episode17
「失礼します」
突然、静かに開いた保健室のドア。
その先に立っていたのは、一条蘭の母だった。
すっと部屋に入り、蘭の名を呼ぶことなく無言で蘭の前に立つ。
「どういうつもりなの、蘭。あなた、私に何て言ってた?」
「……文化祭の準備で少しだけ、って」
「それが“王子様役”で“ダンス”だなんてずいぶん“大嘘”ね」
蘭の母の声は冷たくけれどどこか震えていた。
蘭は俯き、唇を噛んで何も言わない。
「あなたは忘れたの? あなたの兄さんが――ダンスのせいでどうなったか。
あれ以来、歩くことすらできなくなって……。
それでも、まだあなたは同じ舞台に立つの?」
その瞬間、蘭の母の目がベッドに座る梨々香へと向いた。
車椅子に座る梨々香。
それが、蘭の兄の姿と重なったのだろう。
蘭の母の表情は歪み、声が一層鋭くなる。
「その子のそばで踊っていたなんて……まるで、あの時の……!
蘭、どうして、あなたまで――!」
「やめて!」
蘭が、はっきりと声を上げた。
それは、これまで見せたことのない蘭の強い拒絶の声だった。
「私は……私のダンスを……シンデレラのために踊ったの。
兄さんのことは忘れてない。忘れてないけど……
私は、踊ることであのときと違う未来をつくりたいって思った。
あのとき助けられなかった誰かを……今、目の前にいる人を……
支えられるようなダンスをしたかったの…!」
蘭の肩は震えていた。
その手は、梨々香の車椅子の取っ手を、ぎゅっと掴んでいた。
蘭の母は何も言わず、その場に立ち尽くす。
その沈黙のなか、梨々香はそっと蘭の袖を握った。
蘭の母の目に、それはまるでかつての兄と同じ光景に見えただろう。
けれど――そこにあるのは、もう過去ではなく、これからの物語だった。
保健室には、しばらく静寂が流れていた。
蘭の母は、蘭の目をじっと見つめたまま、しばしの沈黙の後ため息を一つついた。
「……あの子と、同じ目をしてるわ」
ぽつりと、まるで独り言のようにそう言ったその声には僅かに熱がこもっていた。
蘭は、動かずその言葉を受け止めた。
「でも、蘭。――あなたは、お父さんの会社を継ぐの。
それが、私と……あなたの約束だから。踊ることが悪いとは言わない。けれど、夢と現実は違う。忘れないで」
それだけ言うと、蘭の母は静かに踵を返し扉を開けて去っていった。
その背中は、どこか寂しげで――それでも、背筋はまっすぐだった。
蘭は扉の閉まる音を聞き終えてからそっと息を吐いた。
「……ごめんね、梨々香。驚かせちゃって」
梨々香は、何も言えなかった。
ベッドの端で、膝に置いた手が震えていた。
蘭が、自分のために母に声を荒らげた。
それなのに――自分は蘭の母に、何一つ言えなかった。
叱られても、否定されても、あんなふうにきっぱり言い返すことなんて……自分にはできなかった。
(蘭は……本当に、強い)
そう思った瞬間、胸の奥にちくりと痛みが走った。
蘭は、静かに梨々香の顔を覗き込んだ。
その瞳は、すこしだけ曇っていて――それがなにに傷ついているのか、蘭にはすぐにわかった。
だから、何も聞かずに、そっと車椅子の取っ手に手をかける。
「……梨々香、そろそろ行こうか。教室でみんながシンデレラを待ってるよ」
優しい声だった。
気を遣うようでいて、逃げ道を残すような、あたたかい音だった。
梨々香は、はっと顔を上げた。
「……うん」
そう答えた声はかすれていたけれどたしかに笑っていた。
蘭は、なにも言わずに頷いてゆっくりと車椅子を押し出した。
保健室のカーテンが揺れ、廊下から差し込む光の中にふたりの影が伸びていく。
その影は――ぴたりと寄り添っていた。




