2-2.神霊吸い取ると申します
胡音が屋敷に入ったのち、まず案内されたのは風呂だ。時期的には少し遅いが、かぐわしい菖蒲湯で身を清め、湯から上がったところで衣も取り替えることとなった。
(……なんで寸法わかってるんだろ)
紬の着物は青緑、帯は花柄の白いレェスがあしらわれたものだが、どれも体にぴったりである。用意された着物のことを少し疑問に思いつつ、白足袋に足を通した。着ていた衣服はたたんで隅に置いておく。
「こんなおしゃれするの、久しぶりかな」
髪もすでにかがりによって、いつものようにマガレイトに結い直してもらっている。黒髪に光るのは、琴子からもらった黄色の玉かんざしだ。
自らの装いを姿見で確認したとき、ふすま越しに声がかかる。
「お嬢さん、準備できましたかね」
「あっ、はい。えっと、ハツさん。着替え終わりました、お湯、ありがとうございます」
「ハイハイ、どういたしまして。それじゃあるじさまの元に向かいますよ」
ふすまを開けたハツは、ウサギの姿ではなく中年の女性だった。赤い瞳ははつらつとしたかがりのものとは違い、どこか眠たそうである。
彼女に先導されつつ、胡音は和室から洋館の方へと足を進めた。
「月黄泉さま、和室を使わないんですか?」
「いえいえ、使いますよ。ただあの方、目新しいものが好きなので。最近はもっぱら洋館の方にいたりします」
「へえ……そうなんですね」
勝手に寝殿造の方や和室を愛用していると考えていたが、事実とは異なるようだ。自分が想像する神々の住まい、暮らしをくつがえされたようであまりピンとこない。
思ううちに玄関近くの廊下を通り、応接室と思しき部屋の前へとたどり着いた。
「あるじさま、胡音お嬢さんを連れて来ました」
「ああ、入っていいよ」
ノックののちに返事が聞こえる。背筋を正す胡音に構わず、ハツは堂々と扉を開けた。
上げ下げできるであろう窓には、青を基調とした幻想的なステンドグラスがはめられている。草花模様の壁紙は生成り色をしており、天上からはスズランの形にも似た四灯式の電灯がつり下がっていた。
「座って、胡音」
微笑む月黄泉は洋装だ。白いシャツにスラックス、そして革靴と、装いで一気に雰囲気が変わることに胡音は驚く。和装だと、どこか冷たい空気をまとっていたように思うのだが、今の彼はどこか浮世離れした外の国のものに見えた。
「それじゃあたしはこれで。何かありましたら」
頭を下げるハツにつられ、胡音も同じく会釈してしまう。ドアが閉まり、いよいよ二人きりという事実に緊張が高まってきた。
「お茶を入れてあるから、さあ」
「は、はい」
月黄泉が座る肘掛け椅子の向かいを勧められ、小さい返答ののちにソファーへ腰かけてみる。堅いのか柔らかいのか、座り心地がいいのかすら、よくわからない。
「どこから話そうか。君は琴子から、禍ツ星神のことを聞いたことは?」
「いえ、知りません。でも神霊さまなんですよね?」
「それはおおむね正解だけれど……蓬生に伝わる『神禍』とは神霊に取り憑く業を祓い、なだめ、鎮めるための力。それはわかっているだろう?」
「琴子伯母さまから聞いてます。頭では理解してます」
「それでは、業とは一体なんなのかを話せるかな」
嗅いだことのない香りのお茶を飲む月黄泉に、胡音は小首をかしげた。
「えっと。人の負の感情や穢れ、現世の空気。そういうものに長く触れ続ければ、清らかなる神霊は荒神と化します。だからこの場合……業は、感情と穢れと、空気です」
「正解。では、神霊が完全に荒神となった際、『神禍』は効くと思うかい」
「……理性を失った場合は『神禍』で業を祓うことでしか助けられません。鎮めて元に戻っていただくためには、対話が必要だから、難しいはずです」
「そう、対話と理性。『神禍』にはこの二つが必要だ」
カチャリと音を立て、皿にカップを戻して彼は続ける。
「君の妹は対話をせずに、まだ良識ある神霊の業を無理やり祓おうとした。それは『神禍』の本来の使い方じゃあない」
「沙千乃さん、みんなのために頑張ってますけど……」
「無理をして祓った業、荒神として追われた神霊はどこに行くと思う?」
小さな反論を無視され、胡音は少し頬を膨らませた。
月黄泉にじっと見つめられ、慌てて視線を逸らしつつ首を横に振る。そこまでは詳しく知らない。教えてもらう前に伯母が死んでしまったためだ。
彼は目を伏せ、重々しく口を開いた。
「祓われた業。理性を失い荒神となった神霊。これら二つを吸い取るのが――禍ツ星神だ」
「す、吸い取る? 神霊さまが、他の神さまを?」
「ああ。だからこそ星神と私たちは相容れない。脅威だからね」
「それと、そんな神さまとわたしが、その……」
どんな関係が、と胡音はたずねようとして、声がかすれる。
「覚えていないのかな。十になった頃合いだったと思うけれど、君は星神と会っている」
真剣な眼差しで射貫かれ、目が自然とまたたいてしまった。
「星神さまと、ですか?」
昔から神霊の類いは見えなかったはず、と記憶をまさぐった途端だ。
――遊ぼ。
――いいよ。
「あ」
脳裏に二つの声が響いた刹那、体の奥底から何かがわき上がってきた。冷たく熱い、相反する不思議なものが。
意識を持っていかれそうになった直後、柏手が二度打たれる。
「戻っておいで、胡音」
柔らかい月黄泉の声に引かれるように、胡音の意識が元に戻った。
「……わ、わたし、今」
琴子の家の庭――固まった白い霧――約束。
おぼろげだが思い出してくる。幼い頃に訪問した伯母の家の庭隅で、陽の光から隠れるようにたゆたっていた白い霧。それは確かに「遊ぼう」と言った。琴子ではなく、自分に。
「あの白いの……どうして忘れていたんでしょう、わたし」
「それはね……」
心配そうにこちらを見つめていた月黄泉が、何かを察知したのか瞬時に立ち上がる。
「ど、どうしたんですか?」
「うつろいどもが来たようだ」
窓を見る月黄泉のおもては、いつの間にか三輝神の一柱にふさわしい、神々しいものに様変わりしていた。