53 別れの愛撫
玄関のドアが開く音がした。居間と台所を仕切る引き戸は閉じていて向こうは見えない。でも来たのは間違いなく如月チーフだ。私は背を向けて床に座り、下を向いていた。もう、辛くもないし、胸もときめかない。早くこうなれば楽だったのだろうけど、胸に詰まっていたたくさんの物が一気に抜け落ちた感じは寂しくてただ虚しい。
「 雄太も一緒だけど、入っていい? 」
返事はしなかった。わざとじゃないけど、口を開く気力がない。引き戸が開いた。振り返った私の目に入ったのは、穏やかに笑う如月チーフの顔と引き戸の外に立っている進藤チーフの顔だ。進藤チーフの表情はいつもの圧がなくて全く雰囲気が違う。なんだか上品な家のお坊ちゃまみたいだ。
「 北岡さんを脅していた犯人が分かったよ。もう大丈夫だから、よかったね 」
如月チーフの言葉は私の胸に響かない。今となっては、私には関係ないことだもの。
「 私、倶楽部をやめます 」
「 どうして ?」
「 ここにいると、辛いことばかりで耐えられません 」
「 何が辛いの 」
「 何もかも…… 」
「 俺とユウのこと、黙っててごめんね 」
私はさっき見たばかりのキスシーンを思い出した。男の人同士のキスなんて初めてだけど、ちっともいやらしくなくて代わりにすごく愛し合っているのが伝わってきた。その分、誰も私を愛していないことが惨めで悲しくて、如月チーフの優しい言葉が針みたいに私の胸を刺す。
「 でもね、俺たちは北岡さんをからかったりしてた訳じゃないんだ 」
「 もういいです。私は北海道へ帰ります 」
「 でも家はないんでしょ?」
「 観光地のホテルに行けば住み込みで雇ってもらえますから 」
「 そんな仕事なんか君には向いてない 」
「 ここにいるよりはましだわ 」
棘のある言い方が自分の胸までヒリヒリさせる。如月チーフの言っていることは本当だ。私は馬と関わる事しか出来ない不器用な人間なのに、色々な人と上手におしゃべりする仕事なんて絶対無理。それでもこのまま幸せな二人を見ながらひとりで生きるのは、もっと無理…
「 何とかいう馬がいたろう。買い戻して一緒に暮らすんじゃないのか 」
進藤チーフが静かに言った言葉が、私の縮こまった胸を締め付ける。オペレッタ、今は別の名前をもらって新しい道を歩いている。あの子も、私を必要としていないんだ。
「 オペレッタは諦めます。私ひとりでは飼育することは無理です」
顔を上げた。どうして二人とも優しい顔で私を見るんだろう。
「 諦めるのは早い。サラは4,5年で引退して30年近く生きる。牧場さえ見つかれば引退競走馬はただ同然で渡してくれるよ」
「 如月チーフ、私の告白にまだ答えてくれてませんよね 」
如月チーフは私の横に座った。煙草と香水の匂い。温かくて大きな胸を思い出して、手が震える。その手の上にチーフの手が重なった。
私は振られる。泣くな、全部終わったら、笑ってさようならを言って別れよう。一人になったらネットで辞表の書き方を調べて明日人事部長に……
ひとりで北海道に戻るんだ。仲良しの会員さん、孝之、100頭を超える馬たち、もう会えなくなる。やっとみんなと打ち解けて話せるようになったのに。
如月チーフ、進藤チーフ。こんな結末を迎えるのなら、何も知らない時にもっと思い出を作れば良かった。
明日から、どうやって暮らしていくか考えないと……
如月チーフは何も言わない。手はしっかり私の上重ねられて、温もりが逃げないように時折優しく握りしめ、柔らかい愛撫を繰り返していた。




