手って……」
麗の耳に入ったのは、ある生徒の何気ない会話だった。
「織谷先輩のことが好きだったらしくて、振ったんだって。『梨々香に片想いしてる』って言って」
衝撃が走った。
(まさか……)
麗は教室の窓の外に目を向ける。グラウンドで笑顔を見せている梨々香は誰にも分け隔てなく優しく、努力家で、人を惹きつける輝きを持っている。
田中先輩の態度は――失恋の嫉妬だったのだ。
(だからって、梨々香にあんな言い方をするのは……でも、悔しかったんだろうな。気持ち、分かるよ)
麗はそっとため息を吐いた。だが心の奥に少しだけ棘が刺さる。
(私も、梨々香のことが好きだったから)
それでも今は、梨々香を守ると決めた。
キャプテンとして、そして――親友として。
「織谷さん、昨日の練習メニュー、全体のペースを把握していなかったわよね? 副キャプテンとしては、ちょっと意識が低いんじゃないかしら」
中庭のベンチ横、練習後の確認と称して梨々香を呼び止めた田中美沙の声が、夕方の冷えた空気に鋭く響いた。
「……すみません、次からはきちんと確認します」
梨々香は小さく会釈しながら、落ち着いた声でそう答える。表情には謝罪の色も浮かぶが、どこか焦ったような様子が見え隠れしていた。
(蘭が……もうすぐ、あの公園から帰ってしまう)
一秒でも早くそばに行きたかった。久しぶりに会える約束の時間がもうすぐ迫っている。
だが田中は、それに気づくはずもなかった。
「あと、この間の部内会議。織谷さん、先輩が話してる最中に少し上の空だったんじゃない? 集中力が足りないって、三年生の中でも話題になってるのよ」
「……申し訳ありません。気をつけます」
語調も強めず、あくまで丁寧に。けれど、それ以上でもそれ以下でもない、まるで「早く終わらせたい」と言わんばかりの梨々香の態度に田中の表情が次第に陰り始める。
(なによその顔……。前みたいに、もっと私にちゃんと向き合ってたじゃない。どうしてそんな、他人行儀な目をするの……?)
「そんなに急いでるの? これ以上話すと迷惑、って顔してるわよね、織谷さん」
梨々香ははっとして、顔を上げた。
「そんなつもりは……」
「あるわよ。私には分かる。あんたは最近ずっと、私の話をまともに聞いてない」
(でも、今は……)
胸の奥に小さな罪悪感が広がる。だがその隣に、どうしても消せない想いがあった。
蘭に会いたい。
あの場所で、少しでも一緒にいられたら。
少しでも、あの微笑みに触れられたら。
そんな気持ちが梨々香の言葉をどんどん素っ気なくしていく。
「……もういいわ。私だって、暇じゃないの」
田中は冷たい視線を残して、足早にその場を離れた。
背中を見送りながら、梨々香はそっと唇を噛む。
(これ以上、こじれませんように……)
でもその祈りとは裏腹に、田中の心にはもう抑えきれない苛立ちと嫉妬が渦巻いていた。




