⑦ 虚しい白日夢
「ねえ、どうして私からの気持ちは受け取って下さらないの?」
中年とおぼしき女のヒステリックな叫びを無視して、恭平は馬場と通じる坂道を上り厩舎へ向かって速足で歩いていく。女はヘルメットを地面に叩きつけて恭平の後を追いかけた。恭平が厩舎前の洗い場で馬につなげるリードロープを手に取ったところで女は恭平の前に立ちはだかった。目が、既に据わっている。
「ここの倶楽部は個人レッスンの時はチップを認めるはずでしょ、どういうことですの?」
「確かにそうですが…受け取るかどうかは私が決めます」
「他の会員さんからは普通にもらっているじゃないの!」
女はベストの内側から分厚い封筒を取り出した。恭平はそれを冷ややかな目で見降ろす。
「あなたからは、受け取れません」
「私は客よ!そんな失礼な口の利き方が許されると思って…!」
「あなたは、私に乗馬の指導ではないことを求めています」
女は途端にうろたえ、目が泳ぐ。恭平は構わず続けた。
「初めからあなたの気持ちはわかっていました。だから、指導料はいただいてもそれ以外のものを手に取る気はありません」
「如月先生、私は…」
「僕は指導員です、ジゴロではない」
女の顔から血の気が引いていく。踵を返して恭平はその場を離れようとした。女は駆け寄り、膝をついて恭平の足にしがみついた。
「お願い、先生、1度でいいの、私に夢をみさせて…!」
恭平は前を見据えて答えない。
「先生と出会って、やっと女の自分を取り戻せたの。乾いて味気なかった毎日が先生の姿を見るだけでバラ色に変ったわ…あなたに、嫌われたら、生きていけない」
「離してください」
「1度だけ…そうしたら私、この倶楽部をやめてもいい。だから、1度だけ!」
恭平は足を思い切り後ろに蹴って女をふりほどいた。勢い余って尻もちをついた女は悲鳴をあげ、落ちた封筒から大量の1万円札がこぼれ落ちた。
「お客様、次からは別の者をご指名ください」
「先生…」
「今後とも、こちらで乗馬をお楽しみください。私の見えない所で」
そのまま恭平は奥の厩舎へ歩いて行った。女は散らばった1万円札の中心で、声を上げて泣き始めた。
無表情の恭平が通り過ぎた厩舎の窓から、1人の男がひょいと顔をのぞかせた。恭平の後ろ姿をそっと見送ると、傍らの馬にキスをしてほおずりする。一見は結構な美少年風の顔立ちだが、いかにも狡猾そうな笑い顔を満面に浮かべている。
「ねえ聞いた?もったいないな。1回だけなら、僕だったら喜んでもらっちゃうけど」
「岸谷天雅」と書かれた名札をつけたその男は、嘲るような視線を泣いている女に送って馬の頭を撫で続けた。
続