1-1.逃げるが勝ちと申します
叩かれるのも蹴られるのも、水を浴びせかけられるのも、もういい。だが。
「はっ、は……はあッ……」
――斬られて殺されるのだけは、とても痛そうでいやだ。
「胡音ッ! このごくつぶしが、ワシの顔を潰しおって!」
実父の怒鳴り声に答えることもなく、少女――胡音は夢中で屋敷中を逃げ回っていた。
蓄音機にぶつかり、ふすまの紙を破りつつ開け、ときには花瓶につまずきながら、背後より追ってくる父の凶刃から逃れようと必死にあがく。
(外、外……はだめ、鍵かかってる。どうしよう、どこに行こう、どこに逃げよう!)
洋館の客室から全力で走ること、今は和館との間にある厨房を過ぎた場所にいた。
周囲を見渡す。使用人たちがなにごとかと胡乱な視線を投げかけてきていたが、愛想笑いなど振りまいている場合ではない。
離れの方に隠れようと思い立ち、和館の広間向こうへ行くことに決めた。まくり上がった着物のすそが邪魔くさい。崩れた装いすら直す暇がなかった。
「胡音を捕らえろ! 今度という今度ばかりは許せんっ」
背後からの怒号を背に、走る。何かが蹴られ、父が抜いた刀で物が切られる音もする。
必死に逃げ続け、だが、もう息も限界だ。体力も尽きてきた。
(や、やっぱりわたし、疫病神なんだ……)
きゅっと唇を噛みしめ、先程あった出来事を脳裏に思い浮かべる。
父、圭太郎の取引相手であるという、とある男爵。酒の席でちまちま動いていた自分を見てか、お酌をさせよう、と冗談交じりに笑ってきたことはまだよかった。
問題は胡音自身に低級霊――ここ、天津原の帝州に浮遊する悪しき霊魄が、数体取り憑いていたことだ。
蓬生家は古来より霊魄、すなわち神や霊の鎮魂を行う一族である。とりわけ数年前に亡くなった胡音の伯母、琴子は稀代の能力者であった。帝州の上空に座する神都・輝ヶ國全ての神や霊に愛された事実は、人々の記憶にもまだ残っているだろう。
だが、彼女を看取った唯一の親族……すなわち胡音は、一族に伝わる能力を使えないどころか、自身に害なす悪霊を祓うことすらできない。気づくこともできない。
買い出しの最中にだろうか――自分に取り憑いた狐火が、お酌をしているさなかに暴走。スーツを焦がされ、指に少々の火傷を負った男爵は不機嫌になり、早々に帰っていった。
不愉快で気色が悪いと胡音に告げ、圭太郎には仕事の契約を打ち切るとまで言い出したのだから、父子の顔が青を通り越して白くなるのも無理はない。
結局、激昂した父に追いかけ回され、胡音は命の危機に瀕している、というのが今までの経緯だ。
(でも、働かなきゃご飯ももらえないし……外に出ないのは無理だから……)
「見つけたぞっ、胡音! この役立たず、不吉な小娘め!」
「ひっ」
和館の通路を走っていた胡音のすぐ側に、部屋を近道で回ってきたのだろう。圭太郎が現れた。その手には、大刀。行灯にぎらりと光っている。
「ご、ごめんなさい、お父さま……わたし、もう何もしませ……」
「黙れ! 今まで目をかけてきてやった恩を忘れておってからにッ! ワシの姉の言葉があって生かされていたのを忘れたか!」
「わっ、忘れてませんっ。琴子伯母さまにはお世話になって、お、お父さまたちにも」
「言葉ではなんとでも言えるわっ。ええい、我慢も限界だ!」
じりじりと近づく父から逃れようと、胡音は後退った。が、壁にぶつかってしまう。
「死ね!」
「旦那さま! 大変です、旦那さま」
強張る胡音の体、その頭上に太刀が振り下ろされる直前だ。
「何の用だ、かがりっ」
胡音と同じく女中のかがりが、大声で圭太郎の動きを止めた。
たすきがけをそのまま、未だ声すら上げられない胡音をよそに、かがりは一呼吸を置いて告げる。
「神都、輝ヶ國からお客人です」
「……何?」
唖然とした様子で、圭太郎が太刀をだらりと下ろした。
「三輝神が一柱、月黄泉さまがおいでです」
「なっ」
息を飲んだのは圭太郎だけではない、胡音も同じくだった。
「な、なぜ三輝神の月黄泉さまが下界に……?」
「わかりません。旦那さまに会いたい、とおっしゃっていますが」
一瞬、静寂が辺りを包んだ。次いで、太刀が落ちる音が響く。
「着替えを! 誰か、着替えをっ。いや、すぐに月黄泉さまを客間にお通ししろ!」
何事か、と胡音たちを見ていた小間使い、女中たちは、圭太郎の一声ですぐさま動く。
(たす、かった)
床へ膝から崩れ落ちた胡音は、目の前に落ちた刃を見て肩を震わすことしかできない。もはや圭太郎の目に、自分は映っていないようだ。
それは当然だろう。古来、この天津原を作ったとされる原初神イキナミ――その正当な力を継ぐ太陽の耀御神、海の荒緒神、月の黄泉神と呼ばれる三輝神。その一柱が下界に降りるなど、たとえ神霊と親交の深い土地、帝州においてもごく稀なことなのだから。
「胡音さん、さ、今のうちに部屋へ」
「か、かがりちゃん」
「大丈夫です。何か大切なものを持って待ってて下さいね」
「どういうこと?」
怒号のように周囲へ指示を飛ばす圭太郎を見つめつつ、胡音は仲間の言葉に眉をひそめた。しかし、かがりは意味ありげな笑みを浮かべるだけだ。
(……かがりちゃんの言うとおりにした方が、いいよね)
またいつ、気が変わって斬り伏せられるかわからない。ぶるりと身を震わせて、胡音はかがりにうなずいた。
幸い、女中部屋は客室より遠く、今の父の目に入らない場所にある。なぜ『すごく偉い神さま』が来たのか胡音にはさっぱりわからないが、逃げてほとぼりが冷めるまで待つのは、今のうちだ。
かがりに「ありがとう」とささやいて、胡音はこっそり立ち上がる。
怒声が響く中、それらを背に逃げるようにして、一人で部屋へと戻っていく。
とてもみじめな気がした。泣きたくなくて天を仰げば、中庭から、大きく白い望月が見えた。なぐさめてくれるような月明かりが、柔らかくてとても、優しい。