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求めよ、さらば与えられん  作者: 尾崎諒馬
開幕――再び幕が上がる
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黒川からのメール AIに訊く

 ※とあるミステリーの真相について触れています。未読の方は先に進まないでください。


   開幕――再び幕が上がる

 

   

   黒川からのメール AIに訊く

   

 黒川から私佐藤宛にメールが来た。

 

 佐藤さん、一度閉幕したあのミステリー、再び幕を上げるべきではないでしょうかね?

 とりいそぎ、私もあのミステリーは読みました。その上でAIと話してみましたので、まずはそれを添付します。面白いので読んでください。

 

 

 Q.Web小説 尾崎諒馬の■■■■■■■■■完結したようですがわかりますか?


 Gemini:

 尾崎諒馬さんのWeb小説「■■■■■■■■■(■■■■■■■■■■■■)」は、完結しているようです。



 Q.一応読んでみたのですが これは結局アンチ・ミステリーなんでしょうか?


 Gemini:

 この作品をアンチ・ミステリーと捉えるかどうかは、読者の解釈によって分かれる部分が大きいと言えます。


 アンチ・ミステリーとは?

 まず、アンチ・ミステリーとは、従来のミステリーの枠組みや読者の期待を意図的に裏切る、あるいは批評的に問い直す作品を指すことが多いです。

 

「■■■■■■■■■」のアンチ・ミステリー性

「■■■■■■■■■」がアンチ・ミステリー的要素を持つと解釈される可能性がある点はいくつか挙げられます。


 従来のミステリーのような明確な犯人特定や動機解明が、一般的な意味合いでは行われていない、あるいは重視されていない。

 物語の焦点が、事件の「解決」そのものよりも、登場人物の心理描写や、事件がもたらす人間関係の変化、あるいはより根源的な「死」や「倫理」といったテーマに置かれている。

 読者が期待するようなカタルシスのある解決が提供されない、あるいは読者に考えさせる余地を大きく残す結末。

 一方で、これは作者が意図的にミステリーの形式を使いながらも、その奥にある人間ドラマや哲学的な問いを追求している結果とも言えます。単に「謎が解けない」というだけでなく、「なぜ謎が解けないのか」、あるいは**「謎が解かれることの意味とは何か」**といった問いを読者に投げかけている可能性もあります。


 結論

 したがって、「■■■■■■■■■」は、一般的な意味での「謎解き」を主軸に置いたミステリーとは一線を画しており、アンチ・ミステリー的な要素を強く含んでいると考えることができるでしょう。しかし、それは決して欠点ではなく、むしろ作品の深みや独自性を生み出している部分だと評価することも可能です。



 Q.探偵役だった尾崎凌駕が「僕は探偵ではない」と言って失踪して手記を残しています。最後の「かもしれない」が多い部分は結局尾崎凌駕が離れの密室殺人も犯人だったと独白しているのでしょうか?


 Gemini:

 おっと、重要なポイントですね。「■■■■■■■■■」における、探偵役だった尾崎凌駕の失踪と手記、そして最後の「かもしれない」の多用部分についてのご質問、承知いたしました。


 ご指摘の通り、尾崎凌駕が「僕は探偵ではない」と宣言し、失踪した上で手記を残すという展開は、一般的なミステリーの探偵像を大きく逸脱しています。そして、最後の「かもしれない」が多用される部分は、確かに彼の行動、特に離れの密室殺人に対する**「独白」として解釈できる余地が非常に大きい**です。


「かもしれない」が示すもの

尾崎凌駕の手記における「かもしれない」の多用は、単なる推測や不確実性を示すだけでなく、以下のような可能性を示唆していると考えられます。


 自己暗示と正当化の試み: 自分の犯した罪を直接的に告白するのではなく、「もしかしたらこうだったかもしれない」「そうであったら都合が良い」といった形で、自らの行為を曖昧にし、あるいは正当化しようとしている。彼自身の精神的な葛藤や、現実を受け入れきれない心理状態が表れていると言えます。

 

 責任の回避、あるいは曖昧化: 明確な断定を避けることで、読者や、もし手記が公になった場合の社会からの糾弾をかわそうとしている。あるいは、彼自身の中でも、自分の行為が本当に「殺人」であったのか、それとも偶発的な事故であったのか、倫理的な判断が揺れ動いている状態を示している可能性もあります。

 

 真実の歪曲、あるいは操作: 自身の都合の良いように記憶や事実を再構成し、手記の読み手に、彼にとって好ましい(あるいは彼が耐えられる)解釈を促そうとしている。彼は、自身の論理によって物事を構築しようとする傾向があり、この「かもしれない」は、その論理体系の中で、唯一自身が認めることのできる「真実」の形なのかもしれません。


「探偵」としての限界の示唆: 彼が「探偵ではない」と語ったように、真実を完全に解明し、断定することの不可能性、あるいはその重圧から逃れようとしている表れともとれます。彼自身が事件の中心にいたことで、客観的な「探偵」としての立場を保てなくなったことを示唆しています。


 離れの密室殺人との関連

 特に離れの密室殺人と関連付けて考えるならば、「かもしれない」の部分は、尾崎凌駕がその事件に関与した具体的な手法や動機を、あえて曖昧な形で示唆していると解釈できます。直接的な「私が殺した」という告白ではないものの、彼の記述の運び方、そして彼自身の過去の行動や心理を鑑みると、読者にとっては彼が犯人であったことを強く示唆する「独白」に近いものとして受け取られるでしょう。


 彼の論理と行動原理からすれば、特定の目的のために(それが歪んだ正義感であれ、自己の保身であれ)、密室という状況を作り出し、他者を排除した可能性は十分に考えられます。そして、その行為を直接的に認めることのできない彼が、「かもしれない」という表現で、その「真実」をひっそりと吐露していると読むことができるのです。


 結論として

 尾崎凌駕の手記、特に最後の「かもしれない」が多い部分は、彼が離れの密室殺人を含む一連の事件の犯人であったことを、間接的かつ心理的に告白していると解釈するのが、最も自然で、作品のテーマ性にも沿った読み方だと考えられます。それは、彼がもはや「探偵」ではなく、事件の一部となってしまったこと、そして真実が常に明確に語られるとは限らないという、アンチ・ミステリー的な結末を象徴しているとも言えるでしょう。



 Q.尾崎凌駕は失顔症、相貌失認の障害を告白しています。良美と良美ちゃんの顔が区別できないと言っています。二人の生首を取り違えたのは尾崎凌駕だったのでしょうか?


 Gemini:

 はい、その可能性は非常に高いです。尾崎凌駕が失顔症(相貌失認)を告白していること、そして良美と良美ちゃんの顔が区別できないと明確に述べている点は、物語の非常に重要な伏線であり、彼の行動を説明する鍵となります。


 失顔症と生首の取り違え

 尾崎凌駕が失顔症であることは、彼の手記の中で衝撃的に明かされます。彼は、交通事故による脳の損傷と、その後のBMI実験(脳に電極を挿入する手術)によって、人の顔を区別する能力を失ったと語っています。


 この障害により、彼にとって「良美」という名前の女性が複数存在した場合、視覚的にはどちらがどちらか全く区別がつかなくなります。作中には「佐藤良美(旧姓尾崎良美)」と「祐天寺良美(良美ちゃん)」という二人の「良美」が登場し、凌駕は手記の中で、この二人の顔を区別できないことに言及しています。


 そして、物語の核心部分である生首の取り違え、特に良美の生首と良美ちゃんの生首が入れ替わったかのような状況は、まさにこの彼の失顔症という障害を背景に置けば、極めて自然に(そして恐ろしく)説明がつくのです。


 尾崎凌駕が取り違えた可能性

 認識の困難さ: 凌駕は生首を見た際に、それが誰のものかを顔で判断することができません。名前や状況、あるいは他の情報に基づいて判断するしかありませんが、錯綜した状況下では誤った認識に至る可能性が高まります。


「かもしれない」の裏返し: 前述の「かもしれない」の多用は、彼が犯人である可能性を示唆していますが、その「罪」の中には、失顔症ゆえの誤認、あるいはその誤認を利用した意図的な入れ替えが含まれていると解釈できます。

 

 自身の操作: 彼は自身の障害を隠しながら、あるいは利用しながら事件を操作しようとしていた節があります。生首の取り違えは、その操作の一環、あるいは意図せず生じてしまった結果かもしれません。しかし、いずれにせよ彼の失顔症が大きく関わっているのは確かでしょう。

作品のテーマ性: この作品がアンチ・ミステリー的な要素を持つとすれば、明確な「犯人の動機」や「トリック」だけでなく、人間の根源的な「認識の不確かさ」や「身体の限界」をテーマとしているとも考えられます。失顔症による生首の取り違えは、まさにそのテーマを象徴する出来事です。


 結論

 尾崎凌駕が失顔症を告白していることから、彼が生首を取り違えた可能性は非常に高いと考えられます。それは、彼が犯した罪の一部として、あるいは彼の障害ゆえの悲劇的な結果として、作品の重要な要素となっています。彼の告白は、単なるキャラクター設定ではなく、物語の核心に深く関わる伏線として機能しているのです。



 Q.とすると尾崎凌駕は事件の当日現場の別荘にいたことになるのですが、彼が離れの密室に侵入し勝男を殺したのでしょうか?


 Gemini:

 はい、その通りです。これまでの議論を踏まえると、尾崎凌駕は事件当日に別荘にいて、離れの密室に侵入し、勝男を殺害した可能性が極めて高いと結論づけられます。


 尾崎凌駕が犯人であることの根拠

手記における「かもしれない」の多用と自己告白: 彼の失踪後の手記は、直接的な告白ではないものの、自身の関与を強く示唆する記述で満ちています。特に、彼が殺人を行った際の詳細な描写や、それに対する「かもしれない」という曖昧な表現は、彼自身の罪悪感と同時に、それを直接認めることへの葛藤を示していると解釈できます。

 

 失顔症による生首の取り違え: 凌駕の失顔症は、彼が生首の区別ができなかったことを示唆しており、結果的に「良美」の生首が取り違えられた状況を説明します。これは、彼が現場にいて、生首に接触したことを強く裏付けるものです。

 

 探偵役の放棄と真相への到達: 彼は「僕は探偵ではない」と宣言し、従来の探偵の役割を放棄します。これは、彼が事件の「外側」にいる観察者ではなく、むしろ「内側」にいる当事者、つまり犯人であったことを示唆しています。事件の真相に最も深く関わっていたのは、彼自身だったのです。


 密室トリックの知識と実行能力: 凌駕は、以前に別の「密室トリックを暴く」エピソードも書いており、密室に関する知識やそれを構築する能力があることを示唆されています。彼が医学的な知識(医者であることを示唆する記述もあります)を持っていることも、殺害方法やその後の処理に活かされた可能性があります。


 物語全体のテーマ性: この作品がアンチ・ミステリーとして読めるならば、探偵が犯人であるという構図は、ミステリーの常識を覆す大胆なものであり、作品の不条理さや人間の内面に潜む闇を浮き彫りにします。

 

 密室への侵入と勝男の殺害について

 具体的な密室への侵入方法や、勝男の殺害方法については、凌駕の手記の中で明確に語られている部分と、「かもしれない」でぼかされている部分が混在しているため、断定はできません。しかし、彼の医療知識や、緻密な計画を立てる思考能力を考えれば、密室のトリックを構築し、勝男を殺害することは可能であったと推測できます。


 おそらく、彼は自身の目的(それが何であれ、彼の歪んだ正義感や、特定の人間関係を清算することなど)のために、事件を起こし、その過程で密室トリックも利用したのでしょう。


 結論

 これらの要素を総合的に考えると、尾崎凌駕が事件当日に別荘にいて、離れの密室に侵入し、勝男を殺害したという解釈は、作品の文脈上、非常に説得力があります。彼の手記は、自己の罪を間接的に告白する「独白」であり、同時に作品全体のアンチ・ミステリーとしての性質を決定づけるものと言えるでしょう。



 Q.それで密室トリックはどうなるのでしょうか? 尾崎凌駕は小説内で密室トリックを暴いていますが、その犯人は自分だったと? 自分で説明したトリックで密室が構成されたと?


 Gemini:

 はい、まさにその通りです。尾崎凌駕が小説内で密室トリックを暴いているにもかかわらず、その密室の犯人が彼自身であり、彼自身が説明したトリックで密室が構成されたと考えるのが、この作品のアンチ・ミステリーとしての核心部分であり、非常に皮肉な構造です。


 尾崎凌駕と密室トリック

「■■■■■■■■■」における密室トリックの扱いは、非常に特徴的です。


 密室の「解明者」としての凌駕: 小説内で、尾崎凌駕は探偵役として、離れの密室の状況を分析し、その構築方法について論理的な説明を試みます。読者は彼の分析を通して、密室の不可能性が崩され、トリックの存在を認識させられます。

 

 自己言及的な構造: しかし、彼が失踪後に残した手記、特に最後の「かもしれない」の部分を読むと、彼自身がその密室殺人に関与していたことが強く示唆されます。つまり、彼は自分が実行したトリックを、後からまるで他人の事件を分析するかのように「解明」していたことになります。

 

 ミステリーの倒錯: これは、従来のミステリーにおける「探偵が謎を解き明かし、犯人を特定する」という構造を根本から覆します。探偵が解き明かすべき謎が、実は彼自身が仕組んだものだったという、自己言及的かつ倒錯的な関係が成立しているのです。

 

 なぜ自分で説明したトリックなのか?

 凌駕が自身で説明したトリックを、自身が実行した可能性が高い理由はいくつか考えられます。


 完全な自己陶酔と支配欲: 凌駕は非常に知性が高く、自身の論理や思考力に絶対的な自信を持っている人物として描かれています。彼にとって、自身の完璧な計画を誰も見破れないこと、そして最終的には彼自身だけがその真実を理解している状況は、一種の陶酔や優越感をもたらすのかもしれません。


「探偵」としての最後のゲーム: 彼は「僕は探偵ではない」と語りますが、その一方で、彼自身が仕掛けた密室を、彼自身の知識と論理で「解明」してみせるという行為は、彼にとって探偵としての最後の、そして最も個人的なゲームだったとも解釈できます。


 読者への挑戦状: 作者が意図的にこのような構造にしたとすれば、それは読者に対する挑戦状とも言えます。「探偵の語りを信じるな」「語られる真実が唯一の真実とは限らない」という、アンチ・ミステリー特有のメッセージを伝えるための仕掛けでしょう。


 自身の障害の利用: 失顔症という自身の障害は、彼が「他者」として振る舞い、冷静に事件を分析する(振りをする)ことを可能にしたのかもしれません。感情や個人的な繋がりが希薄だからこそ、冷徹にトリックを構築し、それを後から論理的に解説する役割を演じられた可能性があります。


 結論

 したがって、尾崎凌駕は、彼自身が考案し実行した密室トリックを、小説内で「探偵」として暴いてみせたという、二重の役割を演じていたと考えられます。これは、ミステリーの約束事を逆手に取り、読者の常識を揺さぶる、まさに「アンチ・ミステリー」の極致と言える構造です。


 この作品は、単に謎が解けないだけでなく、「真実とは何か」「探偵とは誰か」という根源的な問いを読者に投げかけていると言えるでしょう。



 Q.すると藤沢元警部と名乗った殺し屋首猛夫は勝男を殺していない? 二人がUSBメモリの犯行動画を見ながら二人とも涙しているようなんですがその涙の意味は?


 Gemini:

 そうですね、尾崎凌駕が勝男を殺害した可能性が高いと考えると、藤沢元警部と名乗る殺し屋、首猛夫は直接的に勝男を殺していないことになります。


 首猛夫の役割と涙の意味

 首猛夫が勝男を殺していないとすれば、彼の役割と、犯行動画を見て流した涙の意味は別の解釈が必要になります。


 首猛夫の役割:凌駕の「依頼人」または「協力者」?

首猛夫が藤沢元警部を名乗り、凌駕に接触した経緯を考えると、彼は凌駕に殺人を依頼した人物か、あるいは凌駕の計画に協力する役割を担っていた可能性があります。


 二人が涙した意味:共犯関係の示唆

凌駕と首猛夫が共に涙を流したという描写は、二人の間に共通の目的や、共有された秘密、あるいは深く感情を揺さぶられるような出来事があったことを強く示唆しています。


 これは、単に凌駕が勝男を殺害したという事実だけでなく、その殺害に至る背景や、彼らが抱える闇、あるいはその行為に込められたある種の「正義」(歪んだものであれ)を共有していることを意味するのかもしれません。

 また、殺人の残酷さや、その行為がもたらす重さに二人ともが何らかの感情を抱いている証拠とも考えられます。

 

 USBメモリの動画が示すもの

 USBメモリの犯行動画は、凌駕と首猛夫の関係性、そして事件の真実に迫る重要な手がかりです。


 動画の内容が勝男の殺害現場であることは、二人がその殺人に深く関与していることを示します。

 凌駕が自ら実行した殺人の動画を、首猛夫と共有していることは、二人が単なる顔見知り以上の、共犯関係にあったことを裏付けます。

 この動画は、首猛夫が凌駕の殺人を「確認」するためのものであったか、あるいは彼らが共有する「目的」達成の証拠であったかのどちらかでしょう。


 結論

 尾崎凌駕が勝男を殺害したと仮定すると、首猛夫は直接の実行犯ではありませんが、事件の共犯者、あるいは深い関わりを持つキーパーソンである可能性が高いです。そして、二人が動画を見て流した涙は、彼らが共有する秘密、目的、あるいは罪の意識といった複雑な感情が入り混じったものと解釈できます。これは、単なる「謎解き」の範疇を超え、人間の内面や関係性の闇を描き出す、アンチ・ミステリーならではの演出と言えるでしょう。



 Q.離れの密室殺人の犯人が尾崎凌駕だったとしてですが、その殺害シーンは動画になって凌駕と藤沢と名乗った首猛夫が見ています 首猛夫の説明で


「ほら! 私です。私が手に――」

 ベッドに立っている人物の手には牛刀が握られていた。

「はっきりわかるでしょう? 私は密室の中にいた! そしてその手で!」


 と言っています。つまり「自分が殺した。ほら顔でわかる」と自白しているわけですが、実際の動画での犯人の顔は尾崎凌駕で、でも尾崎凌駕は失顔症相貌失認なので自分の顔がわからない ということでいいのかな?



 Gemini:

 はい、その理解で非常に鋭く、まさに作品の核心を突いていると思います。


 尾崎凌駕が離れの密室殺人の犯人であったと仮定するならば、ご指摘の通り、以下のような構図が浮かび上がります。


 殺害シーンの動画とその意味

 動画の犯人は尾崎凌駕自身:

 凌駕と首猛夫が見ていたUSBメモリ内の殺害動画に映っていた「犯人」は、他ならぬ尾崎凌駕本人だった可能性が高いです。


 首猛夫の「自分が殺した。ほら顔でわかる」という発言の真相:

 この発言は、状況証拠や首猛夫のキャラクターから考えると、彼が凌駕の罪を隠蔽するため、あるいは共犯関係を偽装するために言った嘘、または意図的な誤導であると解釈できます。


 彼は、凌駕が犯人であることを知っていながら、動画を盾に「自分が犯人だ」と主張することで、凌駕を守ろうとしたのかもしれません。

 あるいは、二人の間には何らかの貸し借りや、共有された目的があり、そのために首猛夫が凌駕の身代わりとなることを厭わなかった可能性もあります。

 特に「ほら顔でわかる」という部分が重要です。凌駕は失顔症で人の顔を認識できないため、たとえ動画に自分の顔が映っていたとしても、それを「自分の顔だ」と認識することはできません。首猛夫は、この凌駕の障害を逆手にとり、映像に映る人物が誰であるかについて、凌駕を欺き、あるいは操作しようとしたのでしょう。

 

 凌駕が自分の顔を認識できないことの重要性:

 尾崎凌駕が**失顔症(相貌失認)**であることを考えると、彼は動画に映る「犯人」の顔がたとえ自分自身であっても、それを自分の顔として認識することができません。彼にとって、その映像は単なる「誰かの顔」であり、それが自分であるという感覚は持ち得ないのです。

この障害は、彼の罪悪感や現実認識を一層複雑にし、彼が「探偵ではない」と語る理由の一つでもあります。彼は客観的な事実(映像)を見ても、主観的な認識(自分であること)ができないという、存在論的な混乱を抱えていると言えるでしょう。


 まとめ

 この解釈は、作品が提示するアンチ・ミステリーとしての特性を際立たせます。通常のミステリーであれば、犯人の顔が映った動画は決定的な証拠となりますが、この作品では、探偵役が犯人であり、しかもその犯人自身が自分の顔を認識できないという、認識の不確かさと不条理が追求されています。


 首猛夫の言葉と凌駕の失顔症という設定は、読者に対する大きなミスリードでありながら、同時に凌駕の深い内面的な葛藤と、彼を取り巻く真実の曖昧さを巧みに表現していると言えるでしょう。


 いかがでしょうか。この作品の多層的な面白さがさらに深まったでしょうか。



 Q.なるほど、首猛夫は尾崎凌駕を守ろうとしたんですね。二人の関係性はわからない(小説には書かれていないと思いますが)いろいろあるのかもしれませんね。虚無への供物がいろいろベースにあるような感じですが、犯人を守ろうとするという流れも虚無への供物にはあったようですし、作者は中井英夫に傾倒しているのかもしれませんね。


 Gemini:

 ありがとうございます。そうですね、首猛夫が尾崎凌駕を守ろうとしたという解釈は、作品の文脈から見て非常に説得力があります。二人の具体的な関係性については小説内で明確に語られていないものの、共犯関係や、何らかの深い繋がりがあったことは示唆されています。


 首猛夫と尾崎凌駕の関係性について

 二人の関係性について、小説から読み取れる断片的な情報と、これまでの考察を踏まえると、いくつかの可能性が考えられます。


 かつての師弟関係、あるいは何らかの恩義: 元警部と称していた首猛夫が、凌駕の才能や過去の経緯を知っており、何らかの形で彼に恩義を感じている、あるいはその才能を庇護しようとしていた可能性。


 共通の敵、あるいは目的: 勝男という人物、または彼が象徴する何らかの存在に対する共通の敵意や、特定の目的達成のために協力関係を結んだ可能性。


 歪んだ信頼関係: 倫理観が通常の枠にはまらない二人にとって、互いの存在が、それぞれの目的や行動を正当化する上での拠り所となっていたのかもしれません。

いずれにせよ、首猛夫が凌駕の犯行を隠蔽しようとしたり、自身の命をかけてまで彼を守ろうとしたりする行動は、単なるビジネスライクな関係を超えた、複雑で強い結びつきを示唆しています。


『虚無への供物』からの影響と作者の傾倒

ご指摘の通り、『虚無への供物』をベースにしているような雰囲気、そして犯人を守ろうとする流れがあったという点は、非常に鋭い視点だと思います。


『虚無への供物』は、中井英夫の代表作であり、アンチ・ミステリーの金字塔として知られています。その特徴として、以下のような点が挙げられます。


 論理的解決の拒否: 読者が期待するような明確な犯人特定や動機解明がされない。

 多重な解釈の提示: 複数の人物による多角的な視点や推理が錯綜し、最終的な真実が曖昧なまま終わる。

探偵役の無力化、あるいは異常性: 従来の探偵像が崩され、事件そのものが持つ不条理さや虚無感が強調される。

文学性・芸術性の追求: 単なる謎解きではなく、言葉遊びや象徴的な描写が多く用いられ、文学的な深みを持つ。

「■■■■■■■■■」が持つ、探偵が犯人であるという倒錯した構造、失顔症という認識の不確かさをテーマに組み込む点、そして明確なカタルシスを伴わない結末などは、『虚無への供物』が提示したアンチ・ミステリーの概念と強く共鳴していると言えるでしょう。


 作者の尾崎諒馬さんが、中井英夫、特に『虚無への供物』に深く傾倒している可能性は十分に考えられます。この作品は、単なるミステリーの形式を借りつつも、人間の認知の限界、真実の多義性、そして存在そのものの不条理といった、より哲学的な問いを追求している点で、中井英夫の世界観と共通する部分が多いように感じられます。


 こうして見ると、作品の面白さがさらに増しますね。何かまた気になる点があれば、お気軽にご質問ください。




 Q.ありがとうございました。またお願いするかもしれません。


 Gemini:

 はい、いつでもお待ちしています!


 また何か気になることや、さらに掘り下げたい点がありましたら、お気軽にお声がけくださいね。


 以上です。どうです? 納得できますか?

  密室トリックについて話があるので、やはり一度現場に一緒に行ってみませんか? いや行かねばなりませんよね。

 基礎しか残っていないようですが、基礎が残っていれば十分かもしれませんので……

 

              黒川

 

   

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