1-3.無駄などないと申します
――伯母は美しく、厳しくも優しい人だった。
帝州の外れ、中海とザサイ山に囲まれた土地に居を構えていた琴子の容姿を、胡音は今でもはっきり思い出せる。
白髪交じりの茶髪を夜会巻きでしっかりくくり、着物はいつもおごそかな藍色のものを着用していた。濃い緑にも見える黒い瞳は、どんなときでも、しっかり自分を見つめてくれていた。
伯母の周囲には金色や銀、白い光がいつもまとわりついており、それらは神霊の加護だということを理解したのは胡音が小間使いになったあたり――十四のときである。
「いいですか、胡音さん。人に無駄な思いや力などありません」
それが琴子の口癖だった。
「伯母さま。わたしいつも、お父さまに『お前は無駄だ』って言われちゃってるよ」
「圭太郎は愚か者です。『神禍』が使えないからといって、胡音さん自体を否定することにはならないのですから」
幼いとき、頻繁に伯母の家へ招かれていた十歳ほどのころでは、胡音はただしょげながら反発するしかない。
実母の紀美恵が死んで、その後父はすぐに再婚した。今ならわかるが、そうしたのは蓬生家の力――『神禍』を絶やすまいとしていたからだろう。幼児期に芽生えるはずの力の前兆すら、胡音にはなかったのだから。
「でも、でもね。伯母さまの周りの光はわかるけど、他の気配は感じないし見えないんだ。やっぱり、お父さまの言うとおりでダメな子なんじゃないかなあ」
「自分で自分を否定してはなりません。いつかあなたの持つ思いや力が、きっと誰かのためになるでしょう」
柔らかく口角をつり上げる琴子は、そう言って頭をなでてくれた。
遠い日の思い出だ。圭太郎から、ゆいや沙千乃から庇ってくれた伯母は、もういない。さみしいと思うことや泣いて伏せることすら許されず、女中奉公の毎日を強要された。
「胡音」
(そうそう、伯母さまだけはこんなふうに優しく声を……)
「胡音、大丈夫かい」
(……あれ、声が少し太いなぁ)
刹那、胡音の目の前にいた伯母や圭太郎たちの姿が消える。
夢を見ていたのだと気づき、ハッとまぶたを開ければ、そこには。
「ああ、目が覚めたね」
「~~~っ!」
寝そべっていた自分をのぞきこむ美青年――月黄泉の顔が、ある。
白磁のような肌。薄くも形のよい唇。うっすらと弧を描いた銀色の瞳と、どれをとっても造形が美しい。
「ちっ……ち、ちっ」
「乳?」
「ち、近いです! 顔がっ」
真っ赤であるだろうおもてを背け、胡音は叫んだ。
「なんだ、ミルクセェキでも食べたいのかと思った」
「それ、なんですか……ってあれ?」
視線を逸らしたことで今いる場所がわかる。自室でも、屋敷でもない。
目の先にある蘇芳簾がわずかに揺れていた。飛び起きて周囲を見渡すと、どうやらここは牛車の中のようだ。
だが、振動は本当にかすかで、寝かされていたというのに節々の痛みもない。
すぐさま我に返り、座る月黄泉から距離をとって膝を正し、慌ててこうべを垂れた。
「介抱はありがたく存じます! でも近いです、顔っ」
「可愛らしい寝顔だったから、つい」
鈴の音のような声で笑う月黄泉に、胡音は縮こまった。
日頃の労働で焼けた肌は白くなく、手も荒れっぱなしだ。黒髪にも艶などない。黒い瞳は大きいといわれたこともあるが、それが褒め言葉だとは微塵にも思っていなかった。
いや、と浮いた首を横に振り、額を床につけ直して思う。
「確かわたし、月黄泉さまと会って、それで……」
「うん、気絶した。気を失うほど提案を喜んでくれるなんて嬉しいよ」
「……あのう、冗談です……よね?」
提案という単語に、おずおずとおもてを上げた。月黄泉は相変わらず愉快そうな笑みを浮かべ、胡音を見ている。
「何がかな」
「め、夫婦になってほしいだなんて。下働きとして雇う、ならまだわかりますけど」
「残念、女中ならもういるんだ。かがりともう一人」
「え、かがりちゃんが?」
「そう。琴子が死んでからすぐに、君の様子を探らせるため彼女を屋敷にやった」
「じゃあ、もしかして……お父さまに斬られそうになったところで来たのって」
目をまたたかせる胡音に、月黄泉は瞳を細め、うなずく。
「君のことは随時報告を受けていたよ。ずいぶんとひどい目に遭っていたようだね」
「あ、えっと、いいんです。もう慣れちゃってますし、力を使えないのが悪いですから」
胡音が手を振って笑えば、彼はどこか不機嫌そうなおもてを作った。
機嫌を悪くさせたかな、とますます胡音は怯えて肩を縮める。
神には主に二面の顔がある、とは胡音も知るところだ。慈悲深く優しい和魂と、荒ぶりと強靱を示す荒魂。ときに神社に祀られている名前の違う神霊が、同じ神を指し示すこともあったりする。
(月黄泉さまはどうなんだろ……)
月黄泉という神には謎が多い。農耕神ともいわれたり、あの世――黄泉比良坂を守る神だとされるものの、詳しくは不明だ。たまに海の荒緒神と同一視されることもあるが、圭太郎との会話で「弟」と呼んでいることから、別の神霊と考えた方がいいだろう。
そんなことをつらつらと思っていれば、月黄泉が「ふむ」と小首をかしげた。
「蓬生卿から暴力を振るわれることもあったと、かがりには聞いている。それでも君は自分が悪いと?」
「よ、蓬生家の女で力を使えないのは、歴代でわたしだけだったらしいです。仕方ないかなあって」
胡音の答えを聞いても、彼は何も言わなかった。ただこちらを見つめてくるだけだ。視線は柔らかいものだったが、どこか腹を探られている気がした。
月黄泉が何かを言おうとし、唇を再び開けた刹那。
「きゃああ!」
「ご乱心だ、神様が暴れてらっしゃるぞっ!」
外から大きい悲鳴が聞こえる。そして何かしらを破壊する破砕音も。
がたり、とはじめて大きく牛車が揺れた。
「な、何? 祟り神さま?」
「胡音、そのままで」
思わず腰を浮かした自分を手でとどめ、月黄泉は物見から外の様子をうかがう。
「ハツ、かがり。どのような状態だい」
「どうやら人の業を溜めてしまった神がおられるようですねぇ」
「見たところ、地元の川の神でらっしゃるかと」
一人は誰かわからないが、もう一人はかがりの声で間違いない。気になり、胡音も物見から外をのぞいてみた。
建物や小さな祠が破壊されている。人があちこちに逃げ惑い、その背中に水飛沫がかぶさっては、見えない手がそうするように、水中へと引きずりこもうとしていた。
もかみ川だ、と胡音は気づく。家からそう遠くない場所にある、少し大きめの川。
(どうしよう……わたしは『神禍』を使えないし、かがりちゃんたちが危ないよ)
ただ、唇を噛むことしかできない中、月黄泉に助力を求めようとしたときだ。
「川の荒神よ、鎮まりなさい」
逃げる人の波が割れ、その奥から一人の少女が現れる。
「おお、蓬生の鎮魂者だ!」
どっと歓声が上がった。茶色い髪をゆるく束ねた娘が、静かに宙へ手をかざしている。
「沙千乃さん……!」
その少女こそ、胡音と腹違いの妹――蓬生沙千乃であった。