episode15
舞台本番 ―― 蘭視点
(……始まる)
緞帳が上がる直前、蘭は舞台袖からそっと麗の背中を見た。
その姿に、かつての棘はもうなかった。
今、ふたりの間にあるのは、ただ――梨々香のために、という共通の想いだけ。
「――行きましょう。横浜さん」
「ええ。一条さん」
お互いの視線が、ほんの一瞬重なる。
合図のベルとともに、緞帳が静かに上がった。
――舞台が始まった。
蘭の動きに迷いはなかった。
リハーサルで繰り返した動きも、台詞も、すべてが呼吸のように自然に流れた。
けれど――
舞踏会のシーンで蘭が大きくターンをして振り返ったその瞬間だった。
舞台袖、客席の奥。
ふと視界の端に見知った横顔を見つけた。
(梨々香……?)
カーテンの隙間から覗くようにして見ていた、車椅子の少女。
あの雨の日と同じ制服。
小さく見開いた目が、まっすぐに自分を見ていた。
蘭の中で何かがざわめいた。
胸の奥にしまっていた熱が、不意にこぼれ落ちそうになる。
けれど――
(……見てくれてる。私の、踊りを)
梨々香の瞳が、確かに蘭だけを映していた。
それだけでいい。
それだけで、今は十分だった。
蘭は表情を引き締め、視線を舞台上に戻す。
麗もまた台詞と動きに集中していた。
ふたりの間には緊張感と共に、不思議な調和があった。
――やがて、クライマックス。
呪いに倒れたシンデレラを前に王子様がただ一人踊る場面。
(これは、私のダンス)
“誰かのために踊る”という、かつて蘭が苦しんだ言葉。
けれど今、蘭は初めてその意味を自分のものとして受け入れられた。
(私は梨々香のためにこの踊りを踊る)
梨々香のためだけに、舞台の上で心を解き放つ。
音楽がクレッシェンドを迎え蘭の最後のターンが決まった瞬間、客席の空気が震えた。
そして――
王子様がシンデレラへと身をかがめる。
キスのフリ。
ほんの数センチの距離で止めた唇。
蘭はその一瞬だけ本気で迷ったリハーサルを思い出す。
(……本当にキスしてしまおうか)
けれど、今は違う。
蘭の想いは舞台の上で踊ることですべて伝えた。
それで十分だった。
ふたりの影が静かに重なり、音楽が終わりを告げた。
観客の息を飲む気配を感じながら、幕が下りていく。
蘭と麗、そして――梨々香。
それぞれの胸に、熱く確かなものを残して。
舞台は、完璧だった。
舞台袖の暗がりから、梨々香はじっと舞台を見つめていた。
車椅子に座ったまま、その手は膝の上でぎゅっと握られている。
指先が白くなるほどに、力が入っていた。
(……すごい……)
気がつけば息をするのも忘れていた。
――蘭と麗が演じるシンデレラの物語は、圧倒的だった。
蘭のダンスは、リハーサルよりもさらに磨かれていてまるで本当に舞踏会に舞い降りた王子様のようだった。
麗の演技も堂々としていて、声も動きも美しく、シンデレラそのものだった。
観客に麗が代役であることなど微塵も分からないだろう
観客が惹き込まれていくのが、肌で分かる。
けれど――
梨々香の胸は、なぜか、重くて、苦しかった。
(あそこにいたのは、私だったのに)
蘭が一人で踊るシーン。
“シンデレラのためだけに踊るダンス”――
あの振りを、何度もふたりきりで練習した。
遅くまで、汗をかきながら、音楽に心を重ねながら。
それなのに。
舞台の上の蘭は、まるで最初から麗のために踊っていたように見えた。
蘭の真っ直ぐな視線。
麗に向けられた優しい手。
そのすべてが、梨々香の胸に鋭く突き刺さる。
(どうして……どうして、そんなにぴったりなの?)
リハーサルでも見た、キスシーン。
舞台の照明に照らされたふたりのシルエットが、ゆっくりと重なる。
(……蘭の顔、近かった……)
あのとき、リハーサルで見せた蘭の表情が、ふと脳裏によみがえる。
柔らかくて、真剣で――思わず見惚れてしまった横顔。
その表情を、今、麗が間近で見ている。
(やだ……見ないで)
誰にも見せたくなかった。
自分だけが知っていると思っていた、蘭の一面だったのに。
(私……蘭のこと……)
劇はクライマックスを迎え、観客から大きな拍手が上がった。
幕が下りていく。
梨々香の胸には、拍手とは裏腹にどうしようもない嫉妬とそんな自分に対する憎悪が渦巻いていた。
蘭と麗の絆。
それは梨々香にとって、嬉しくもあり――
そして、痛かった。
(……こんな気持ち、どうしたらいいの?)
舞台の熱気の中で梨々香だけが静かに目を伏せた。




