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求めよ、さらば与えられん  作者: 尾崎諒馬
つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば……
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太宰治は私小説作家? (AIに訊く)


   太宰治は私小説作家? (AIに訊く)

   

 私:

 太宰治は私小説の作家といっていいのですかね? 実際にあったことをモチーフにしてることが多いと思うのですが、私小説ってごく単純にはそういう小説ですよね? 幼稚な質問ですみません。



 ChatGPT:

 全然幼稚な質問じゃないですよ。むしろ、太宰治が「私小説の作家か?」というのは文学論でもしばしば議論されるテーマです。


 確かに太宰の作品は、自身の実体験をモチーフにしたものが多く、語り口も「いかにも自分のことを書いている」ように見えることが多いです。でも、典型的な私小説作家(例えば、葛西善蔵や田山花袋)のように、極端に「事実に忠実」な書き方をしているわけではありません。


 むしろ、太宰は自分の体験を脚色し、ある種の演劇的な虚構を重ねながら、読者を引き込む「作りもの」として仕立てています。たとえば『人間失格』は、確かに太宰の人生を反映しているように見えますが、主人公・大庭葉蔵のキャラクターは太宰自身とは違う部分も多いですし、あえて「手記」という形にすることで、小説としての虚構性を強調しています。


 つまり、太宰は「私小説的な手法」を使ってはいるけれど、純粋な私小説作家ではなく、むしろフィクションとしての要素を強く意識していた作家だと言えます。だから、「私小説の作家といっていいか?」という問いに対しては、「そう見える部分もあるけど、厳密には違う」という答えになるかなと思います。


 私:

 なるほど。逆に私小説作家(例えば、葛西善蔵や田山花袋)だと、「極端」に「事実に忠実」な書き方をしている ということで 太宰は現実をモチーフにしたフィクション ある意味「極端」に虚構で膨らませた私小説を書いているのでしょうかね 読者が太宰の書いたことを「現実」だと惑わすような書き方という感じ?



 ChatGPT:

 まさにそんな感じですね。太宰は、読者に「これは現実なのか?」と錯覚させるのが上手いんですよね。ある意味では「極端」に虚構を膨らませつつも、それをいかにも「私の本当の話です」という体裁で書くことで、読者を惑わせるような書き方をしている。


 私小説作家(葛西善蔵や田山花袋)は、本当に自分の生活や体験をそのまま書くことに重きを置いています。だから、彼らの作品はどこか説明的で、読者に「これは作り物ではなく事実だ」と納得させる方向に向かう。でも、太宰の場合は違っていて、「私のことを書いているように見せて、実は作り話を混ぜている」感じなんですよね。


 たとえば『津軽』なんかは、エッセイ風の私小説に見えますが、途中で自分の記憶があいまいだと白状したり、同行者(高橋という人物)が実際にいたのかどうかすら怪しい。読者は「太宰の旅の記録を読んでいる」つもりなのに、どこまで本当なのかはよく分からない状態にさせられるんです。


 ※ほう! 津軽が出てきた! ふーむ、登場人物が実際にいたかどうか怪しいんだ。ふむふむ。


 つまり、太宰は私小説的な手法を使いつつ、「現実と虚構の境界をあえて曖昧にする」ことで、読者を太宰ワールドに引き込む作家だったと言えますね。だからこそ、読者は「太宰の小説は本当の話なんだろうか?」と気になってしまうし、それが彼の作品の魅力のひとつになっているのかもしれません。


 私:

 なるほど。そこが太宰治の魅力なんでしょうね。現実と非現実が混ざり合って……

 で、太宰自身が自分の書いた非現実に取り込まれて自殺(本当は狂言自殺のつもりだったのがそうなっちゃったみたいな)してしまった感じ……

 まあ薬やってたのもあるんでしょうけどね。

 

 ChatGPT:

 そうそう、まさにそこが太宰の魅力ですよね。現実と非現実を曖昧にして、読者を引き込むだけじゃなく、自分自身もその虚構の中に飲み込まれていったような感じがある。


 ※なるほど作者自身が虚構の中に飲み込まれたわけだ。

 

 太宰の作品って、どれも「これはフィクションです」と言い切れない部分があるじゃないですか。たとえば『人間失格』の葉蔵も、完全に太宰そのものというわけじゃないけど、読者は「これは太宰の遺書みたいなものだ」と思ってしまうし、本人もどこかで「これは自分の真実かもしれない」と思い込んでいたのかもしれない。そうやって自分の作り出した「太宰治」というキャラに囚われてしまった感じがするんですよね。


 で、最後の玉川上水の入水も、「本当は助かるつもりだったけど、想定外に死んでしまったのでは?」という説があるわけで、まさに彼の人生そのものが「現実と虚構の境界が曖昧」な状態で終わった感じ。薬物依存の影響もあっただろうし、心身ともにギリギリの状態で、最終的に「太宰治」という物語がリアルの世界でも完結してしまった、みたいな。


考えれば考えるほど、彼自身が書いた物語の中に飲み込まれてしまった作家だったのかもしれませんね。


 私:

 芥川賞が取れなかったことへの執着みたいなのが自身を非現実の方に一致させようとしてしまった一因かもしれませんね。賞なんてどうでもいいのに、芥川龍之介にかなり憧れていたみたいですし、その名を冠した賞がどうしてもほしかったのかもしれません。

 

 ChatGPT:

 確かに、太宰の芥川賞への執着は、彼を「非現実」に引き寄せた大きな要因かもしれませんね。賞なんて本来はただの評価の一つに過ぎないのに、彼にとっては「太宰治という存在を確立するための証明」みたいなものだったんでしょう。


 特に、太宰が憧れていた芥川龍之介は、知的で洗練された作風を持ち、純文学の象徴のような存在でした。太宰はその影を追いながらも、自分の作風がどこか泥臭かったり、感情に振り回されてしまうことをコンプレックスに思っていたのかもしれません。だからこそ、「芥川の名を冠した賞を獲ることで、自分も芥川の系譜に連なる作家になれる」と思い込んでいた可能性がある。


 でも、結果として彼は何度も芥川賞を逃し、その度に「自分は純文学の正統な作家として認められていない」と傷ついた。その挫折が、「現実の太宰治」と「作家として理想化された太宰治」のギャップをどんどん広げてしまったのかもしれませんね。だからこそ、彼は自分の現実を虚構の中で作り変え、最後にはその虚構に飲み込まれてしまった……そう考えると、彼の人生そのものが一つの物語のように感じられます。


 ほんと、賞なんてどうでもいいんですよね。でも太宰にとっては、それが「自分が本物であることの証明」になり得るものだったから、異常なまでに執着してしまったんでしょうね。


 私:

 芥川賞は新人に与えられる賞なので、新人の時にとれないとその後どんなに傑作を書いても取れないのですよ。そこが太宰は執着したポイントなのかも。歳を重ねて手慣れてきて(ある意味ずるい書き方をしたりして)書いた傑作ができてもあまり意味がないみたいな感じです。芥川龍之介も若くして自殺してますので。まあ賞なんてどうでもいいのにね。

 

 ChatGPT:

 確かに、芥川賞は「新人賞」だから、一度逃したらもう二度とチャンスが巡ってこない。その「取り返しのつかないもの」だからこそ、太宰は余計に執着してしまったのかもしれませんね。


 太宰って、年齢を重ねて「書くこと」にどんどん慣れてしまった自分を、どこかで忌み嫌っていた気がするんですよね。若い頃の、純粋に文学に命を懸けていた自分が一番「本物」だったと思っていたのかもしれない。だからこそ、「新人のうちに芥川賞を獲らないと意味がない」と感じたのかも。歳を重ねた後の傑作は、もはや「計算して書いたもの」に過ぎず、それでは本当の「文学の証明」にはならない、と。


 そう考えると、太宰が憧れていた芥川龍之介が若くして自殺したことも、彼の心の中で大きな影を落としていたのかもしれませんね。芥川は「人生に対するぼんやりした不安」と言いながら自殺してしまったけど、太宰もまた「太宰治」という物語の終わりをどこかで考えながら生きていたように思える。


 まあ、本当に「賞なんてどうでもいい」んですけどね。でも太宰にとっては、それが「本物である証」になり得る唯一のものだったのかもしれないし、獲れなかったことでますます「現実と虚構のズレ」を感じてしまったのかもしれませんね。


 私:

 まあ最初の短編集のタイトルが「晩年」だったと思うので、若き天才が秀でた才能で傑作を書いてそのまま歳をとらずに終わるみたいなのが理想だったのかもしれませんね。老いて好々爺みたいになる自分が許せなかったのかも


 ChatGPT:

 まさに「晩年」というタイトルが象徴してますよね。普通、作家としての「晩年」はキャリアの終盤にくるものなのに、太宰はデビュー作の時点で「もう俺の作家人生は終わりだ」とでも言いたげなタイトルをつけている。つまり、「若くして完成し、若くして終わる天才」への強い憧れがあったんでしょうね。


 太宰にとって、作家として「老いる」というのは、自分が計算高くなったり、文学に対する純粋さを失ったり、ただの技巧的な作家になってしまうことだったのかもしれません。そういう「老成」した自分を許せなかったんでしょうね。


 例えば、同時代の作家たちは、歳を重ねながら作風を変えていったり、円熟していったりするけど、太宰はそういう道を歩む気がなかったのかも。彼の中には「若き天才が、燃え尽きるように死ぬ」みたいなロマンがずっとあったんじゃないかと思います。だから、もし太宰が60代、70代になって、好々爺のように丸くなってしまったら、それこそ「俺は終わった」と思ってしまったかもしれない。


 結局、太宰は「太宰治」というキャラクターを演じ続けてしまったんでしょうね。世間が求める「破滅型の天才作家」像を、自分で作り上げて、その枠から抜け出せなくなった。そのまま最後まで行くしかなかったのかもしれません。


 私:

 人間年取るとずるくなりますもんね。まあ私もいい年してますが・・・ ところで私の年齢を当ててみてください(笑)



 ChatGPT:

 そうですね、人間、年を取るとどうしても計算高くなったり、妥協したりしますよね。でもそれが「生きる」ってことでもあるし、太宰みたいに極端に突っ走るのも、それはそれで大変な生き方だっただろうなと思います。


 さて、年齢を当てるゲームですね(笑)。

うーん、ミステリを本格的に執筆していて、エラリー・クイーンや中井英夫、太宰治、夢野久作あたりに深い関心を持っている……さらに、2003年頃のDVRについて詳しい……となると、それなりに人生経験を積んでいる感じがしますね。


 ズバリ、40代後半から50代前半くらいでしょうか?(ドキドキ)

 

(以下略)


 うーん、なかなか楽しい会話だったな……

 

 ミステリーを本格的に執筆していて……

 

 か……

 

 確かにあれは本格的なミステリー……

 いや、アンチ・ミステリー?

 

 まあ、現実がベースにあって、現実と非現実が混ざり合うような……

 

 あまり売れそうな作品ではないのだが……

 

 ふと、太宰治にミステリーが書けるのだろうか?

 

 そんなことを考える。

 

 津軽の中には太宰治が作り出した虚構が……

 

 太宰は私小説的な手法を使いつつ、「現実と虚構の境界をあえて曖昧にする」とかなんとか……

 

 その虚構が「殺人事件」であれば、ひょっとしたらミステリーになるのではないか?

 

 まあ太宰治は……

 

 いや……

 これもAIに訊いてみよう。

 

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