㊾本当の悪意~明らかになる真実に震えるのは?~
如月チーフが振り返るまでにどの位時間がかかったかよくわからないけど、厚手のジャケットに顔を埋めている間、私は幸せだった。服越しに伝わるチーフの体温は暖かくて、小さい頃に父さんにだっこされた感触とよく似ていた。手を振りほどかれても、突き飛ばされてももう構わなかった。
私は消えるんだ。冷たい身体になる前の最後の温もりが如月チーフならそれで充分ここまで生きた甲斐がある。
オペレッタ、迎えにいけなくてごめんね… 私は心の中で謝った。
如月チーフは腰に回した私の両手を外すと抱き上げ、ベッドへ向かって歩いていく。そっとベッドに座らせると、着ていたジャケットを脱いで私の体を包んだ。
「 そんな恰好をしたら、体が冷えるよ 」
チーフは私を見ている。すごく優しくて、穏やかな顔。
「 私は…… 子どもだからダメなんですか 」
「 そうじゃない。前も言ったけど、俺は… 」
「 だったら、どうして裸で一緒に寝たりしたんですか 」
チーフは黙って視線を落とした。
「 言って下さい。面白がってからかったんでしょ?私の気持ちに気づいて、わざと冷たくしたり、優しくしたりして 」
「 北岡さん、頼むから話を聞いてくれないか」
「 もう何も聞きたくない、帰って、早く出て行って 」
高ぶった感情を抑えきれずに、私は涙で翳む声を必死に振り絞って叫んだ。如月チーフの顔は変わらす穏やかで、私をまっすぐ見ている。そんな目で見ないで。やっと決まった覚悟が揺らいで、またあの苦しい現実に戻らなくてはいけなくなる。嫌、これ以上はもう耐えられない。私は台所に走った。包丁はどこ、確か床に落としたはず……
「 やめろ! 」
チーフが私の腕を掴んで居間に引き戻した。全身で抵抗する私の手を握り、腰を抱えて強く抱き寄せる。ジャケットが床に落ちて、裸になった私はチーフの腕の中にすっぽりと包まれた。
「 嫌だ……、死なせて 」
チーフの胸から離れようともがく私の顔に大きな手が伸びて、次の瞬間柔らかい何かが唇に触れた。私は体の動きを止めた。
冷たくて甘い匂いの髪が頬に当たる。馬場で初めて会ったシーンがそのまま蘇ったけど、赤い血の滲んだ顎の傷跡は見えない。代わりに、少しいがらっぽい煙草の味が唇を覆った。
私は如月チーフのキスを受けながら、背中を抱く彼の手の平を火傷しそうに熱く感じていた。
軽く重ねて一度離れたチーフの唇は、今度は深く私を包み込んだ。舌が静かに絡まって、息遣いまでも伝わってくる繊細な波動に呼吸がシンクロしていく。小さく喘ぐ私を抱きしめると、チーフは床に倒れこんだ。白いコットンのシャツのボタンを外すと、裸の逞しい胸が私の小さな乳房に重なった。握りしめた私の右手を取って自分の顔に押し当てると、チーフは顔を私の首筋に埋めた。私はビクッと体を震わせた。
怖い…… 自分からこんな格好になっておきながら、すごく怖い…
「 離れて下さい…… やっぱり怖い… 」
「 絶対死なないと誓うまでは、離れない 」
チーフの手が、腰の方へ降りていく。ダメ、そこには触れないで、私は激しく首を振った。
「 誓います! もう死にたいなんて言いません!だからお願い… 」
最後の言葉を告げる前に、外で大きな音がした。バイクのエンジンをふかす低い地鳴りのような音と同時に、キッチンの窓ごしに外から明るい光が放たれる。如月チーフは起き上がって素早くシャツのボタンを留めると、私を抱き起しジャケットを着せた。
「 俺が出たらすぐに鍵をかけて服を着ろ。いいと言うまで絶対にあけるんじゃないぞ 」
チーフはドアを開けて外へ出て行った。
私は、座ったまま動けなかった。死を決めた直後に受けた初めてのキスに、まだ心も体も動揺している。とりあえず鍵をかけて、脱いだスウェットの上下を身につけた。いけない、乱れた髪を直さないと…
ブラシをもって洗面台へ行き、鏡を見た私は茫然とした。
鏡の中には、見たことのない女が映っていた。
熱を持ったうるんだ瞳に、ピンク色に火照った目尻がいやらしい。軽く開いてめくれた唇は、滲んだルージュが輪郭を隠してキスの激しさを見せつける。乱れた髪をはらうと、下から薔薇色に燃える頬が顔を出した。
これは私じゃない。私だけど私じゃない。
これが、愛する人からもらったキスの証…
生まれ変わった私を責めるように、小指が自然と淫靡な下唇を撫でた。
恭平は外階段をダッシュで降りた。アパートの奥に止められたバイクのライトがポストの前に立つ雄太を照らす。駆け寄ると、もう一人小柄な中年女が怯えた顔で立っていた。この人は見覚えがある。恭平はハッとした。
「 馬場コースの村内さんですか?」
「 どうして、如月先生までここに… 」
「 村内さん、もうあきらめて下さい。そのポストに脅迫文を入れるところをカメラで撮ってます。この件については三条会長に了解を取っています 」
「 北岡の鞍を破損したのも、あなたですか 」
恭平の厳しい声が飛ぶ。女はその場に座り込んだ。
「 私だって、こんな事したくなかった!…… あの小僧に脅迫されてどうしようもなかったのよ! 」
女のひきつるようなうめき声が響いた。雄太はポストを開け、A4の紙に書かれた文字を恭平にかざした。「 ここを出ていけ。次はお前を殺す 」とワープロで打ち込まれた文字に、恭平は深く息をついた。
アパートの敷地に1台のセダンが滑り込む。雄太から一報を受けた相本と川野が車から降りてくると、2人はすぐに状況を察して顔色を変えた。
本当の悪意の主は、別の場所で笑っている。
女を囲む4人の男達それぞれの胸に、同じ思いが暗い影を落としていた。




