1-2.外堀を固めろと申します
ニライ海に浮かぶ、六つの島々。西洋人が呼んで東洋の腕輪――円状に連なる島を住むものたちが天津原と名づけて久しく、今は憲貴帝が即位し三十八年。天津原ができて千年少しの時間が流れた。
憲貴歴三十八年、五ノ月十一日。望月が帝州の中央、都からも大きく見える夜に。
蓬生家長女、胡音の人生は大きく変わることとなる。
○ ○ ○
(なんで?)
胡音は今、緊張の極みにあった。女中部屋に逃げ隠れたはいいが、十分もしないうちに父に呼びつけられたのである。しかも、客間に。
(今、客間には月黄泉さまがいるんだよね? な、なんでわたしを呼んだんだろ……)
粗末な着物も、先ほどの騒ぎでまくれた乱れは直してある。伯母からもらったかんざしは黒いマガレイトに刺しておいた。かがりには大事なものを持って、と言われたものの、その髪飾りくらいしか思いつかない。
下男が無言で先導し、二人で洋館側へと入る。こっちの方にはほとんど胡音は来ない。義母のゆいと腹違いの妹、沙千乃がよく利用しているからだ。
(二人と顔、あわせたくないなあ)
どこからか柔らかい蓄音機の音がかすかに響く中で、そう思う。
圭太郎の後妻となったゆいが、自分を見下していることくらいわかっていた。沙千乃は蓬生家の跡取りとして、すでに強い能力を開花させている。
力のない――むしろ疫病神同然の胡音は役立たず、ごくつぶしと呼ばれ、小間使いとして生きていた。それを庇ってくれていたのは死んだ伯母、琴子だ。
(お父さまと顔あわせたら、また切られちゃいそうになるんじゃ)
痛いのはいやだな、と肩を落としたとき、下男が足を止める。はっと気づけば客間の前に着いていた。
「旦那様、連れてまいりました」
「……入れ」
強張った父の返答で、胡音の足がすくむ。だが、ここで逃げ出すわけにはいかない。神霊に礼を失することなかれ、それは琴子にきつく言い聞かされていたことだ。
「し、つれい、します」
怖々と声を上げ、扉を開ける。もう、こうなればやけである。
「君が胡音だね」
それでも怖い。顔をあわせないようにうつむいて中に入れば、穏やかで、澄み渡った男の声がした。どこか甘さも帯びた声音は落ち着いており、思わず胡音は顔を元に戻す。
圭太郎と向かい合わせで、ソファーに腰かけていた青年と視線があった。
(わ、わあ……)
若菜を思わせる髪は高くで一本縛りにされており、ほつれた部分がまた、群青の着物に艶やかさを帯びさせている。銀色という人外の瞳はたれ目がちだが、決して柔弱な様子は感じさせない。笑む唇は形がよく、肌の白さもそこらの女子に負けず劣らずだ。
整った美に絶句した胡音を見てか、彼は瞳を細めて微笑む。
「こんばんは、胡音。私は月黄泉。宙に座する輝ヶ國の三輝神が一人だ」
「えっ、あっ……」
柔らかい笑みに、胡音の頭は真っ白になった。神霊と出会った際の礼儀、言葉がパッと思いつかなかったのだ。
それでもすぐさまおもてを伏せ、深々と一礼し、御礼を述べる。
「つ、月黄泉さまにおかれましては、い、いつもご神力を賜りまして」
「そんなに堅くならなくても平気だよ。楽にしてくれていい」
「お言葉ですが月黄泉さま。この娘は女中でございます。あなたさまにお目にかかることすら、通常は許されない立場でしょう」
「女中? 琴子の姪御、あなたの実子が小間使いとはどういうことなのかな」
圭太郎の苦み走った声に反応したのは、月黄泉だ。
「はい……恥ずかしながらこの娘。胡音は蓬生家に伝わる鎮魂の『神禍』を使えないでおります。そればかりか、外に出ては低級霊や祟り神をつけて帰ってくる始末」
「なるほど、琴子とは違うね」
「ええ、それはもう。我が姉は歴代の中でも飛び抜けた才がありましたが、長女のこれときたら、てんで。妹の沙千乃は現在十五にして『神禍』に目覚めておるのですが」
「そう」
おもてをそのまま、胡音は黙っていた。頬が恥辱でほてってしまう。だが、事実だ。
人の魂や神霊、荒ぶる霊魄となしたものを抑えて鎮める力――『神禍』。それが蓬生家に伝わる能力だった。はるか神代のとき、巫女として活躍していた蓬生家の女に、神々が与えた恩恵といわれている。
(伯母さまは、すごい人だったもんね)
琴子のことを思う。肺病で、ひっそりと死んだ伯母のことを。
どんなときでも微笑みを絶やさず、あらゆる神霊に愛された存在。母を早くに亡くした胡音は、小さいころ、琴子に面倒を見てもらっていた。能力がないのにかかわらず、だ。それが父には気に食わなかったのかもしれない。
(月黄泉さまも、伯母さまのことを知ってるんだろうなあ)
先ほどの月黄泉の言葉からして、彼が伯母のことを認知していることは理解済みだ。が、それと自分がどう関わってくるのだろう。
「いや、親ばかですが、沙千乃は器量がよく『神禍』の能力も強くてですな」
「悪いが蓬生卿、その妹君に興味はないんだ。私が今日屋敷におもむいたのは、そこにいる胡音を娶るためだよ」
「……は?」
「へあ?」
圭太郎の気が抜けた返事ののち、胡音もまた顔を上げて目を丸くした。
「ど、どういう理由ででございますか、月黄泉さま! 沙千乃ならともかく、このような出来損ないを……」
「琴子の遺言、言霊を守るためにだね」
「伯母さまの遺言……?」
つぶやけば、またもや彼と目が合う。神秘的な銀の瞳は、優しい光をたたえていた。
「言霊の契りというのを、君は聞いたことがあるかい、胡音」
「は、はいっ、それは。人と神霊の約束は神聖な言葉によって交わされ、違えることをしてはならないって……」
「そのとおり。琴子は自分に何かあった際、君のことを私に託している」
「おば、さまが」
「琴子が冥土に旅立った今、私と彼女との間で交わした約束は履行されるんだ」
「そんな話、姉からは一言もっ。家の恥さらしを三輝神である御身へ嫁がせるなど!」
まくしたてるようにがなる圭太郎へ、月黄泉が視線を戻す。瞳は刀剣のように鋭い。
「私はね、蓬生卿。姉のように寛容でもないし、弟のように優しくもないんだよ」
それは通告にも似た脅しだということを、一瞬にして胡音は理解した。神は気まぐれ、そして冷酷であるという伯母の言葉がよみがえる。
父もそれを悟ったのだろう、真っ青な顔でぶるぶると体を震わせたままだ。
「あなたが胡音に危害を加えようとしたこと、命を奪わんとしたことは知っている。困るね、言霊の契りを守れなくなるのだから」
「も、申しわけ……」
「胡音」
「は、はあ」
頭を下げる圭太郎を無視し、月黄泉は立ち上がる。
彼はそのままゆっくり近づいてきた。身長は五尺程度の胡音よりかなり高く、五尺八寸はあるだろうか。胡音はつい、見とれるように彼のおもてを見上げてしまう。
次の瞬間、優しく頬を両手で挟まれた。
「ぜひ私と夫婦になってほしい」
これ以上なく愛おしそうな月黄泉の言葉。
ぼっ、と顔から火が出たと胡音が気づいた刹那、緊張が頂点に達する。
そして――
「……胡音?」
月黄泉の怪訝そうなせりふが、意識の中に溶け消えた。
胡音は情けなく、失神したのである。