73 その人は誰?
年が明け、一瞬で1月はもう最後の週に入った。東京はずっといいお天気で、4日の練習始めからほぼ毎日レッスンは満員状態だ。2月14日にライセンステストがあるせいか、1月のレッスンスケジュールは通常クラスを減らしてライセンス対策クラスを3倍くらい増やしている。割り増し料金が発生するのに、どこもキャンセル待ちの大盛況。だから、私みたいな下っ端インストラクターだって中級者向けコースの指導に駆り出される。何しろ去年トラブった飯森さんが最近は私に頼ってくるくらいだもの…
「 ほら、ここ見て下さい。障害バーの手前で馬が二の足を踏んでるでしょ。飯森さんの合図が早いんですよ 」
「 あらあ… 本当ね。乗ってると全く気が付かないのよ 」
「 それは飯森さんがバーの方に気を取られているからです。馬の歩調を感じながら踏切のタイミングを図って下さい。内方前脚の動きで分かります 」
タブレットに写る自分の騎乗ビデオに飯森さんは神妙に見入っている。この人、最初はわがままおばさんだったけど最近は本当に練習熱心だ。
「 ありがとう。わかりやすくて勉強になったわ。次も撮影頼むわね 」
飯森さんは辺りを見て、そっと私にポチ袋を渡す。チップだ。私は少し大げさに頭を下げた。
「 ありがとうございます。いつも助かります 」
「 いいのよ… 私もあんたなら気を使わなくっていいから助かるの 」
「 欲しかったピアスとネックレスのセットを買いますね。うれしい、10万円するんで、高くて手が出なかったんです 」
「 まあ、10万ぽっちで可哀そうに… もう少し弾んであげるわ 」
飯森さんはポケットからブランドの財布を出すと、1万円札を雑に抜き取り私に押し付ける。毎度のパフォーマンスだけど、私の目は喜びと感動ですでにウルウルだ。
「 こんなにたくさん… いいんですか 」
「 私、娘がいないからこうしてあんたと話すのが楽しいのよ。息子の嫁どもは気が強くて可愛くなくてさ… 買ったら見せてちょうだい 」
「 ええ、必ず!!」
嬉しそうに馬を引いて退場する飯森さんを笑顔で見送る私。姿が見えなくなるまでその場から離れない。
本当は、アクセサリー2万5000円なんですけど… サバを読むのもお客を喜ばせるコツですね!進藤チーフ、ご教授ありがとうございます!
「 まあ、如月先生、寒かったでしょう、おかえりなさい!」
いきなり後ろから黄色い声がガンガン響く。振り返れば真っ赤なウェアを着たおばあさん、アレだ、如月恭平親衛隊の番長格。遠くから馬を引いてやってくる如月チーフを早速キャッチしてる。チーフの横にはピンクの勝負服を着たおばさまが寄り添ってる。去年入った新入り会員だけど如月チーフにひと目惚れで、毎日来ては洗い場で出待ち。今日は念願の個人レッスンを受けたからまだ顔が夢見心地だ。
「 大川さん、お疲れ様でした。馬を手入れして厩舎にもどしましょうね 」
「 先生こそ、とてもいいレッスンで良かったです。噂通りのわかりやすい説明で驚きました 」
「 渡辺さんお待たせしました。準備は大丈夫ですか? 」
「 もちろん、今日は聞きたいことがたくさんありますの、早く馬場へ行きましょう 」
「 先生これ… 気持ちですけどまた宜しくお願いします 」
ピンク婦人の出したぶ厚い熨斗袋は多分1本(100万円)入ってる。きゃー、レッド婦人の顔が一気に怒りで引きつってる。
「 初めて個人レッスンを受ける方からはチップはもらわないんです。お気持ちだけ受け取ります 」
やんわり断られて泣きそうなピンクの手をさりげなく包む如月チーフの瞳は、犯罪級に甘く切ない。
「 次のレッスンでお会いできたら必ず受け取りますよ 」
「 …ええ、必ず予約入れます… 」
放心状態のピンクから目線をレッドに移すと、如月チーフはさっと雰囲気を変えた。
「さあ、渡辺さん、今日もやる気ですね!3級合格までしごきますよ!」
「 やあだ、先生ったら怖いわ 」
「 慣れている人だから言えるんですよ、行きましょう 」
「 うふふ、先生ならいくら厳しくても頑張っちゃう 」
レッドと馬場へ降りていく如月チーフの背中を見つめるピンク。なんだかんだ言って、二人ともイタいおばさんだな。でも今日レッドが渡すチップは、1本越え確実だ。
女嫌いのくせに、ポイントは押さえますね、如月チーフ…
お手本接客を見て戻ろうとした私の背中に、いきなり予想外の声が響く。
「 北岡君、ちょっと待って 」
如月チーフが坂を上がって私の方に駈けてくる。えええ、やめてよこのタイミング。しかも近すぎ。軽くフリーズする私の耳元で、恭平さんはそっと囁く。
「今晩、脱毛の予約あるから早めにアパートに戻って待ってて 」
「 はい、わかりました、やっておきます 」
そんなの今言わなくてもいいのに…意味不明の返事でごまかしたけど、レッドとピンクの視線がモロ背中に刺さって怖すぎる。もう逃げるのみ。私は汚れたタオルを抱えて、この場からダッシュで離れようとした。
「 ちょっとあんた、馬を洗うから手伝いなさいよ!」
さっきとは別人みたいなピンクの鬼顔に、私は再度フリーズ。
「 …… わかりました 」
駄目だ、こりゃしばらく目をつけられる。当分この人達の前ではチーフとのニアミスは避けないと…
「 ここは私がやりますので、お客様はお戻りください 」
タオルを戻して馬の曳き縄を掴みひとつ上にある厩舎に走って逃げる。もお、定時まであと30分なのに、家に帰れないよ…
最近、恭平さんはしょっちゅう私と夜を過ごす。脱毛、エステ、化粧品の買い出しとか理由はあるけど、なんだか私を理由に雄太さんを避けているような気配があるんだよなあ。いつもお互いの部屋を行き来してるはすなのにどうも年明けから雰囲気がおかしい。何かあったのかもしれないけど、聞くのも変だし。ま、いっか、今日のご飯はファミレスでハンバーグセットを食べようっと。チーフは今日1本もらえるから奢ってもらってもいいよね。
「 北岡、進藤だけど聞こえるか 」
馬を止めてインカムに耳を当てる。雄太さんの声がいつもより緊張してる。
「 はい、聞えます」
「 すぐ事務所に戻れ いますぐだ 」
「 え、でも今から馬の手入れが 」
「 そんなの後でいい。とにかくすぐ戻れ 」
一方的に切れるインカム。もおお、何なの? こっちの都合も考えてほしいのに。ムッとした私は馬を引いて坂を駆けあがる。馬場からはレッドの楽しそうな笑い声が聞こえる。全く、今日はろくなことがない1日だったわ。
でも、実は私の1日は、これで終わらなかった。
走って事務所に戻ると、進藤チーフが相本部長と険悪な雰囲気で睨み合ってる。私を見ると脇のテーブルに置いてあるレンタルの乗馬服を取って押しつけた。
「 今からビジター騎乗をするからお客様の着替えを手伝ってくれ 」
「 ビジター?今からですか 」
「 進藤、もし何かあっても俺は知らないぞ 」
相本部長の鋭い声を無視して進藤チーフは部屋を出る。私は慌てて付いていくけど、チーフは何もしゃべらない。こんな時間にビジター騎乗なんてやらないのに、何事だろう。そのままロビーへ続くドアが開いた。進藤チーフの歩く先に、女の人が3人座っている。2人は結構年のいった女性だけど、もう一人は若い女の人だ。チーフは真っすぐ若い人の前に行くと、いきなりお姫様だっこでその人を抱き上げた。
「 北岡、更衣室に行くから付いてこい 」
目がテンの私に怒鳴るとそのまま歩いていく。何この、展開。訳も分からず後を追いかけながら、女の人の様子を盗み見た。
きれいな黒髪、細い躰、ずっと目を閉じて手はしっかり進藤チーフの首に回している。多分、この二人は知り合いだ。でも誰だろう?
真っすぐ歩く進藤チーフの背中が、何も話しかけるなと無言の圧をかけているのが少し私を不安にさせた。




