3-3.いやだいやだと申します
季節外れに咲いた紫の花は、柔らかい風にそよそよとその身をくゆらせていた。
(やだ)
胡音の心臓が、脈が速まる。全身に血が行き渡り、体がほてる。指の先まで熱くなる。息が上手くできない。呼気を吐き、吸い、胸元に当てた手をぎゅっと握った。
(やだ……やだよ、なんでこんな、苦しいの)
琴子の顔が思い浮かぶ。慈しみと厳しさ、両方を兼ね揃えたおもて。微笑めば麗しく、怒っても凜然としていた伯母は、控えめにいっても美しい。
それと比べて自分はどうだろう、と胡音は両手を見た。白くない手、あかぎればかりの指、平凡な容姿。どれをとっても伯母の代わりになんてなれるわけがなく、浮かべた笑みが崩れていく。
「胡音?」
「……わ、たし」
月黄泉の呼び声に、胡音は小さくかぶりを振った。何を口にすればいいのかわからずに。
もう一度、勇気を出して外を見た。
どこまでも広がる桔梗を背に、月黄泉がこちらを見つめている。
「降りておいで、何も怖いことはないから」
どのような思いで、彼は自分へ手を差し伸べているのだろうか。笑顔を浮かべて。幸せそうにして。
(……疲れた)
一気に虚無感が押し寄せて、力なく月黄泉の方へと視線をやった。相変わらずの笑みを浮かべ、首をかしげる彼は、一面の桔梗によく似合う。
(どうでもいいや、もう)
彼の側に、琴子が今でもいるのだとしたら。
彼の心の中を占めるのが、伯母であるのなら――
胡音は疲労と失望で一筋に唇を結び、馬車から降りる。
刹那、さあっと音を立て、風が花をさらった。夕暮れ空の橙に、それでも紫の濃い色は負けていない。
「見せたいものがあるんだ、こっちへ」
「月黄泉さま」
「うん?」
間が開く。目をまたたかせる月黄泉を見つめ直し、胡音は怖々と――それでもいつもよりははっきりと、疑問を口にする。
「この間。うつろいと戦った夜に、琴子伯母さまと会ってましたよね」
直後、彼の顔が少し、うろたえたように歪んだ。そして月黄泉にしては珍しく、自分から視線を外す。
「あれは……とりたてて何もないよ」
「わたし、見てました。伯母さまだって思ってついていったから。月黄泉さまのところに伯母さまは行ってたし」
「……会っていたとして、何が言いたいのかな、胡音は」
冷たく言い返され、一瞬、胡音の内心は掴まれたように縮み上がった。
相手は神様だ、気まぐれで冷酷だ――と、もう一人の自分が警告を鳴らす。もう一人の自分は吐き出せ、気持ちをぶつけてしまえと背中を押してくる。
「わたし、月黄泉さまと夫婦になりたくないです」
いっそ素直に吐き出しても、月黄泉は何も言わない。目をすがめ、笑みを消したまま、微動だにしなかった。
「伯母さまとの契約で、わたしを守ってくれたことには感謝してます。でも、琴子伯母さまの代わりになるのはいやです」
「琴子の……代わり?」
彼の言葉に、胡音は怒気にも似た、冷徹な何かが含まれていることに気づく。それでも不思議と怖い、恐ろしいとは思わなかった。
「わたし、こんななりで、情けなくてみそっかすで出来損ないの役立たずですけど。伯母の代わりにお嫁になんてなりたくないです」
「琴子の代わりになど」
は、と息を吐き、月黄泉が嘆くようにささやく。
「琴子の代わりになど、誰もなれない」
「だったらわたしはいらないですよね? 言霊の契りは確かにあるかもしれませんけど、それに縛られているわけでもないし」
「君は、ずいぶんと契約ごとを軽んじているね」
「そうかもしれません。でも、わたしを軽んじているのは、月黄泉さま。あなただと思います」
よくもまあ、と胡音は内心で笑った。場違いにも苦笑が漏れた。
神に対し、よくもここまで強気に出られたものだ。斬り伏せられて終わっても文句は言えないだろう。
だが、月黄泉は激昂することもなく、無表情でこちらを見ていた。
「君の本当の望みは?」
「帰ることです、現世に」
「そう」
いつも被せられる「行くあてがないだろう」とか「だめ」という言葉は、返ってこなかった。だだっ子を相手にするかのような嘆息が、彼の口から漏れ出る。
「わかった。なんとかしよう。常世の食べものを食しているから、少し手間取るけれど」
「……お願いします」
胡音は頭を下げる。それを無視し、月黄泉が自分の横を通り過ぎたことを察した。
「これから館に帰るけれど、君はどうする」
「少し一人になりたいです。かがりちゃんに迎えに来てもらうこと、できますか」
「かがりに伝えておく」
今までとは打って変わって、興味の失せたような様子で彼は馬車に乗りこむ。
(神様は気まぐれ。冷酷。わかってる)
胡音は伯母の言葉を思い返していた。ほらね、とも内心で感じる。
(結局わたし、何にもなれてないな)
自嘲して月黄泉へと背中を向けた。しばらくののち、馬車が走り出す。一人きりの世界に取り残され、胡音はそれでも平坦な、まっさらな気持ちで道端に立ち尽くしていた。
「馬鹿だなあ」
馬車が姿を消したのち、つぶやいてその場にしゃがんだ。赤とんぼが周囲を飛び回り、桔梗を揺らすのを見つめながら。
「もう少し言い方、あったかもね」
はあ、と今まで溜めていた分の呼気を全部、吐き出す。
しかし彼は、琴子との逢瀬を否定しなかった。そこで理由でもちゃんと話してくれれば、また思うことも違っただろうが。
「……理由なんてあるのかな。伯母さまとただ、思い合ってただけなんだろうし」
花に止まったとんぼ、その羽根を指先でつつきつつ、どこまでも続く夕空を見た。
なぜか鼻の奥がツンと痛い。涙が溢れそうになる。悔しさからか、辛さからか、それとも別の何かからだろうか。答えは出ない。わからないままだ。
「う~……」
と、太ももへ押しつけるように、背中を丸めたそのときだった。
「おい、娘。こんなへんぴな場所で何してる」
「……へあ」
急に野太い声がして、顔を上げる。
山の麓側――桔梗の花畑の合間にある道をこちらに向かってくる男が、いた。




